すれ違う


数日前は春の気候だったのに、今日はすっかり冬に逆戻りだ。マフラーに顔を埋めて、ギリギリ白くはならない息を気持ちを整えるようにしてふぅーと吐き出す。

ガラガラと音を立て開いた扉にかかっていた、おにぎり宮という暖簾をくぐり、閉店間際で人がいない店内に足を踏み入れた。


「珍しいね、誰もいないんだ」

「おー、今日はみんな早く帰ってったわ。暇人はナマエだけやて」

「私も別に暇ってわけじゃないよ」


カウンターの一番端に座る。まだ何も頼んでないけれど、治は私がまず何を頼むかをわかっているかのようにおにぎりを握り始める。

ほかほかのお米が大きな手のひらに包まれていく。柔らかに形を整えられたそれが海苔に巻かれて、目の前に出される。口の中に広がったお米は信じられないほどに甘い。素材と技術が惜しみなく詰め込まれた唯一の味だ。

こんな閉店間際でも入れてもらえるのは、私が彼の双子の兄弟である侑の彼女だからだろう。それを抜きにしても私と治は仲が良いけれど。

侑の所属チームは大阪にある。彼はその近くの寮に住んでいるが、ここは兵庫でも限りなく大阪に近い土地だ。電車に乗ればそう時間もかからず直ぐに行ける。それにもかかわらず、私はもういつからこの県を出ていないだろうか。最後に侑と会った日はいつだったかは、カレンダーアプリで確認しなければ日付は定かではない。

侑は好きなものには真っ直ぐだし、時間も労力も惜しみなくかける。けれど自分の中の“大切”に当てはまらないもの、興味の薄いものに対しての対応はかなりドライだ。

だから、なんとなく、つまり、そういうことなのかな、と思う。

でも自分から私のことを今現在どう思っているのかを問いかけてしまったら、それこそ本当に終わってしまう気がした。だからなかなかこっちから連絡をする気にも会いに行く気にもなれなくて、こうしてズルズルと月日だけが過ぎていってしまっている。

治に兄弟のこんな話をするのもアレかなと思うのだけれど、私にとっては気の置けない唯一の男友達だ。そして彼はどんな話でも聞いてくれるので、ついつい話しすぎてしまう。


「最初の半年くらいはあんなに忙しい中でもお互い頑張ってスケジュール合わせて会ってたのにさ」


あまり深刻そうにならないように軽く笑いながらそう言って、空になったハイボールのジョッキを置いた。そんな私に、「ツムよりもうんと俺の方が会ってるもんな」と治も笑い返して、彼は閉店作業の手を止めた。


「ほんならもう俺にしとくか?」

「何言ってんの」


ちょっと冗談やめてよと軽く受け流した私になにも返さずに、治はその場で黙ったまま。


「……え、なに」

「ふざけとらんで」

「それがふざけてるんだって」

「冗談で兄弟の彼女にこんなこと言うか」


少し垂れ目のおっとりとした重い二重が、真剣な色を放っている。聞いたことのない真面目な声色に、思わず視線を逸らしながら黙り込むことしかできなかった。


「顔はほぼ一緒やし、性格は絶対俺のほうがええで」

「それは、否定できないけど……」

「真面目に考えてくれ」

「……治のことは好きだけど、でも侑みたいな好きとは絶対違うし、本当、困る。ごめん」


ジョッキの表面の結露がテーブルの上を濡らしていく。俯いた私に呆れたようにかけられた「ツムのどこがそんなに好きなん」という治の切なげな声が、私の心を大きく動揺させる。


「……好きなものに真っ直ぐで、全力で楽しんでるところ。絶対に手を抜かないところ。あんな性格だけど、自分の認めたものや人は突き放さないところ。あと、いつまで経っても子供みたいな笑顔が好き。他にもたくさんあるけど、特に好きなのはそんな感じ」


自分で言ってて途中から馬鹿馬鹿しくなるくらい、私って侑のことが好きなんだなあと再確認する。それを治も感じ取ったのか、「アホらし」と吐き捨て僅かに眉を顰めた。


「そこまでしてツムの事好きなのに、どうしてナマエはそんな卑屈になっとんの」

「連絡もなかなか来ないし、自分が侑の中の大切から外されちゃってたらって思うと怖いんだよ。でも自分から積極的に連絡したり会いに行ったりして、その事実を突きつけられるのも怖くて」

