夏が終わる頃には
◎2022年7月企画
ちりんちりんと涼しげな音を鳴らす風鈴がなんとなく周囲の気温を僅かに下げてくれているような、そんな不思議な感覚。駅前に吊るされたそれを見ながら、眩しい日差しに目を細め大きく息を吸い込んだ。
「お待たせ」
「元也、久しぶり」
「暑かったろー?中で待っててもよかったのに」
「大丈夫。ここの方が元也の使う線から近いし」
「いいのにそんくらい」
ありがとと笑う彼に私も笑い返して足を踏み出した。目的地は私の家。ここから徒歩八分の場所にある、なんの面白みもないワンルームのアパートだ。
「聖臣だけじゃなくてナマエまで大阪に行っちゃうとは」
「でも全国転勤で出して大阪なんてラッキーだよ」
「確かに。けどどうせなら静岡くればよかったのに」
「静岡って実際何があるの?」
「……お茶?」
「ちゃんとPRしてよ静岡人」
「俺もまだ行って三ヶ月しか経ってないんだからな」
離れ離れになって三ヶ月も経った。たったの三ヶ月じゃないかと言われそうだけど、小さな頃から一緒だった私たちからすればとても長い期間だ。お互い進学した大学は違ったけど、こんなにも会わない日はなかったから。
「なんかシンプル」
「引っ越してきたばっかで荷物少ないしねー。実家に置いてきたものいっぱいあるし」
「俺の部屋もそんな感じ」
「聖臣の部屋は元々物少ないからあんまり変わってなかったよ」
「え、なに、行ったの?」
「うん。先月一回だけだけどね」
元也が幼馴染ならば、もちろん聖臣だって同じくそう。気難しそうに見えて案外優しい彼は、ここから少し離れてはいるものの同じ府内なので会おうと思えば気軽に会える距離にいる。
「泊まっていいか聞いたら断られたんだけど」
「じゃあ今日はホテル?」
「いや、無理やり押しかける」
「うわ、入れてもらえるのそれ」
「わかんねー」
ケラケラと笑いながら差し出した麦茶を口に含んだ元也は、この三ヶ月間にあった事を面白おかしく話し出す。
同じ小学校に通って、同じ中学校に通って、同じ高校に通った。大学は違ったけど、近所だったしよく遊びに行ったり予定を合わせて出かけたり、常に一緒に過ごしてきた。
聖臣も元也もプロのバレーボール選手になって、別世界の人になってしまった気がしたけど、こうして話すと今までと何も変わらなくてとても安心する。
「でもなんか寂しー」
「どうして?」
「俺だけじゃん、離れたの」
まさか元也がそんなことを言い出すとは思わなくて思わず目を見開く。若干不貞腐れたような表情を見せた彼は、「俺の知らないところで聖臣とは会ってるみたいだし?」と言いながら、結露するグラスを指でなぞった。
「会ったって言ってもこの三ヶ月で二回だけだよ」
「そうじゃなくってさぁ」
口がうまい彼がこうして言葉に迷うのは珍しい。続きを待つように黙り込んだ私にジトっとした視線を寄越して、彼はもう一度拗ねたように「俺んとこにも来いよ」とギリギリ聞き取れる程度の小さな声でこぼした。
「行っていいの?行きたい静岡。餃子?」
「そこは少し離れてるけど、食べたいなら行くし」
「いやそこまでしてくれなくていいよ、元也の近所でなんかしよ」
何があるんだろうとスマホで早速検索を始めながら、元也はいつ頃大丈夫そうなの?と聞いてみると「休みの日ならいつでもいいよ」という返事が返ってきた。
「今取っちゃえばホテルとかも安そう」
「うち泊まれば」
「いいの?じゃあそうする」
なら移動手段だけ決めればいいからとても楽だ。ウキウキと観光地検索を再開しようとしたけど、元也からの視線を感じて顔を上げた。ジッとこちらを見る彼に「なに」と聞いてみても、彼は黙ったまま私を見つめるだけ。
「え、本当に何?」
「……本気で泊まんの?」
「元也が言ったんじゃん。ダメなら全然ホテルとるよ?」
「そうじゃなくってさぁ」
さっきのようにそこで言葉を止めて、さっきよりも困ったように頭を抱え込んだ。はぁーと呼吸を整えるようなため息を吐いたあと、ボソボソとした僅かに低い声で「聖臣のとこ行った時は泊まったの」と聞いてくる。それに「そんなわけないじゃん」と返すとやっと顔を上げた元也が「なんで?」とまたグラスをなぞりながら問いかけてきた。
「なんでって……泊まる必要ないし」
「そうだよな。そうだよな……」
「え、なに、さっきからどうしたの」
同じ大阪にいるのだから泊まらずとも帰ることができる。それに聖臣に泊めてと頼んでも断られるだろうし、そうじゃなくても彼のところに泊まらせてくれと頼むことは私からはしない。まだ何か言いたげな彼から目を逸らせないままでいると、彷徨わせていた視線をぴったりと私に重ねて、彼がゆっくり口を開いた。
「いくら幼馴染っていったって、俺もお前ももう大人なんだぞ。東京の時はお互いの家行っても実家だったけど、今は一人暮らしなんだからな。意味わかってる?」
「え?うん」
「本当かよ」
「わかってるよ」
「じゃあ、邪魔するやつがいないからって俺がナマエに襲い掛かったらどうすんの」
「……は?」
