及川徹と最後の遠距離恋愛


※2020winter企画短編


年始の空港はたくさんの人達で賑わっている。年末に来た時は帰国ラッシュで到着ロビーにはたくさんの人達がいた。今は見送りのための人々が出国ゲート前に溢れかえっている。荷物を預けチェックインを終えた徹が「思った以上に時間かかっちゃった、ごめんね」と駆け足でこちらとやって来て、大丈夫だよと返事をしながら腰を上げた。

出発の時間まではまだ少し時間があるからと人が少ない隅のベンチに二人で腰掛け、先程彼がチェックインしている間に買ってきておいた飲み物を手渡す。ありがとうとお礼を言いそれを受け取った彼は、少し温いお茶に口をつけてホッと一息ついた。


「ナマエ、」


名前を呼ばれ、ゆっくりと徹の腕が私の肩へと回された。そのままそっと引き寄せられて彼の大きな体へと頭を預ける。鍛えられて硬い体は今はモコモコとしたダウンに覆われているため柔らかくて暖かい。ふかふかなそこに手を這わせて少しだけ顔を上げると、困った顔をしながら笑った彼と至近距離で目が合った。


「そんなに寂しそうな顔されると、どうしていいかわからなくなっちゃうな」


ポンポンと私の頭をあやすように叩きながら眉を下げる徹の声はいつもよりも元気がなくて、そうさせてしまっているのは私のせいだと解っていても、どうしたっていつもみたいには笑えなかった。

こっちに残ると決めたのは私だ。ナマエはどうしたい?と私の意見を優先してくれた彼に、こっちで就職したいと答えを出したのは自分なのに。下手について行って彼の邪魔もしたくなかったし、まだ日本でやってみたかったこともあった。徹みたいにそんな大層な目標では無いけれど、自分の実力でどこまで行けるかを私も少し挑戦してみたかったから。

付いてきて欲しいと徹はその時言わなかった。心の中ではそう思っていたと思う。だけど私の気持ちを解ってくれている。だから私も何も言わなかった。

地球の裏側同士、世界で一番離れた遠距離恋愛。何もかもが真逆な生活リズムの中じゃ二人の時間を合わせるのにも一苦労で、電話をするにも何日も前からスケジュールを合わせなきゃならない。

それでも別れずにここまで何年もやってこれた。それは私と彼の自慢出来る一種の努力と愛の形かもしれない。

真逆に位置する土地には行き来をするのに膨大な時間とお金がかかる。飛行機だけで何十時間とかかってしまうから、徹も年に一回帰国出来れば良い方で、どうしても無理そうな年は私が何とか時間とお金を工面してあっちへ行った。

折れそうになったことだってもちろん何度もある。けれど着信履歴に残る彼の名前を見る度に、起きた時に新着メッセージが届いている度に、久しぶりに会う度に、やっぱり彼しかいないと思い直しながらこれまで二人で頑張ってきた。


「ね、ナマエ」

「ん?」

「……こっち来ない?って言ったら、怒る?」


真剣な眼差しで私を見つめる徹はいつものチャラけた雰囲気なんて一切なくて、これを冗談で言っている訳では無いということが直ぐにわかった。私だって馬鹿じゃない。それがどういう意図で言われているかなんて容易く想像がつく。

数年前のあの日、彼が私に言わなかった言葉を、今ここで初めて口にしたのだ。


「怒らない、けど」

「けど?」

「混乱してる。嬉しくて」


日本に残ると決めたのは私だったはずなのに、徹の言葉に訳が分からなくなるくらいに舞い上がっている。数年前のあの日、別にこの言葉を待っていたわけではなかった。お互いにお互いのやりたいことを優先した上で関係を続けていく。そう二人で選択した。