「で、ツムも同じようなこと言いながらナメクジみたいにじめじめウジウジしとるってことか」


腐ったものを口にしてしまったのかと心配になるくらいに酷く顔を顰め、治はハアーと大きすぎる溜息を吐いた。

閉店時間はとうに過ぎている。締め作業を終えた治が、溜まった疲れを和らげるように腕を回し、傍にある丸椅子に軽く腰を掛け「やってられんわ」と雑に吐き捨てる。


「ツムのことどう思っとるのか聞いてこいとかいう面倒なこと押し付けられたと思ったら、結果これや。嫌んなるわ。そういうことはクッソダサいの覚悟で自分で聞けって話やねん。厄介なことに巻き込みよって」


治の視線を追うように顔を動かせば、ガラッと店の扉が開く。気まずそうな表情の侑が顔を出した。


「……聞けとは言うたけど、俺にしとくかなんてふざけなことぬかせとは言っとらんぞ」

「普通に聞いても面白くあらへんやろ。ちょっとはこっちにも楽しむ要素くれ」

「楽しむな」

「この借りは今度返してもらうからな。あと、ナマエの今日の分も後日お前に請求するから」


治がそう言い終えると同時に、侑に腕を引かれ無理やり連れ出される。わけもわからず店内を出る直前に治の方を振り返ったら、彼は手でシッシと追い払うようにして眉を顰めたあと、最後にニッと大きく笑った。

さっきよりも寒さが深まった気がする。それもそうだろう、もう少しで終電も出てしまう時間だ。私の家はここから歩いてすぐだからその心配はいらないけど、侑はどうするんだろう。うちに来る?と、今の状態で言い出して良いものなのか。

ぼーっと繋がれた手を見つめながら、されるがままに彼の後ろを歩いていたら、「なぁ」と彼にしては若干弱々しい声で話しかけられる。それに返事をきちんとしたかったのにうまく音にならなかった。代わりに吐かれた息が白く姿を変え、ふわふわと彷徨いながら空に昇っていく。


「ナマエと会えなかったこの期間、俺は結構、寂しかったんやけど」


足を止めた侑が振り返る。久しぶりにしっかりと顔を見た気がした。いつも自信に溢れていそうな彼の瞳が自信なさげに揺れている。私も、と言った自分の声は、震えるくらいに小さなものだった。


「……あんなこと思わせてすまん。いらん心配かけとったな」


ガシガシと頭を掻きながら、一度整えるように大きく息を吸った侑が繋いでいない方の手のひらを私の頭に置いた。


「覚えとけ、そんでこれも俺の好きなとこの一つに入れろ。俺は一度本気で大事やと思ったもんは何があっても最後まで手放さない主義や」


若干ムスっとしているのは恥ずかしいのを隠しているのだろうか。それとも勝手に決めつけ侑から距離を置こうとした私に怒っているのだろうか。何も言わない私に痺れを切らし「なんか言え」と頬を赤らめ視線を逸らした侑を見て、きっとそのどちらもなんだろうと思った。

この冷たい空気の中でも、彼の体温は下がることなく指の先まで温かい。私はすぐに冷たくなってしまうから、彼のこの温かさにいつも助けられている。じんわりと広がるこの熱に安心感が湧き上がる。


「……私は、まだその大事なものの中から外されてない?」

「外すも何も、手放す気は一切ないって言うとるやろ」


呆れるようにそう言ったあと、「そんな気一切ないのに、不安にさせるようなことしてほんまごめんな。本気で好きだからこそどうしてええのかわからなくなって」と、彼が申し訳なさそうに僅かに頭を下げる。

彼がこんな風になるなんて想像もしていなかった。していなかったからこそ、私もこうして勝手に悩んでしまった。こうなった原因はどちらのせいでもなくて、どちらのせいでもある。侑だけでも私だけのせいでもない。


「私こそ本当にごめんなさい。好きだからこそ聞けなくて」

「今回は柄にもなく日和った俺も悪いし、自分棚に上げてこんなん言うのもアレやけど、ナマエもこれからはちゃんとぶつかってこい」


抱きしめられた途端に寒さがスウっと薄れていく。彼の体温に包まれて、全身がポカポカとしてくる。


「お互い怖がってアホみたいにすれ違っとんのダサ」

「たぶん治が一番そう思ってたよね」

「俺らがこんなんなってるのに、それを勝手に楽しんどったもんな。あいつの性格も大概やで」


話したいことも言いたいこともたくさんある。けれど、お互いの気持ちを改めて知れた今は、他のことは何も考えずにただこの体温に包まれていればそれだけで良いと思う。

彼が私のことをまだ、これからも大事だと言ってくれているのだ。これ以上今は求めるものはない。これからはもっとお互いの関係や想いに自信を持っていこうと考えながら、冷たい唇を温めるようにゆっくりと合わせた。


「終電もうないけどどうする?」

「ナマエん家あるやろ」

「うん」


今までの寂しかった日々だとか、悩んだ事とかを全部乗せた白い息は、彼のものと交わったあと、暗闇に溶けて消えていった。


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