「部屋上がってくれたからオッケーの合図とかそんな身勝手なヤツに成り下がる気はないけど、わかんないじゃん。いくら俺だからって警戒心なさすぎ」
「そりゃ他の人だったら警戒するよ。でも元也じゃん」
「俺だからしないって保証ないだろ?」
「えー……?だって元也が私にそういう気を起こすことってあり得るの?」
「あるわ。ありまくりだわ」
「そうなの?」
「俺が何年ナマエに片想い続けてると思ってんの」
サラッと放たれた言葉に動きを止める。何かを言い返したいけど、ぱくぱくと口を動かすだけでそこかから音は出てこない。
私たちは常に一緒だった。嬉しいことも辛かったことも、なんでも知っている仲だ。でも知らなかった。元也が私のことを好きだなんて。そんな素振り、今まで一切見せなかったし。
「……本当に?」
「そうだよ。こんなことで嘘つかない」
信じられないとはこういうことだ。「ごめん、困らせたよな」と申し訳なさそうに謝る元也に首を振って「大丈夫」と小さく答えた。
正直混乱している。斜め下に視線を下げた私に、「ほんとはもっとタイミングとか言葉とか色々考えてたのに軽率だった。今のはマジで忘れてくれていいから、ナマエが来たってそんなことする気は本当にないし、今まで通り普通にしててよ」と元也が明るい声で話しかける。
「い、今まで通りとか、無理でしょ」
「……そうだよな、ごめん」
はぁとテーブルに肘をつき額を抑えた元也は、「本当ごめん、言ったらこうなるってわかってたのに」と沈んだ声を出す。
「でももうどうしようもないからちゃんと言うけど、俺はナマエのことずっと好きだった」
「…………」
「それだけ。ごめんな」
来て早々で悪いけど、俺もう行くわと腰を上げた元也を目で追う。俺が出てったらちゃんと鍵閉めろよと一言残して部屋を出ようとした彼を慌てて追いかけた。Tシャツの裾を摘んで視線を右往左往する私を振り解くことなく、彼は優しく次の言葉を待ってくれる。
元也は、いつもそうだ。人が良くて、頭が良くて、何をしても優しくて、頼りになる。でも素直なように見えて、相手のことを考えすぎて本心を隠すことがある。私はそういうのを悟るのがあまり得意じゃないから言ってくれないとわからなくて、鋭い聖臣から話を聞いて不甲斐なさに落ち込む日もあった。
「初めて知ったんだよ。元也が私のことそんな風に見てたこと」
「うん、わかってる」
「びっくりしてる。けど、嫌じゃないよ」
「…………」
こっちにしっかりと体を向けた元也が静かに私を見下ろした。バクバクと高鳴る心臓がはち切れてしまいそう。体が熱い。理由もわからずなぜか泣きそうだった。
「……ねぇ、今日うち泊まる?」
私の一言に珍しく口をあんぐりと開いて彼が「はぁ?」と間抜けな声を出す。何言ってんの、意味わかってる?と眉を顰めた元也は、私の肩を掴んで視線をしっかりと合わせる。ピリついた空気が肌をチリチリと刺激するような、そんな緊張感が流れていた。
「わかってるけど、元也、好きな人が嫌がることは絶対しないって言ってたじゃん」
「しないけどさぁ」
「だってどうすればいいの?今まで元也のことそんな風に意識したことなくて……突然すぎてわかんないよ。でももちろん嫌いじゃないし、どちらかというと嬉しいし。しっかり考えるからこの事はもう少しだけ待って」
「うん。ゆっくり真剣に考えて欲しい。でもさすがに今日は聖臣んとこ行くよ」
「……久しぶりに会ったばっかなのに、寂しい」
私の肩から手を離した元也のTシャツをもう一度握った。こんなに強く握ったら少し伸びてしまうかもしれない。でもどうしてもここで離れたくなくて、この感情が何を指しているかはまだはっきり自覚もできなくて、また黙り込んだまま彼の顔を見上げることしかできなかった。
「そんな顔されると出て行けないんだけど」
「行かなくていい」
「……そんなこと言ってると勝手に期待するよ?」
頷きながら、「でも今はまだ」と口に出せば、元也はやっと少しだけ表情を和らげて僅かに口角を上げた。
閉じられたドアがパタンと話し合いの終了の合図を出して、設定した温度に戻そうとゴウゴウと激しくクーラーが仕事を始める。冷蔵庫から取り出した麦茶を溶けかけの氷の入ったグラスにもう一度注いだ。カラカラと氷が回転する音は夏を連想させる涼しい音の一つだ。
「聖臣に好きって言われたらどうしようって戸惑うかもしれないけど、元也はびっくりしてるけど嬉しい」
「……え、や、嬉しいけど、そこまで言って期待させるだけさせて最後に振られる感じになったら流石の俺も泣くからな?」
「多分振らないよ。今までそういう対象に見た事は確かになかったけど、でも今すごいドキドキしてるもん。でもさぁ、キスとかしろって言われてすぐにできるほど心も固まってなくてさ」
「わかってるから、待つから、もう勘弁して」
入れたばっかの冷たい麦茶を一気に飲み干して、勢いよくグラスをテーブルに叩きつけた。元也の手に収まるそれからまたカラカラと氷が涼しい音を響かせる。
この季節が終わる頃、もしかしたら四季とともに私たちの関係も変わっているのかもしれないなんて考えながら、私はまた彼のグラスに冷たい麦茶を注いだ。
前へ 次へ