七月七日


どんよりとした雲が広がり一向に晴れる気配はない。今日は星どころか月でさえも、幾分にも重なった分厚いそれから顔を覗かせるのは難しそうだった。


「久しぶり」

「髪伸びたな」

「わかる?」


あらかじめ伝えておいた到着時間ぴったりにいつも待ち合わせている場所へと向かい、既にそこにいた信介に駆け寄って、ゆっくりと歩き出した彼の隣に並んで同じように足を進めた。

県外へと進学をした私と信介は、所謂遠距離恋愛というやつを続けていて、それももう早四年目になる。電話やメッセージのやりとりで毎日のようにお互いの近状は報告しあっているものの、やはりしっかりと顔を合わせると伝えたいことがたくさん出てきて止まらなくなってしまう。

いつもより少し上擦った声、力を込めても緩んでしまう頬にきっと彼も気付いていて、それが何だか気恥ずかしく感じた。


「……ククッ」


喉の奥を鳴らしながら、堪えていたものが溢れ出てしまったかのように小さく笑った信介は、口元を軽く押さえながら反対方向を向いた。笑われていることを悟った私は「ちょっと」と軽く肘で小突きながらそれを制するけれど、彼は私のその反応にさらに笑いながら「わかりやすくテンション高いな」と綺麗な笑顔を見せ、呼吸を整えるように大きく一度息を吸い込み、私の目線ほどの高さにある肩を小さく上下させた。


「単純ですみませんね」

「そんなに喜んでもらえると嬉しいわ」

「……こんなに長く会えなかったのは初めてじゃない?」


毎日高校に行けば当たり前に会えていたのが途端に会えなくなって、電話やメッセージだけでは物足りない夜を何度も過ごしてきた。簡単に行き来できるほど時間もお金も余裕はない。どんなにお互いがお互いを好きだとしても、物理的な距離というのは厄介なもので、折れないように心を真っ直ぐ保ち続けるのが少し難しくなった時期だってあった。

人のいない田舎道を空を見上げながら歩く。太陽も夕陽も見えなかったそこには、今ももちろん光輝くものなんて何一つなく、ただひたすらに濃い灰色が広がっている。雨が降っていないだけまだマシか、と少し落胆しつつ軽く息を吐き出したところで、信介が「そんなに上ばっか見とるとつまずいてまうよ」と私の腕を引っ張り距離を縮めた。


「数ヶ月会えないだけでこんなに寂しくて辛かったのに、織姫と彦星はすごいね」

「その分会えた時の喜びは俺らの倍かもしれんよ」

「喜びに関しては数ヶ月の私でも負けない自信あるよ」

「ははっ、確かにあの様子見りゃ負けんかもな」


同じように空を見上げた信介を横目で確認して、「星が出てないから、今年は二人は会えないのかなぁ」と小さく呟いてみる。すると彼は「曇りの日は、他の人らに自分らが会っとることがバレんように隠れとるらしいで」と静かに口にした後、「そりゃ年に一回の逢瀬なら誰にも邪魔されたくないわな」なんて言いながら私の顔を見下ろした。


「……少し寄り道でもする?」


信介の家に向かう途中にある小さな祠の前に腰掛ける。もう少し一緒にいたいからと、高校生の時もたまにこうしてここに来ていたのが懐かしい。ゴツゴツした石段は座り心地が良いとは決して言えないけれど、信介と二人で居られるのなら、そんなものは別にどうだって良かった。


「まだあと一年近くもあるのかぁ」

「もうあと一年、や」

「……そうだね」

「きっとこんな経験はこの先出来ん」

「たしかに。あと少しって思ったら残りの期間は楽しまなきゃって思えてくるかも」

「そうそう、前向きに捉えよ」

「それに今回以外もう今年は会えないってことはないだろうしね」

「就活でちょいちょい来るよな?」

「うん。トンボ帰りだろうけど、連絡するね」

「なるべく予定空けられるようにするわ」


ははっと二人して笑いながらもう一度空を見上げた。先ほどよりもさらに暗くなったそこは、やはり変わらず重苦しい雲が一面を鈍い灰色で覆っていて、彦星と織姫が天の川を渡る姿を私たちに見せてはくれなかった。

静かに背中へと回された腕がそっと私の体を傾ける。抵抗せずただそれに身を任せ、信介の肩へと頭を預けた。梅雨が明けきらないジメジメとした空気が全身にまとわりついて少しだけ鬱陶しい。本格的な到来を待つ盛夏直前の生ぬるい風が、絡みつくようにしつこく肌の上をなぞっていく。

滲ませた墨汁のような濃灰色からゆっくりと視線を信介へと移した。季節外れの銀世界のように白銀に輝く信介の髪の毛がゆらゆらと厚ぼったい風に揺れる。

少しずつ、光を閉ざすように瞳を閉じた。ゆらりと落ちてきた影が視界をさらに暗くして、湿気で重くなった肌へと信介の指先があてがわれる。

音もなく唇がぴったりと重なりあった。そして触れる前の何倍もの時間をかけてゆったりと離れていく。至近距離で視線を交えて、もう一度二人同じタイミングで目を瞑った。心なしか先ほどよりも強く押し当てられた気がするそこに全ての意識を集中させる。


「……めずらし、信介がこんな外で」

「この曇り空じゃ誰も見とらん」

「なにそれ」


自分たちを今日この国で一番話題だろうカップルに例えてしまうだなんて、後から思い出したら絶対に恥ずかしくなるやつだ。けれど、今年が最後だと考えたら、少しくらい恥を捨てて今はこの雰囲気に浸っても良いだろうと思える。


「そろそろ帰ろか」

「うん」


二人きりの道を手を繋いで歩き出した。街中ではしないこの行為が出来るのも、私たちを目立たないように包み隠してくれている天の人たちのおかげだ。そんなことを考えているとポツポツと僅かに空から水滴が落ちてきた。


「……雨だ」

「後少しやし、走るか」


引っ張られるようにしながら目の前の大きな背中についていく。「もう少しだけ待ってくれればいいのに、タイミング悪いなぁ」と零した言葉は、雨音にかき消されることなく彼の耳へと届いたらしい。濡れた前髪から僅かに水を滴らせながら振り向いた信介が「催涙雨やな」とこの状況に似合わず楽しそうに微笑んだ。


「なにそれ?」

「諸説あるけど、七夕に降る雨は彦星と織姫が会えた時の嬉し涙なんやと」

「へぇ〜!」


バシャバシャといつも以上に響く二人分の足音と、ぱらぱらと地面を打つ雨音に負けないように少しだけ声を張り上げながら、いつもは触れたいと強く思ってもそう簡単に触れることの出来ない手のひらが、今この時くらいは繋がれたまま離れないようにと願いながら、ただひたすらに走った。

きらきらと満天の星が輝いているであろう天の川を渡っている二人が、まるで私たちの気持ちまでをも代弁してくれているようだ。そんなことを思いながら、天から降り注ぐ嬉し涙を全身で受け止めた。

恥ずかしそうに頬を染め、あの男女に自分たちを重ねた今日を思い出し笑い合う未来を頭の中に描きながら。


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