お狐さんのお嫁入り
「何でもっと早く生まれなかったんやろ」
シャクっと涼しい音を立て、溶けかけのアイスを口に含んだ治くんは、湿気ってジメジメとした空気をさらに加速させるような、そんな表情をしながらシュンと項垂れている。除湿にしているのに湿度の高いままの部屋では制服がベタベタと肌に張り付いて少し不快だ。
「俺と一緒やなくて寂しくないん?」
「寂しいよ?」
眉を少し寄せ、「嘘や〜……全然平気そうやん」と言いながら食べ終えたアイスの棒をポイっと遠くのゴミ箱に正確に投げ入れた治くんが、もぞもぞと近づいてきて背中に覆い被さってくる。
子供みたいなことを言いながら、私よりも大きな体で彼はすっぽりとその腕の中に私を閉じ込めた。ぐりぐりと首元に押し付けられるふわふわの髪の毛が擽ったい。その黒髪をそっと撫でる。すると肩の力が抜け大人しくなった治くんが、ボソッと「俺もはよ高校生になりたい」と呟き私のお腹へと回した両腕にきゅっと力を込めた。あと半年の我慢だよ。そう優しく言ってみても「すぐなりたい、今すぐ」と愚図るから困ってしまう。
「……やって、俺が入学する時、ナマエはもうおらんやん」
そんなん嫌や。と駄々を捏ね続ける治くんの手をそっと取ってみたけれど私にはどうすることもできない。三歳差というのは厄介なもので、中学も高校も在学期間が被ることはないのだ。
治くんは歳の割に大人っぽいという面を持っているはずのに、二人きりだといつまでもこの調子だ。周りの人たちはどちらかというと侑くんの方が甘えたな印象を持っていると思う。ついついこちらから甘やかしたくなるような性格からなのか、常にたくさんの人に一斉に可愛がられる彼の方により強い印象が傾いてしまうのも無理はない。しかし、治くんは特定の人に自分から擦り寄りその懐に入り込むのが天才的に上手いのだ。
「早よ大人になりたい」
小さなその声は少し掠れていて、耳元を優しく擽る。「学校とかそういうのなくなったら、三歳差とかなんも気にならんくなると思わん?」。そう言った彼に、確かにそうだねと短く返事をした。
「せやから、大人になったら、俺と一緒になってな」
少しだけ弱気な声を出して、もう一度私の首元にぐりぐりと自身の額をこすりつけた。年齢差を意識し過ぎているのは治くんの方だ。小さく丸まるその大きな体に寄りかかるようにしながら「待ってるね」と言い聞かせる。「おん」、と安心したように肩の力を抜いた彼が、「なぁ、やっぱ一回だけ留年してくれん?」なんて零すから、撫で続けていた頭をペシッと軽くはたいた。
治くんの不安が拭えないうちはずっとこのままでいい。ひたむきに追いかけ続けてくれる彼のことを、私はいつまでも辛抱強く待ち続ける。
「何でそんな懐かしい話覚えとるん……」
「この時期になるとね、毎年思い出すんだよ」
早く忘れたってよそんな話、と恥ずかしそうにしながら項垂れた治くんが、あの時と同じように後ろから私を抱え込んで首元に頭を押し付けてくる。高校に入って銀髪に染めた彼はとても格好良かった。そして今、あの日のように再び黒髪へと戻った彼の変わらないふわふわな髪の毛を撫でながら、「ちゃんと大人になれて良かったね」と小さく笑いかける。
「ちょっと馬鹿にしとるやろ」
「そんなことないよ。可愛かったなぁあの時の治くん」
「……俺は必死やったのに。追いつきたくても追いつけんし。俺の知らん世界にどんどん行ってまうのについて行けない置いてけぼり感、むっちゃ寂しかったんやで」
「うん、わかってたよ」
「わかっとって何も言ってくれんかった、ナマエは意地悪や」
その場でうりうりと首を振るからとても擽ったい。治くんが学校を卒業して、やっと一歩進む決断をしてくれた時には私ももう社会人。学生を終えた私達の間には目に見える年齢の壁が存在しなくなっていた。
「ウジウジしとらんともっと早よこうしとけば良かった」
「でもずっと悩みながら、まだ待ってな、もうちょっと待っててな、って確認してくる治くん、私は好きだったな」
「人が必死こいて繋ぎ止めとるのそんな風に楽しんどったん?随分余裕やん。それが埋められん歳の差ってやつ?ほんま嫌んなるわぁ」
ふふっと声を漏らすと、こら、と小さく頭を動かしてコツンと小突かれる。痛いなぁとふざけて笑いかけた時、視界の隅で大きくカーテンが揺れた。もうすぐ梅雨というこの季節。その訪れはまだ少しだけ先らしいけれど、最近は不安定な日々が続いている。二人して窓辺に移動して空を見上げた。後ろからお腹へと回された手を握る。空は明るく太陽が出ているにもかかわらず、しとしとと雨が降り注いでいるのがちぐはぐでなんだか面白い。
