転職先:おにぎり屋
誰もが認める泣き上戸。それは認める。けれど私の今の精神的に、この涙の原因の六割は多分アルコールではない。
「もうやだ会社辞める」
「最近毎回言っとるなそれ」
「だってもう絶対あの職場に私必要無いよ。成果上げれば上げるほどお局がいじめてくるし、周りは庇ってくれないし」
「それがホントならナマエが必要無いんやなくて、癌なのはそのお局やろ」
ボロボロとメイクが崩れるのも構わず涙を流す私に、慣れた手つきで隣に座る治が新しいおしぼりを差し出した。まだひんやりと冷たいそれが気持ち良い。擦らないように目に押しつければ、浮いたマスカラが付着する。
ぐずぐずになった顔を晒すのは少々気が引けるけれど、彼に関しては付き合いが長いこともあり、そして毎回のことなので、申し訳なさはあるけどもう気にならなくなってしまった。
「俺は辛いならすぐにでも辞めてええと思うけど。でもあんなに頑張っとったやん。今やめて後悔しないん?」
「しない。やりたかった事はもうやりきったし、後輩も育ったし」
「じゃあもうあとは辞めるだけか」
そう言いながら手元のジョッキを勢いよく飲み干した治は、もう一杯同じの〜と手を挙げながらカウンターの向こうの大将に元気よく告げる。
彼の先程の言葉を頭の中で繰り返しながら、アルコールと泣いた事で上がった体温を冷ますように一度深く息を吐いた。
そうなんだけど、簡単にはいかないんだよ。力なく呟いた私の言葉に治が僅かに反応を見せる。すぐに届いた彼の追加のビールの泡は零れ落ちそうなくらいにジョッキの縁まで全てを覆っていた。
「転職とかさ、このご時世今のタイミングだとなかなか難しいし」
はぁと短く息を吐いて彼と同じように私も一気に残りの酒を仰いだ。飲み干したジョッキを片手に掲げ「大将私も」と少しだけ声を張る。腹の中に広がるアルコールがじわじわと全身を侵食して脳にまで到達する感覚をじんわりと感じ取っていた時、結露した水滴を指先で弄んでいた治が大きな体に似合わず小さな声で「じゃあ」とこぼし真剣な眼差しでこっちを向いた。
「俺のとこ、来ればええやん」
お前一人くらいしっかり雇ってやるし。そう言った彼は泡が萎んでしまったそれを持ち上げ一気に中身を空にしてしまった。
「……転職先おにぎり屋か」
「嫌なん?」
「全然、むしろ、楽しそう」
「じゃあ決まりやな」
「え、本当に言ってる?本当に雇ってもらえるの?」
「こんなこと冗談では言わんわ」
流石の彼も一気に取り込んだアルコールに目頭を抑えながら、少し苦しそうに視線を私の方へ寄越す。私の目の前に置かれた新しいジョッキには、先ほどの彼のものと同じように零れ落ちそうなほどの白い泡が縁までを覆っていた。
「辞めれる条件全部揃ったな」
「……うん」
親友から雇い主に、きっと来月辺りから私達の関係は大きく変わる。酒の入った酔っ払いの会話だし、まだ辞表も出していないこの段階だから実感も何も湧いてこない。それでも今の職場よりも絶対に楽しく働けることだけは確信できて、白い泡が消え去らないうちに目の前のそれに口をつけた。
「ま、俺が最終的に狙っとんのは雇い主なんてポジションやないけどな」
そう遠くないであろう未来に意識を飛ばしていた私には彼のその言葉は届かなかった。なんか言ったかと確認してみても、「聞いとけや」と眉を顰められてしまう。まぁええか、今まで通りゆっくりで。そう言った治に「なんの話?」と再び首を傾げた。
「お前の話やアホ」
「上司に暴言吐かれた〜」
「めんどくさ。解雇や解雇」
これからこんな風に笑い合える毎日が来るのかと思うと待ち遠しくてたまらなかった。回りきったアルコールが涙腺を襲って、期待と喜びに気持ちが昂りまたポロっと涙が溢れる。
さっきのおしぼりをもう一度こっちへと差し出しながら、「ほんまに酒入るとすぐ泣くな」と、私のことを知り尽くした治が茶化すように大きく笑った。
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