再開


記憶というのは特に聴覚や嗅覚に強く残るらしい。全く厄介な話だ。

雨の匂いが漂う夕方。きっと今頃太陽が沈み始める頃だろうけど、分厚い雲がその姿を隠してしまっていて朝からずっとグレー一色のまま。気温は低いのに湿気で肌の表面がどこかぬるく、その不思議な感覚が気持ち悪かった。どんよりとする空模様に釣られるように、私の心もモヤモヤと灰色に染まっている。

信号待ちをする中、そのすぐ近くにある喫煙エリアから漂ってきた煙の匂いに顔を顰める。もう少し遠い位置に設置してくれればいいのに。これではエリアを設けている意味がほとんどない。そんな文句を心の中で言いながら、なかなか変わらない赤を見つめた。


「雨、降りそうだよ」

「えー。あっ本当だ。やだなぁ」


カラカラと音を立てながら窓を閉めて、ベランダから戻ってきた彼が私を後ろから抱きすくめ肩にそっと顎を乗せた。首元に唇を寄せられると、彼の短い髪の毛が耳の後ろをサワサワと掠める。


「やめてよ、くすぐったい」

「本音は?」

「……煙草臭い」

「ごめんね」


わざとらしく唇を寄せて、耳元で囁くように謝る。フッと息を吐いて笑った彼からまた独特の香りが漂った。それは、非喫煙者の私にとっては非日常的な匂いだった。

禁煙エリアから漂ってくる独特の匂いにもう一度顔を顰める。私は煙草の種類なんてわからない。どれがどの香りで、どんな味のものなのか、全く判断がつかない。

詳しくないからこそ解ってしまうのだ。彼が吸っていたあの銘柄だけは、その香りだけは繊細に記憶に刻まれている。

信号が青に変わった瞬間に早足で歩き出した。その場所から離れるように。撒いても撒いても絡みついてくる煙がどこまでいっても私の跡を追ってくるような気がして、喫煙エリアを背にただひたすら足を進めた。

思い出してしまうのだ。嫌でも。あの銘柄を街中で吸っている人はなかなかいない。でも確実に同じものを吸っている人はいて、ごくたまにすれ違う。その度にまた彼を思い出して、私はどうしようもなく胸の中を掻き乱されるのだ。もやもやと漂い続けるそれがいつまで経っても私のことを離そうとしない。いくら換気をしても壁に染み付いたそれらはいつまでも存在し続ける。

随分と遠くまで来て、そして立ち止まった。視線を落とした足元には私一人分の靴だけがあって、見慣れたあの綺麗な革靴は隣には存在しない。

私の記憶にある彼はいつも余裕そうに笑っていて、骨張った大きな手で細くて小さい煙草を器用に扱っていた。ゆっくりと吐き出される煙。それを窓ガラス越しに見つめる私に視線だけを部屋の中へと向けて僅かに口角を上げる。

だから嫌だと言っていたのに。こんなにも強烈に私の中に入り込んでそこから出て行ってはくれない。あの香りが私のことをこうして今でも縛り付けている。彼はいつもわざとらしく笑いながら、その香りを教え込むようにキスを繰り返した。

人の多い駅前のロータリーで一人立ち竦む私の横をたくさんの人が通り過ぎていく。前へ前へと進んで行くその人たちとは違って、私は縛り付けられたようにそこから動けない。

思い出したくない。だけどそう思えば思うほどに植え付けられたその香りが鮮明に蘇ってくる。俯いたまま下唇を噛んだ。胸に渦巻く虚しい感情に、記憶の中のその香りと湿気った生ぬるい空気が不快に纏わりつく。


「……どうしたの、こんなところで立ち止まって」


煙草の苦味の中にほのかに感じる柔らかな香りを掬ったような低い声が聞こえた。漂う懐かしいそれは、先程の喫煙エリアで嗅いだばかりの匂いだ。


「ナマエ?」

「……一静」


鼻の奥がツンとする。私の日常にはもうないはずのその香りが直ぐ近くにあった。


「なんでここに?」

「それ、俺の台詞」


こんなとこでなにしてんの。なんて、少し困ったように眉を下げて問いかけてくる。貴方を思い出してましただなんて、そんなことはとても言えない。口を噤んだ私に「無理に言わなくて良いよ」と彼はやっぱり優しい言葉をかけてくれた。

数年前に別れたはずの、いつまでも私の中に存在し続ける男の人。一静はあの時と何も変わっていない様子で、纏う香りもそのままだ。


「久しぶりでこんな所で立ち話もなんだし、時間あるならどっか入る?」

「あ、えっと……うん」


このままサヨウナラだと思っていたから、誘われるなんて思ってもなくて衝撃で返事が遅れてしまった。彼の後ろをついていく。首だけで振り返った彼が「ちゃんと横きなよ」と笑ったから、少しだけ足を早めて並んだ。満足そうに頷いた彼の顔を盗み見ようとすると、私の行動を読んでいたのか彼の切長の瞳もこちらへと向けられてばっちりと視線が合う。


「……ほんとに久しぶりだな」

「そうだね」

「元気にしてた?」

「……まぁ。そっちは?」

「正直に言うと、俺は、全然元気じゃなかったかな」


目を逸らした彼が遠くを見るように顔を上げた。そっか。そう呟くことしかできなかった。数年前は二人笑い合いながら当たり前に隣を歩いていたはずなのに、今は表情が硬くなってうまく笑えもしない。ドキドキと高鳴る心臓に甘い響きはなく、緊張が全身に走る。嬉しいのか気まずいのかわからない。数年間ずっと心の奥に潜めていた感情はまだ混乱を極めて顔を出そうとしなかった。

歩くたびに空気が揺れる。それに乗って私のところまでやってくる僅かな香りがチリチリと胸を刺した。銘柄にも何も詳しくない私が唯一判別できる彼がいつも纏っていた匂い。この数年間、街中でその香りはふわりと優しく漂っては痛めつけるように私の胸を焦がし尽くしてきたのだ。


「でも今元気出た」


ゆっくりと横を向いて私に視線を合わせるように目線を下げる。彼の控えめな笑い方は当時と何も変わっていなくて、その優しい眼差しに体の内側から先ほどまでのとは少し違う緊張感が漏れ出て来るのがわかった。

高鳴る心臓は狂ってしまったのか、通常時の何倍もの速さで動いてる。しっかりと視線を合わせたまま、逸らすことも、口を開くことも出来ない。思わず足を止めると同じように彼も動きを止めた。一静は、また静かに、緩やかに言葉を発する。


「この誘いを断らずについてきてくれてることに、俺は今勝手に期待しちゃってるんだけど」


彼が話すたびに満たされていく。柔らかな煙で包まれた心臓は、やっとのことで通常を取り戻したのか、どくどくと穏やかに動いて私の脳に正常な思考と血液を恵んだ。


「……こうして誘ってくれたから、私も勝手に期待してるみたい」


染み付いた記憶の中の彼と、目の前の彼が重なり合う。緩やかに片側の口角を上げた彼の横にしっかりと並んだ。

唯一わかる銘柄の、その香りが優しく漂う。縛り付けられていたと思っていたそれは、数年間絶えず私と彼を繋いでいてくれたのだ。


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