さざれ石の巌となりて苔のむすまで
バレーボール、排球。
私がその球技に出会ったのは、たった一つの漫画だった。
2021年8月。有明アリーナ。
東京の夏特有のジメジメとした暑さと、さらに東京湾からの潮風でベトベトする中を駆け抜けて、外よりもだいぶ気温の涼しい会場内へと駆け込んだ。
「姉ちゃん!はじまる!早く!」
「待って待って早い!」
小さい体のくせにとんでもないスピードで人を掻き分け駆け抜けていく弟を追いかけながら、手元にある何回も何回も応募してようやく勝ち取ったプレミアチケットで席を確認する。こっちこっちと大きく手を振る弟の横の席に腰掛け、上がった息を整えた。
会場内は外のジメジメは感じられず空調もかかり涼しいはずだが、人の興奮と熱気で溢れ返っていて暑い。幾分か落ち着いた呼吸を整えるようにして大きく息を吐き辺りを見回した。本来なら一年前に行われるはずだったこの試合。世界中が混乱に陥った困難を乗り越えて、一年越しにやっと開催されることとなった。待ちに待ったと晴れ晴れとした顔で応援に駆けつけた人々が、まだ試合開始の前だというのにも関わらず元気いっぱいに騒いでいる。
「姉ちゃんはこの試合どっちが勝つと思う?」
「そりゃ、日本に決まってるでしょ!」
「でもアルゼンチンに二連敗してるんだよ、しかもなんか、セッターはアルゼンチンに帰化したけど日本人なんだって」
「え、そうなの?」
「姉ちゃん選手のこと調べてなさすぎ!及川さんって人らしいよ」
「へぇ〜」
地元のジュニアチームで実際にプレーをしている弟は、バレーボールの知識だけではなく選手たちにも詳しい。私はバレーボールを題材にした漫画のファンで、漫画のおかげでルールはわかるものの、選手までは把握できていない。
しばらくそのまま辺りを見回していると、試合開始が近づいて会場のアナウンスが始まる。相手国チームの紹介と、日本チームの紹介。選手の名前が呼ばれるたびに湧き上がる会場の熱と緊張感にこちらまで圧倒されてしまった。
『2020オリンピック大会男子バレーボール、日本vsアルゼンチン、試合開始です!』
アナウンスとホイッスルと共に試合が動き出す。漫画以外で初めて見る生のバレーボールの迫力に開始早々度肝を抜かれて固まってしまった。
相手セッターの凄まじいサーブ。日本側の無駄のない動きで勢いを殺すようななめらかなリベロのレシーブ。さすがにオリンピックというだけあって選手一人一人の技術が凄まじく、素人目に見てもとてもレベルの高い試合だということがわかる。そのなかでも一際目立って目を引くのが
『はやいはやい、烏野高校伝説のコンビがコートに飛ぶー!!!』
目の前で行われているはずなのに目で追えないようなスピードで繰り出されたセッターからのトス。次の瞬間気づいたら相手コートにボールが叩きつけられていて、一体何が起こったか全然わからない。
直前までザワザワとしていた会場も一瞬人がいなくなったかのように静まり返っていた。次の瞬間ワンテンポ遅れてドワァッと今までのどのプレーよりもどよめき湧き上がる。
狂うような熱気に包まれた会場の中心で、セッターとオポジットの選手2人が腕を伸ばして拳を突き合わせるのを見て、胸の奥底からふつふつと何かが流れ出す感覚がした。
「…姉ちゃん」
「なに?」
弟に話しかけられる。それでもコートから視線は逸らせない。弟もきっと、私の方なんて見ていないと思う。
「おれ、いつかあの選手みたいになりたい」
「…うん、すごいね」
「あんな風に、コートの端から端まで駆け回って、みんなを驚かせるような、そんなバレーがしたいんだ」
小さな体から絞り出すように、会場の声援にかき消されそうになりながら震える声で話す弟の方を見た。会場はまだ2人の選手のプレーに圧倒されてワァワァと盛り上がっている。
コートから視線を逸らして、同級生の平均身長よりも一回りほど小さな体をピンと伸ばして唇を噛みしめながら食い入るようにコートを見つめ、小さな手を膝の上で震わす弟の姿を目に入れる。先程までの周りの喧騒が遠ざかるように、まるでフィルターがかかったみたいに音が遠ざかって、弟の小さな声もはっきりと聞こえた。
「ヒーローみたいだ」
昂る感情を抑えきれなかったのか、一筋の涙を流しながらコートに立つ選手たちの後ろ姿を目に焼き付ける弟は、こぼれた涙を拭ったあとにこちらを向いてニッと笑った。
「姉ちゃんも、漫画だけじゃなくてバレーボールに興味持ってよ!」
ビリビリ。体全身を電流が駆け巡るような、鼻の奥がツンとするような、息が詰まるような、表現できない感情に流されそうになりながら視線をコートに戻した。
漫画を何度も読んだ。連載している本誌も買って、単行本も毎日のように読んでいる。今まではこんな感情も、バレーボールのシーンも全て"漫画内の出来事"だと思っていた。でも今はどうだろう。目の前の数々のシーンも、感動も、今ここに現実として起こっていて、体感している。
「もう、このたった一瞬で目が離せなくなっちゃったよ」
まずは、帰ったら漫画の作者にファンレターを送ろう。
「バレーって、こんなに面白いんだね」
バレーボールのことをもっと調べて、国内リーグや高校選手権大会とかのほかの試合も見てみたい。
「そういえば、姉ちゃんが好きなあの漫画の作者の宇内天満って人さ」
「うん?」
「高校の時選手してて、それに憧れて日向さんバレー始めたんだって!前にインタビューで話してた」
「そうなの?知らなかった」
「おれは3年前の日向選手のムスビィブラックジャッカルのデビュー戦の中継見てバレー始めたんだ」
「あの時あんたが言ってたあの試合の選手って日向選手だったんだ。当時はまだメテオアタックも連載してなかったしバレー全然知らなかったから気づかなかった」
もし私が漫画を読んでなかったら、今この会場にいなかったかもしれない。ルールもわからないままバレーには興味を持たないで一生過ごしてたかも。
「…宇内さんのバレーみて競技始めた日向選手みておれがバレーはじめて、宇内さんの漫画読んで姉ちゃんがバレーを知って、今日興味持ってさ。なんだか繋がってる感じがするね」
キラキラした目でコートを見る弟につられて私も視線を戻した。コート内の選手達は一点を取るために今も必死にボールを繋いでいる。
会場の何もかもを巻き込んだ渦の中で耳澄ます。応援をする声、アナウンサーの声、選手の叫び声、ボールを弾く音。どれも一瞬のようで、永遠のようで。
瞬く間にプレーは進んでいくのに、脳裏に焼き付いたその記憶はどうやっても消えてくれそうにない。
ついさっきまで、好きな漫画のテーマになっているスポーツだから。弟にせがまれて応募してもぎ取ったせっかくのプレミアチケットだから。何の競技でもいいからオリンピックを一度は生で見てみたかったから。そんな気持ちだったのに。
ーーーーーバレーボール、排球。
コート中央のネットを挟んで、2チームでボールを打ち合う。ボールを落としてはいけない。持ってもいけない。3度のボレーで攻撃へと
「知ってる?姉ちゃん」
「ん?」
「バレーボールって、みんなで繋ぐスポーツなんだ」
"つなぐ"、球技である。
我が君は 千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて
苔のむすまで
ずっと、繋がっていけ。
2020.0720. ハイキュー!!完結記念
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