花咲く季節


「私も角名くんのことが好きです。……ごめんなさい」


気がついたら口が動いていた。そして、気がついたら体も動いていた。

人の少ない校舎の最上階の隅の教室。そこから階段までは結構な距離がある。廊下に響くバタバタという音は到底リズミカルなものではない。その足音だけで私が運動が得意かそうでないか、いとも容易く悟られてしまうだろう。

四月、進級初日。今日から最高学年。どんな一年が始まるだろうかとワクワクしていたけれど、まさかこんなことになるなんて思わなかった。

私は前からずっと角名くんのことが好きだ。一年生の時は同じクラスだったけど、去年と今年は違う。でもたとえクラスが離れてしまっていても、選択授業の時間が一緒になったり、教室移動時に廊下ですれ違った時に少し話したり挨拶するだけで幸せだった。

それだけで十分だった。角名くんが私のことを好きになるはずなんてないと思っているから。

遅咲きの桜が窓の外に見える。春にしてはいささか暖かすぎるとも言える空気が隙間から漏れている。

今日は体育館が使えなくて部活動が休みらしい。角名くんが私を呼び止めたのは、HRが終わった直後だった。連れてこられたこの場所で、生ぬるい空気を纏った私たちは数十秒黙ったまま立ち尽くし、そして、その静けさを先ほど彼が崩した。


「もう気づいてるかもしれないけど、ミョウジさんのこと好きなんだよね」


瞬間的に溢れた感情はもちろん"嬉しい"だ。でも、同じくらい不思議だった。気づいているも何もない。喜びよりも驚きと不安で頭の中が混乱して、思わず口から飛び出した言葉が冒頭のものだ。

話せるだけで幸せだし、角名くんを好きな人は私だけではないだろう。何よりも彼が私なんかが好きだとか、あり得ない。勘違いか罰ゲームなんじゃないか。そう思ったら泣けてきてしまう。


「なんで逃げんの」


どのくらい走っただろうと彼の声に振り返ってみればたったの数十メートルで、立っていた場所から見て長い廊下の反対側にある階段には、まだ数メートル足りなかった。彼は珍しく焦った様子で、そして少し怒っているようだ。

跳ね上がった体温と心拍が思考をふわふわと浮かせる。いち早く冷静さを取り戻した角名くんが私の目の前で立ち止まって、逃さないとでも言うように圧をかける。


「……私、角名くんのこと好きで」

「うん。だから、俺も好きなんだって」 

「罰ゲームとかで言わせられてるんだったら、あの」

「俺がそんな面倒なことすると思う?こっちは本気なんだけど」

「…………」

「本気じゃなきゃ、自分から動きたくもないよ」

「でも角名くん、私なんかが好きだなんてどうかしてない?」

「どういうこと」

「角名くんだったらもっと良い人いっぱいいるはずでしょ」

「いねえよそんな奴」

「いるよ」

「もしいたとしても、ミョウジさんより良いと感じるかどうかを決めるの俺なんだけど」


ぐぐぐっと眉を寄せ、強めにそう言った角名くんはちょっと痛いくらいに私の左手首を掴んだ。

吹き付ける風が窓をカタカタと揺らす。穏やかな春の午後を荒らす強い春風のように、角名くんの言葉は心地良く私を掻き乱していく。


「ミョウジさんも俺のこと好きなら、付き合って欲しいんだけど」

「……つ、付き合うのは、ちょっと」

「なんで」

「話せるだけで全然十分満足っていうか」

「嘘でしょ」

「本当だよ」

「好きなやつ前にしてそれだけで終わるはずない」

「でも今までずっとそれだけでも幸せで」

「そんな簡単に手に入る幸せある?」

「あるよ。好きな人なんだもん」

「……ミョウジさんにはあるのかもしれないけど、でも俺は、たとえ幸せだったとしてもそれだけで十分だなんて満足はできない。好きだから」


左手首を掴んでいる角名くんの手の力が少しだけ弱まって、するすると降下していく。私のよりもうんと大きな手のひらに包まれて、そして少しだけぎこちなく指を絡められた。


「あ、あの……」

「なに」

「えっと」

「言いたいことあるならちゃんと言って」

「こんなの、角名くんが本当に私のこと好きみたいじゃん」

「好きなんだって本当に」

「……角名くんって人と手繋いだりとかするんだ」

「なにそれ。するでしょ。……これが初めてだけど」


何言わせてんの、と少しだけ恥ずかしそうにしながら顔を顰めた角名くんは、そのまますぐに手を離した。荒れているのは窓の外だけで、廊下まで風は入ってこないはずなのに、私たちの間をスゥーっと空気が冷たく駆け抜けていく感覚がする。

言われてみれば確かに、角名くんが罰ゲームとして誰かに告白するように言われたとしても、絶対に実行はしないだろう。そんなことを言い出すような面倒な人と変な賭け事をするわけもないし、そもそも絡まない気もする。

本気でもない相手にわざわざ自分から行動に移すことも、彼自身が言うように、私も角名くんはしないと、思う。


「やっと信じてくれた?」


さっきまで私のものを握っていた、私よりも大きな大きな手のひらを見つめる。思っていたよりもあたたかくて、でも体温が上がっているだろう今の私には少しひんやりとも感じる、表面の硬い手のひら。

すぐに離れていってしまったのが少しだけ寂しくて、ちょっとだけ名残惜しい、なんて。


「嘘つき」

「え?」

「ミョウジさんも、もう話すだけじゃ満足できなさそうじゃん」


少しでも話せるだけで、すれ違うだけで満足だったはずなのに、私は今もう一度手を繋ぎたいと思ってしまった。たったの一瞬で一歩進んでしまった欲望に自分自身が一番驚いている。

舞い落ちる桜の花びらをふわりと掬い上げるみたいに、角名くんが優しく私の手を取った。背の高い彼の顔をゆっくりと見上げる。この季節の陽射しのような柔らかな表情をしていた。


「言っておくけど、俺は今をちゃんと幸せだと思ってはいても、まだまだ満足はし足りてないから」


角名くんと私を繋ぐそこに自分からも力を込めた。蕾のまま大事に閉じ込めていた恋心と欲が、早急に花びらを開く音がする。


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