いつかやるべきことを成し遂げて、お互いに納得できる瞬間が訪れた時にそうなれればいいと思っていた。それが、今訪れたのだ。

数年間お互いに耐え忍んで育んできた関係性を、まだまだこれから先も繋いでいける。その確信と安心感が何よりも嬉しいと思った。


「ナマエ、この前仕事で目標にしてたことが出来たって嬉しがってたじゃん」

「うん」

「俺的にはもうこのタイミングしかないと思ったんだけど、どうかな」


ゆらゆらと瞳の表面に膜が張られていくのがわかる。そんな私を見た徹は嬉しそうに優しくはにかみながら、座ったまま器用に両腕で私を抱き締めた。背中に回された意外にもしっかりと男らしいゴツゴツとした大きな手のひらがポンポンとリズム良く動いて、徹のモコモコのダウンの肩口が私のせいでじわじわと濡れていく。


「でもすぐには無理でしょ?仕事のやめる都合とかさ、準備とか。……だから、半年後」

「夏、か」

「うん。今年は夏にも日本に来れるからね。その時もう一回ちゃんと迎えに行く」


楽しそうに笑った徹は「そろそろ行かなきゃ」と笑って私の手を握ったまま腰を上げた。出国ロビーにはさっきよりも人が増えていて、しっかり近くに居ないとはぐれてしまいそうだ。

きゅっと握られた手に力が込められた。ゆっくりと顔を上げると、スッと静かに近づいてきた唇が私のそれに一瞬触れてすぐに離れていく。


「……プロのバレーボーラーがこんなに目立つ場所で、ダメでしょ」

「大丈夫、俺は日本じゃ無名だから」

「そうかもしれないけど……」


素早く動いた腕に思いっきり抱きしめられて、もう一度だけ小さなキスを落とされる。さすがのこの行為には出発ロビーに集まる人達にだいぶ注目されてしまっているのがわかった。

いくら日本ではまだ徹の知名度が低いからと言って油断はできないのに、彼は何も気にすることはせずに体を離すことはしない。

本人が良いと言ってるんだからもう知らない。なんて私も開き直ってモフモフのダウンに覆われた大きな背中に腕を回す。私のコートに顔を埋めていた徹がくつくつと喉を鳴らし、肩を震わせながら「夏が過ぎたらもうここでこういうこと出来なくなるね」と面白そうに笑った。


「全員倒して、そんでナマエを連れて帰る」

「ヒーローなのか悪役なのかわからないね」

「どっちにもなってみせるよ、俺は全部欲しい」


徹の強い視線に射抜かれて思わず身体が固まってしまった。強気な笑顔を浮かべる彼は、普段の性格はちょっと残念なくせにやっぱりとっても格好良い。

もう何年も一緒にいるはずなのに、狂ったように大きく動き出す心臓はその速さを緩めようとはしない。もう一度二人でぎゅっとキツく体を寄せあって、そして名残惜しく思いながらゆっくりと離した。

じゃあね、またね。といつも通り最低限の別れの言葉を交わした。もしかしたらこの場所でこうやって見送るのもこれが最後になるのかもしれないのかと思うと少し感慨深くなる。今まではまたこれから数ヶ月から一年会えなくなるのかと、あんなにも最後のこの瞬間が訪れるのを嫌だと思っていたのに。

手を振ってゲートへと向かっていく徹に今できる最大限の笑顔を浮かべて大きく腕を振り返した。それを見た徹が満足そうにニッと笑ってゲートの奥へと消えていく。

姿が見えなくなってもしばらくその場所から動けなかった。しばらくまた会えない悲しさと寂しさと、そしてこれからの私たちへの期待と嬉しさ。

長くて短いこの半年で一体何がどこまで変わるんだろう。

迫り来る夏、彼の無限の可能性が花開くその瞬間に、私はどんな気持ちでそれを見守っているのだろうか。どんなに離れていても心はいつも隣で。そう信じてこの数年間を過ごしてきた。コートの中にいる徹に対しても、同じことを思っている。

ブルルっとポケットに入れていたスマホが振動した。慌てて取りだしてみれば、もうすぐ飛行機が出発するはずの徹からメッセージが届いている。


『俺たちの最後の遠距離恋愛、ちょう楽しもーね!』


文章の終わりにはウザったらしいウインクをした絵文字が付いていた。それが彼っぽいなってちょっと笑った。


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