初夏の海


「あんま奥行くなよ」

「大丈夫、大丈夫ー……わっ、濡れた!」


ほら言ったじゃん。そう言って呆れたように笑った鉄朗の腕を引っ張る。バシャっと音を立てて勢いよく一歩進んだ彼が「おわ、お前ここで引っ張んなよ濡れんでしょーが」と文句を言いながら、私と同じように左足を濡らしていた。


「乾くか?これ」

「太陽出てるからきっと大丈夫」

「暢気なもんだね」


夏が来たと言ってもまだ六月。この時期の太陽は真夏のそれほど攻撃的ではなく、程よい暖かさを優しく運んでくれる。人のいない波打ち際で足を水に浸して、初夏の暑さを涼しさに変えた。キラキラと光が乱反射して波と共に打ち寄せる。

繋いだ手から伝わる熱でじわっと汗が滲んだ。学生の頃はそれが気になって仕方がなくて、この時期に手を繋ぐことを少し避けたりもしたけれど、今の私たちがそれを気にすることはなかった。


「あっ」

「だーっ、何してんの」


パシャンと激しく音を立てて波に逆らってしまった私の右足が、大きな水飛沫を立てて鉄朗の左半身を襲った。


「ごめんね」

「別にいいですよ、乾くんでしょ太陽で」


ボクは海のように広い心を持ってるんでね。そう言いながら柔らかく足を動かして、ギリギリ濡れないくらいに私に向かって水をかけてくる鉄朗に「嘘つき」と笑うと、「言ったな」なんて腕を引かれ、バシャッっと今日一番の音を響かせ水飛沫が大きく舞った。


「つめた」

「俺への被害が甚大なんですけど」

「それは自分のせいじゃん」


ケラケラと笑いながら二人してびしょびしょの体を支え合う。鉄朗の大きな手が私の腰に添えられて、高い場所にある彼の顔を見上げると同時にふわりと唇が落ちてきた。一瞬のそれは気まぐれに胸の奥に火を灯して、風のようにその心を揺らす。

ぎゅっと彼の背中に回した腕に力を込めて強く抱きしめた。濡れた服が肌に纏わり付いてそこが少しだけ冷たい。けれど体は熱っていて、触れた場所からじわじわと急激に熱が昇ってくる。


「明日からまた仕事だー」

「……今その話すんの?」


嫌だね。ずっとここでこうしていたいのに。目の前の大きな胸板に額を押し付ける。ポンと柔らかく頭に落ちてきた硬い手のひらが何度もそこを往復する。その気持ちよさに目を閉じた。

聞こえてくるのは波の音と、彼の心臓の音。肺いっぱいに彼の匂いに混じって潮の匂いが流れ込んでくる。足元に揺れる波は、風に踊る花のようにゆるやかに肌を掠めた。


「鉄朗、」


そっと目線を上にあげる。太陽を背負った彼の顔はこんなに近くにあるのに逆光になってしまってよく見えない。浮かび上がったシルエットにそっと手を伸ばして、その輪郭を確かめるように指を滑らせた。


「もう一回」


ぱしゃ、と控えめに踵を上げて彼との距離を少しだけ縮める。ゆっくりと交わされるキスに気持ちを乗せた。どんな言葉にすればこの気持ちを表現できるかわからないから。音にしない私の想いに応えるように、角度を変えながら深まるそれに全身を委ねて、彼の首元に腕を回した。

水辺の風は少し強くて肌の表面をスッと冷やす。それでも内側から盛り上がった熱がそれに勝って、重なったそこが真夏の太陽のように二人の距離を溶かした。


「なんでそんな泣きそうになってんの」

「鉄朗が優しいから」

「またいきなりだな」

「鉄朗、今好きって言った?」

「………あー、うん。心の中でね」

「私も言った。わかった?」

「ちゃんと届いてますよ」


ほら、とぎゅっと抱え込むように抱きしめられて、鉄朗の心音しか聞こえなくなった。波の音も青い空も広い海も何もかもが遠くなって、鉄朗しか感じられない。


「悔しい」

「なにが」

「鉄朗のことこんなに好きなのに。私よりもこの海の方が鉄朗のことかっこよく出来るみたい」

「は?」


いやお前何言ってんの、と笑い出す鉄朗にムッとしながら「私が一番鉄朗の良さを引き出したいのに」なんて我儘を言ってみると、「ホントたまに他人が理解できねぇこと言っちゃうんだよなぁ」と呆れたようにしながらハハッとまた大きく笑った。


「んなこと言ったら今日のナマエも相当可愛いんですけどね」


だから俺も海に嫉妬していー?なんて、挑発的に見下ろされる。そのまま二人で見つめ合って、しばらくその空間に閉じ籠った。どちらからともなく目を瞑る。やっぱり今日の鉄朗はすごくかっこよくって、ずるいなぁなんて思いながら、降り注ぐ唇への熱を受け入れた。

くだらない嫉妬心と、くだらない会話。海に飲み込まれたようなふわふわとした感覚に包まれながら、ずっとずっと、いつまでもこのまま。


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