「明後日ちゃんと晴れるか心配やなぁ」
「今のところは晴れの予報だよ」
「でも今日も晴れ予報やったやん。けど降っとるし」
「じゃあ明後日ももしかしたらお天気雨になるかもね」
そんなんホンモノの狐の嫁入りやん。そう言って大きく笑った治くんの右手の薬指にはキラリとシルバーのリングが光っている。私の同じ場所にも彼と同じものが。そして、明後日にはこのリングはまた別のものとなって、右手から左手へと場所を変える。カチッと音を立てて重なったそれを眺めていたら、そっとそこに左手を更に重ねた治くんが「なぁ」と優しく話しかけてきた。
「ほんまに俺で良かったん?」
答えはわかりきっているくせにこういうことを聞いてくる。やっぱり治くんはこうやって人に甘えてくるのがいつまでも上手いのだ。「そう言われると、考えちゃうなぁ」ととぼけて見せれば、少しだけムッとした顔をして「そこはちゃんと言って欲しいんやけど」と拗ねたような声を出した。
「治くんじゃなきゃダメだよ」
「そか」
「うん。治くんは?」
「言わんでもわかるくせに」
「自分だってわかってて聞いてきたくせに」
「俺はずっとナマエ以外考えられんかったよ」
体を丸めて耳元でそう囁いた治くんはコロッと表情を変え、そのままぎゅーっと抱きしめてくる。確実に大人になっているはずなのに、やっぱりいつまでも大きな子供みたいだ。
「明後日むっちゃ楽しみ」
「私の友達たちもすごく楽しみにしてくれてるみたい」
「そうなん?嬉しいわぁ」
「ブーケトスとか凄く張り切ってるよ」
「あー、女性はそういうの好きよな」
「私も楽しみだなぁ、でも投げるのちょっと勿体無い」
「細部までこだわってオーダーしたもんなあのブーケ」
その日のことを思い出しながら、若干呆れたように笑った治くんが窓辺に飾られた一輪の花の方を見る。この季節に相応しいその花のブーケ。この時期だと人気なんですよと見本の写真たちを見せられた時、もう絶対にこれにするとその場で即決した。途端にはしゃぎ出した私を見て、驚きつつも好きなようにすれば良えよと笑った治くんに感謝をしながらプランナーさんと話を進めたそれは、紫陽花をメインにした季節感の溢れるものとなった。
「こういうのって花言葉とかから決めるんとちゃうの?」
「検索してみれば?」
話を詰めていく私たちの横でスマホを取り出した治くんが、「なぁ!なぁ!」と焦ったように私の肩を叩く。話を止めて横を向けば、まるでその花のように青い顔をした治くんが「浮気に、移り気やって……」と悲しそうな声を出しながら画面を見せてきて、思わずプランナーさんと二人して声をあげて笑ってしまった。
「……あはは、あの時の治くん思い出した」
「また俺のこと馬鹿にして笑っとる!ほんま嫌んなるわ!」
「だって、死にそうな顔してたし」
ケラケラと耐えきれずにお腹を抱えながら、後ろにある大きな胸板に寄りかかるように体重をかける。するとウリャっと悪戯な声が上がったと同時に身体を持ち上げられ、そのまま少し離れた場所にあったソファの上へとボスンと落ちるように治くんと共に体を寝かせた。
後ろから目の前へと移動したその胸板に全体重を預けるようにして額を乗せる。大きくて暖かい手のひらがゆっくりと頭を撫でるのが気持ち良い。「さっきと逆だね」と小さく呟きながらそっと目を閉じた。
「明後日、俺らからやっと無駄な壁が全部なくなるわ」
しみじみと発せられたその声に微笑みを溢す。年齢差を意識させるものも無くなって、戸籍も同じになった。住む場所も、何もかも、これからは治くんとずっと一緒だ。
「治くんがあのブーケとお揃いのブートニアつけてくれるの嬉しいな」
「お願いされたら付けなあかんやろ」
「浮気しないでね」
「そっちの意味は不採用って言うたやん。もうほんま焦るわ、何個も意味があるとか」
「浮気と移り気だけだったら流石に他の人たちも紫陽花は選ばないよ」
「そう言われてみればそうやわ」
待っててほしいと正直に伝え続けてくれた彼のことをひたすら待っていた。彼はひたむきに私のことを追いかけ続けてくれて、そして追いついてくれた。
彼の優しい匂いに混じって雨の日特有の独特な匂いがする。湿度は高いけれど、ジメジメとした不快感はない。ぱたぱたと地面を濡らす雨粒の演奏が室内にも響き渡って、雨雲の隙間から顔を出した太陽が私たちを照らした。
明後日、あの日不安そうに彼が告げてくれた「一緒になってな」という言葉をついに実現させる。ひたむきな愛を意味するブーケを持って。辛抱強い愛を意味するブートニアを左胸に付けた治くんと。
前へ 次へ