始まりの日


この独特の匂いが好き。積み上がった書籍達に心が踊る。少し埃っぽい一冊を手に取って、パラパラと中身を確認した後再度元の場所へと戻した。

東京、神保町。本好きにはたまらないこの街に立ち並ぶ多くの古本屋を巡ることが、ここ最近の私の楽しみである。


「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ」


街の隅にある人の少ないこの店で、同じ本に同じタイミングで手を伸ばすだなんて物凄い確率だ。落ち着いた声色のその人は、癖っ毛なのか少し跳ねた髪の毛と、眼鏡の奥の涼しげな瞳が特徴的だった。


「私他の本見るので、どうぞ」

「お気遣いなく。俺もこっち見るんで」

「…………」

「…………」


お互いに譲り合って、どちらも手を伸ばさなくなってしまうと逆にどうしていいかわからなくなってしまう。動き出さない相手を視界に捉えながら、「じゃあ」と声を出したらまさかのタイミングがまた被った。なんとも気まずい。気まずすぎる。


「……好きなんですか、この本」

「え、あ、いや。この作者の別の本は好きで結構読んでるんですけど、まだこれは読んだことがなくて」

「俺もです」


どうしようかと戸惑っていたら突然話しかけられ驚いた。「これは読みました?」と話を続けるその人に流されるようにこちらも会話を続ける。大人しそうに見えて、意外にも結構グイグイくる人なんだ。

先程の気まずさはまだ完全には拭えていない。けれど、この人のゆったりとした静かな話し方はとても心地が良い。そっと見上げた彼の瞳はとても柔らかな弧を描いていて、薄く微笑んだその表情は初春の陽だまりのように優しかった。


「あの、良かったら少しお茶でもしませんか。俺この近くで働いてるんで、良い喫茶店とか知ってるんですけど」

「え、」

「読書するのに、すごく良い空間ですよ」


そう言って少しだけ試すように口角を上げた。優しそう、なだけではない何か。その声がじんわりと沁み込むように私の中に入ってくる。それに侵された思考が操作されてしまったかのように、気が付いたら首を縦に振っていた。


「すみません。こう見えて俺、良さそうと思ったものに対しては結構我が強い方らしくて」 


再びにっこりと笑ったその人の黒目が真っ直ぐに私を捉えたのを確認して、私はそこから視線を逸らせないまま、「そうなんですか」なんて、少しだけ混乱した頭で返事をすることしか出来なかった。

早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、斜め前を歩く彼のふわふわと風に揺れる髪の毛を見上げた。あまり意識していなかった彼の背の高さにやっと気がついて関心しながら、振り返った彼の控えめに攻めるようなその柔らかくて鋭い瞳に、また私の視線は奪われてしまったのだった。


前へ 次へ


- ナノ -