菅原先生に初恋


恋をしていた。幼いながらに一途に、真剣に。いつだって笑顔で優しく頭を撫でてくれる大きくて暖かい手が大好きだった。名前を呼べば優しく振り向いてくれて、子供みたいに無邪気に笑う。ドキドキと高鳴る胸の鼓動は今までに感じたことがない心地良さを体の隅々まで運んで、心を大きく羽ばたかせた。


「菅原先生」

「んー?」

「わたしね、菅原先生のこと好きなの」

「本当に?嬉しいなぁ。ありがとな」


ポンと私の二倍くらいある大きな手のひらが頭の上に乗った。ふわふわと髪の毛を撫でられて、その気持ち良さに目を細める。


「先生はわたしのこと好き?」

「当たり前だよ、俺はみんなのこと大好きだから」

「そっか!」


好きだと言ってくれたことが嬉しかった。通学路を歩きながら真っ赤なランドセルを揺らした。六年間使い続けたそれは綺麗だとは言えなかったけれど、私の心はピカピカと光った。駄菓子屋のおばちゃんに報告したら、飴を一個おまけしてくれた。そこから家まで信号に一度も引っ掛からなかった。宿題もつまずくことなくすぐに終わった。身に起こる全ての出来事が嬉しいと思える、そんな日だった。

大人だから、子供だから、先生だから、生徒だから。そんなことは一切考えずに純粋に恋ができる年齢だった。好きとはなんなのか、恋とはどんな感じなのか。曖昧でふわふわしたものでしかなかった。それでも当時の私は私なりに、持ち得る最大限の感情を捧げて本気の恋をしていたと思う。


「先生〜!」

「おぅ何だ何だ……って、久しぶりじゃん!」


びっくりした?そう聞けば「びっくりどころじゃないぞ全く!」ときらきらした笑顔で駆け寄ってきてくれる。教卓に置かれた教科書が懐かしい。この教室で、私も先生の授業を受けた。

広い教室に、机と椅子。私が座るにはもうそれらは小さすぎる。ここで過ごして、ここで出会って、ここから先生を見つめていたのに、もう私はここにはいられないのだと実感せざるを得なかった。


「何年ぶりだ?卒業以来だから……」

「六年ぶりかな」

「うっわ、もうそんなに経ったのか!そりゃこんなにデカくなるわけだ」

「女らしくなったって言ってよ」

「はは、それもそうだな」


背も伸びた。髪も伸びた。メイクも覚えて、あの時に比べたらだいぶ身なりを気にしてる。女の子から女性と呼ばれるような体型になった。考え方も変わった。きっと性格も変わった。知識も増えて、いろんな経験をした。

私は全部、変わった。

でも、色素の薄い絹みたいな髪の毛も、落ち着いた柔らかな声も、左目の下の泣きぼくろも、包み込むような笑顔も、たまに見せる子供みたいな表情も、先生は何も変わってない。

向かい合った先生と少しだけ距離が近づいたのは、私の身長が伸びたから。肩に置かれた手のひらが二倍の大きさじゃなくなったのは、私があの日よりも成長したから。


「菅原先生」

「んー?」

「私ね、菅原先生のこと好きだったの」

「うん。知ってる。ありがとな」


私を見るその目の優しさが変わらないのは、先生がいつまでも変わらず私の先生だから。気持ちを過去形にしたのは、私の気持ちが変わったから。


「先生、私ね彼氏出来たんだよ」

「マジで!?どんなやつ」

「もう別れたけど」

「なんだ、残念だなぁ」

「バレー部のね、先生よりも背が高い人だったの」

「おー!バレー部か。俺もバレー部だった」

「知ってる。授業楽しそうにしてたもんね」

「覚えてんの?」

「先生子供みたいで変なのって女子みんな話してた」

「うわ、小学生女子怖ぇ〜」


出会った時、先生は大人だった。私は子供だった。六年が経った今も私は子供のまま。開いていた窓から入ってきた風がひらりと制服のスカートを揺らした。


「高校生、思いっきり楽しめよ〜」

「うん。先生は楽しかった?」

「まぁな、今思うと人生で一番楽しかった気がする」

「へぇ」

「まぁでも、充実してるのは今だって思うよ」


懐かしそうにどこか遠くを見る先生の横顔が眩しかった。先生の高校生活はどんなだったんだろう。今の私とは全然違う青春を送ったんだろうな。恋とかも、したんだろうか。今の私みたいに。

それぞれの時代に、それぞれの感情が芽生えていく。時間とともに体も考え方も変化していく。ふわふわと風に揺れた先生の変わらない綺麗な髪。だけどよく見ると、若干短くなったね。嬉しそうに細められる目尻に少しだけシワが伸びて、変わってないと思っていた先生もちゃんと時間が進んでることがわかる。


「来てくれてありがとな」

「うん。一回会いたいと思ってたから」

「おう、またいつでも待ってるぞ」


わしゃわしゃと掻き回すように撫でられた手を押さえて「もう私小学生じゃないんだけど!」なんて笑えば「そうだよな、ごめんごめん」なんて安心する笑顔で大きく笑う。

「でもいつまでも俺の可愛い教え子なのは変わんないべ?」と開き直った先生は、やめてーという私の笑い声を無視して両手でわしわしと更に激しく撫でた後に、ゆっくりと、ゴツゴツとした細長い指で私の髪の毛を梳くように整えた。

中性的な綺麗な顔立ちをしているのに、ちゃんと男の人。こういうのを最後に知りたくはなかった。けれど、今知れてよかったとも思う。先生と比べたら二回りくらい小さくて、柔らかいんだろう自分のそれでその掌を包んだ。先生は少し驚いたような顔をしたけれど、一瞬でいつものような表情に戻って優しく「どうした?」なんて聞いてくれる。


「私、菅原先生が初恋の人でよかった」


ニッと笑って見せれば、もう一度頭の上にポンと手を乗せた先生が、今まで聞いたどんな時よりも真剣な声で「ありがとう」と呟いて、愛でるような柔らかな顔で私を見つめた。

これから長い時間を生きていく中で、たくさんの過去を振り返る機会が訪れるんだろう。初恋のことを思い出すたび、先生のことを思い出すたび、私は今みたいに、こうやって暖かい気持ちになれるんだと思う。

人生でたった一度しか経験できない。たった一人にしかその感情を抱けない。初恋は二度と訪れない。その限定された唯一の思い出の中には、いつだって優しく笑う先生がいる。

ねぇ、先生、やっぱり私、先生のことを好きになれて良かったって思うよ。


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