吹奏楽部の問題児


「こんの喧しクソブタ…今日こそ絶対逃がさんからな……」


全身の血管が浮き出ているんじゃないかというくらいに怒りを露わにしているのはバレー部の宮侑先輩。プルプルと震える力の込められた拳は今にもこちらへと飛んできそうだった。

終わりだ。そう思い先輩たちの引き止める声も全て無視して試合終了と同時に会場を飛び出し逃げ隠れた私を、野生動物並の冴えた勘で即座に見つけ出した侑先輩は物凄い剣幕で追いかけ捕まえた。獲物を目の前にした肉食獣みたいな勢いで迫り来るその姿はそりゃもう言葉にできないくらいに怖かった。

なぜこんなにも侑先輩が怒りに震えているのか。その理由は完全に私にあった。我が校の吹奏楽部は各部活の応援を担っている。特に全国区のバレー部は選手や相手校に対しての細かい決まりがある。選手のやる気や会場の雰囲気を作り上げる為だ。

その中でも人一倍こだわりが強いのがこの侑先輩だ。彼のサーブの集中の妨げになることは決してしてはならない。先輩が腕をあげたら静かにするために音を止める。言葉にすれば簡単な話だが、ピタリと一斉に音を止めることは意外にも難しい。

そして、私は毎回その音止めのタイミングが上手くできない。


「何っ回言えば学習するん!?鶏のほうがまだ頭良えぞ!」

「ご、ごめんなさいいいいい」

「ゴメンで済むなら警察はいらんねん!歯ァ食いしばれ!」


今日こそは本当に終わったと半分諦めながら頭を抱えてしゃがみこみ次なる衝撃に備えた。本当に殴られるのだと思って強く目を瞑ったが予想した攻撃はなかなか飛んでこない。あれ、と思い薄目を開けるとその瞬間に大きな手のひらがガッと私の頭を強く掴んだ。痛い。頭が潰れそうだ。


「俺が手上げたら音止めろって毎回毎回言うとるやろが!」

「ごめんなさい。頑張ってます!頑張ってるんですけどっ!」

「頑張っとるが何やねん、頑張ったってちゃんとやれんのなら意味ないやろ!言い訳なんか聞きたないわ!出来るまでピシッと練習せぇや!出来ひんのやったらさっさと辞めてしまえヘタクソ!」


掴まれた頭をぐわんぐわんと勢いよく前後に揺さぶられて気持ちが悪くなってきた。それに緊張とストレスもプラスされて何だか吐きそうだ。でももしもここで吐いてしまったらきっと怒鳴られる程度じゃ済まないだろう。待ち受けているのはそれこそ地獄だ。絶対にそれだけは回避しようと両手を口に当てたところで、ギリギリと頭を掴んでいた手がパッと離れた。


「お前そんな協調性なくてよく吹奏楽なんて出来るな」

「……協調性がないのは先輩も同じでは」

「アァ?」

「ご、ごめんなさい」


ギラりとこちらを睨みつける目はとても鋭い。ピシッと全身が石のように固まる。今は余計なことを言うな。そう思っていてもポロッと考えたことが言葉として漏れてしまうのは私の悪い所だ。


「練習しますっ、もっともっとたくさん。だから、今日は許してくださいっ!」

「今の100倍練習しろ!死ぬ気でやれ!死んでもやれ!」

「練習はがんばりますが死ぬのは嫌です!」

「なら早よ出来るようになれや!!」


先輩の勢いに圧倒されて言葉に詰まる。ハァーと重いため息をついた侑先輩は不思議なものを見るかのような表情を浮かべて「音楽のセンス皆無なのによく部活続けとるよな」と呆れたように言いながら同じ目線になるようにしゃがみこんだ。

スッと長い指が近づいてきて思わずキュッと目を瞑った。それと同時にバチンと良い音が鳴るくらいに勢い良くデコピンをされる。痛いと額をおさえれば「これくらいの罰は黙って受けろ」と今度はペシッと頭を叩かれた。さっき頭を掴まれたのは罰じゃなかったのか。どちらにせよ暴力反対だ。


「シンと静まった後にアホみたいなプペーって音鳴らされる身にもなれや。むっちゃ恥ずかしいんやぞ」

「じゃああのグッてやつやらなきゃいいと思います」

「なんで俺がお前に合わせんといけんのや!」

「ぎゃー!また叩いた!痛いです!」


何かの楽器の経験者でも、中学で吹奏楽部に入っていたわけでもない。進学先の候補の一つだった稲荷崎高校の見学に行った時に、偶然吹奏楽部が全体練習をしている音楽室の前を通った。扉の外からでもわかる圧倒的な実力に言葉が出なくなって、全身がビリビリとしたあの感覚を今でも鮮明に思い出せる。私もここに入りたい。その時直感でそう思ったのだ。その気持ちを胸にこの高校の受験に挑んだ。

他の部には見向きもせずに吹奏楽部に無事入部した。これから始まる三年間に心が踊ってワクワクが止まらなかった。けれども憧れの部活で凄い先輩たちに混ざって演奏できることに喜びを感じたのは最初だけで、入ってすぐに自分には破壊的に音楽のセンスがないことを悟ってしまった。初めは周りの子も私と同じように上手く出来なくて、一緒になって必死に練習していた。そのうちどんどん上達していく周りの子達に私だけが一人取り残されいった。

焦って、悔しくなって、悲しくて、泣いた日もある。ここにいられる喜びと、ここにいていいのかと悩む日々の連続だった。朝も放課後も家でもとにかく楽器に触った。ついていくにはとにかく練習をする他ない。他の人の何倍も練習して、それでも人並みにも達せない自分に落ち込みながらも、憧れだったこの場所を離れることは出来なくてズルズルと今も在籍している。

下唇を噛んで俯けば、グッと力強く頭の上へと落ちてきた手のひらがグイグイと押すようにして私の頭を下げてきた。「なんやその顔。辛気臭」そう吐き捨てた侑先輩の声はいつもよりも少しだけ低くて小さかった。グリグリと手のひらを動かしてくるから首が痛い。先輩はバレーボールのセンスはあるのに女の子の扱いのセンスは皆無だ。これこそ口に出したら本気でキレられそうだから言葉にはせず意地でも心の中にしまっておく。


「お前のことはどうでもええけど、俺の時に失敗するのはまじで迷惑やから早くどうにかしろ」

「ごめんなさい」

「試合中もやけど練習中もな。いっつも体育館の外でヘタクソな音がピーピーピーピー響いとんのイライラすんねん」

「……その音私じゃないかもしれないじゃないですか」

「あんな不愉快な音出せんのはお前しか居らんやろ!」


部活の休憩中に教室で音を出すと他の部員に変な目を向けられるから外に出ている。先輩が言うようにド下手くそな自覚のある私は休憩なんかしている暇は無いのだ。

もしも私に才能があったなら。いや、才能はなくても良い。せめて人並みのセンスが欲しかった。高校No.1とまで言われる先輩にはこの感情も理解し難いものなのかもしれないけれど。


「先輩には出来ない私の気持ちなんてわからないですよ」

「………んなもんわかってたまるか」


あぁ。馬鹿だ。こんなことを言いたいんじゃない。先輩はセンスも才能も持った上でさらに周りの人よりも努力を重ねられる人だ。当たるのは間違っている。「ごめんなさい」と小さく謝れば「べつに」と言葉はぶっきらぼうだけれど落ち着いた声で返事が返ってくる。抱えた膝に顎を乗せると、さっきまでとは打って変わってポンと優しく手のひらが頭の上に落ちてきた。

さわさわと頭を撫でる手のひらは、先程まで私の頭を力強く掴んでいたとは到底思えないほどに優しい手つきだった。

いつも応援席から先輩の試合を見ていると思うことがある。先輩はボールにとても優しく触れる。絶対に乱暴にしない。こんな性格なのに、本当にバレーボールという競技に対しては人一倍愛を持って接しているんだと素人ながらに見ていてわかった。最初は驚きしかなかった。あの嘘みたいに優しそうな掌。でも今は特別驚きはしない。その暖かい掌がもう一度私の頭部を撫でた。やっぱりあの優しい手つきは嘘なんかじゃなかった。


「先輩は、こんなに下手なのに続けるのは意味ないって思いますか」

「ないな。下手なやつ嫌いやし」

「………そうですか」

「この俺の一言で本気で辞めるんやったら所詮お前はその程度やったってことや」

「………何で辞める前提なんですか」

「お前が変なこと急に聞いてくるからやろ」


侑先輩は何一つ間違ったことは言っていない。出来ないのは私で、それ以外に理由はないのだ。だからこそ心苦しくなる。好きと才能は必ずしも比例するわけではない。言葉に詰まり思わず顔を俯かせると「まぁでも、お前の諦めの悪さだけは凄いと思っとるで」なんて意外な言葉が降ってきた。


「一体いつまで待てばちゃんと出来るようになるん」

「………死ぬまで」

「くたばれアホ」


侑先輩は私のことを下手くそと言ってすぐに怒る。怒らせるようなことをしているこちらが悪いから当たり前ではあるのだけれど。それでも、出来ない私のことを決して馬鹿にして笑いはしない。上手い下手の結果がどうであれ、人の努力を嘲笑うことはないのだ。怖いし理不尽だし暴力的だし口も悪ければ性格も悪いけれど、嫌な人では決してない。


「侑先輩って、変なの」

「はぁ!?何やねん急に。表出ろや!」

「もうここ表ですよ」

「うっっっっざいなァ!!」


バシッと音が鳴るくらいにまた強く頭をぶたれた。痛いって言ってるじゃないですか。ううっと声を漏らしながら叩かれたところをさすっていると、重いため息を吐きながら立ち上がった先輩と目が合った。


「ん」

「ん?」

「…………早よ手ぇ出せ」


言われるがままに恐る恐るその手につかまりながら、ゆっくりと引っ張られるように腰を上げた。「ウジウジしとるやつが一番嫌いや」そう言いながら背を向けて歩き出した先輩に慌てて付いて行く。


「またたくさん練習します」

「当たり前やろ。次やったらほんまにしばくぞ」

「上手くなってるかちゃんと聞いててくださいね」

「なんやそれ図々しいな。聞きたくなくても毎日のように勝手に下手な音が聞こえてくるっちゅーねん」


呆れたようにそう言った侑先輩の言葉だけを聞くと刺々しいのに、実際の声はとても明るかった。ここに逃げ込んで来た時とは全く反対の気持ちで会場への道を戻る。怖くて厳しい先輩。だけどすごく優しい人。そういうところを尊敬している。早く迷惑をかけずにしっかり応援できるようにならなきゃいけない。

「帰ったらすぐに練習します」と言ったら、一歩前を歩く先輩は「ほんまにやる気だけは一丁前やな」と楽しそうな声を出して笑った。


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