香水


元カレに未練は?と聞かれたら、全くないと答えられる。今の彼氏が一番好きだし、過去に縋り付く必要なんて何もない。

しかし記憶というものは厄介なものだ。感情はなくとも思い出というものはあって、それが簡単に呼び起こされる。嗅ぎ慣れた香り。二年前、私はこの香りに毎日のように包まれていた。

だからと言って今の彼氏である倫太郎に「それ元カレもつけてた」なんて言えるわけもない。有名で人気なブランドのものだ。被ったって何もおかしくはない。街中にもこれをつけている人なんてたくさんいるだろう。今は気になってしまうとしても、いずれ慣れて何も思わなくなる。そう思って、私はそのまま何も言わず一ヶ月近くを過ごした。

雪は降っていないけれど、降っていてもおかしくはないほどに冷え込んだ夜。チームメイトとスタッフみんなでご飯を食べて帰ってくるという倫太郎のために、いつもよりも部屋の設定温度を上げておいた。

しばらくして帰ってきた彼は、お酒も飲んでいないので特に酔った様子もなく普段通りだ。しかし、あまり好ましくない香りがする。スタッフの中にはもちろん女性もいるだろうし、その中に匂い移りの激しい香水を好む人がいても何もおかしくはない。

女性用の香水の香りがするからといって、彼のことを信用しているので疑うことはしない。けれども胸がざわめいてしまう。倫太郎のことは信頼しているのに、彼の漂わせる香りが私の脳の深くに未だ存在する二年前の記憶を引っ張り出してしまう。

元カレとはよく女性関係で喧嘩をしていた。別れた原因もそれだった。いつもいつも、飲み会の後は決まって普段の香りにプラスして知らない女の匂いもまとわりつかせていた。


「何かあった?」

「……何もないよ?」


そう返しても、彼は私の言葉をどこか疑うように眉間に皺を寄せたまま。元カレのことを思い出してたなんてそんなことは言えなくて、こっちもいつも通りを演じてやり過ごす。……予定だったが、鋭い彼がそんなことを許してくれるはずもなく。


「何もないならこっちきて」

「その前にシャワーしてきなよ」

「するけど、その前にちょっときてよ」

「なんでよ。後からでもいいでしょ」


あまり今は近づきたくない。頑なに動かない私に痺れを切らした倫太郎が自ら近づいてくる。濃くなった匂いに顔を顰めた。

嗅ぎ慣れた香りだからこそ、ネガティブな思い出があるからこそ、他人の匂いが混ざってしまっていることにも簡単に気がつけてしまう。またそれが自分でも嫌だ。


「俺なんか匂う?」


私の表情だけで察した彼がクンクンと自身の腕を嗅いでみせる。


「匂いは別に、大丈夫」

「そう?」

「……うん」

「嘘だね」

「その香水は確かに好きじゃないけど……」


でも嫌いでもない。良い香りだとは思う。邪魔な思い出があるから苦手なだけ。

倫太郎の目は他人に嘘をつかせない鋭さを持っていて、そして他人の嘘をすぐに見抜く。その恐ろしさの前では下手な誤魔化しは効かない。


「匂いは大丈夫なのに嫌いってこと?」

「あー、まあ」


倫太郎が鋭いだけじゃなくて、私の誤魔化し方が下手すぎるのも問題だ。これなら嘘でもその匂いが嫌いだって言っておけばよかった。匂いは大丈夫だと言ってしまった手前、やっぱり嫌いとももう言い出せなくて黙り込むしかない。


「じゃあ理由当てる」

「えっ」

「元カレがつけてたとか」

「あー……はは」

「わかりやす」

「……ごめん」

「何で謝るの」

「だって、同じ香りだからって嫌がられるの嫌でしょ」


うまく倫太郎の顔が見えなくて、俯きがちに目を逸らす。彼はそんな私の様子に軽くため息を吐いた後、「元カレと同じ香りを知らないまま結構な日数漂わせちゃった事実のほうがよっぽど嫌なんだけど」と言って、若干イラついたような表情を見せた。


「この数日間、ずっとナマエは俺と会うたびどこかしらで元カレのこと思い出してたわけでしょ?」

「いやそんな頻繁にでもないけど……まぁちょっとくらいは」

「ちょっとくらいでもヤなんだけど。一瞬も思い出さずに記憶から抹消してほしい」


そんなことを言われても。できることならこっちだってあんな記憶は捨てたいけど、難しいものは難しい。


「とりあえずこれは捨てる」

「そこまではいいよ、だって結構値段するでしょ」

「貰い物だし」

「もっと捨てちゃダメじゃん。私と会わない時とかつけなよ」

「ナマエの元カレの匂いかって思いながら行動するの俺が嫌だろ」


とりあえず捨てる、と彼は部屋の隅の棚に置いてあったボトルを手に取って、一度睨みつけたあと戸惑うことなくゴミ箱に放り投げた。ガコッと大きな音を立てて視界から消えたそれを見て、申し訳ないと思うと共に少しだけホッとする。


「もしも今度またそういう元カレをたった一秒でも思い出すようなものがあったら、その時は絶対言って」


拗ねたような、むっとしたような顔をした倫太郎が真剣な顔をしてそう言った。


「言ったら全部捨てるの?」


その様子が少しだけ面白くて言い返してみたら、「捨てる。バレー以外」なんて真面目な顔をして言い出すからついつい笑ってしまった。


「一応聞いておくけど、元カレにバレー経験者とかいないよね?」

「大丈夫、いないよ」

「良かった。まぁいても俺の方が強いけど」

「いない元カレと張り合わないでよ」


シャワーに向かう彼の後ろに着いていきながら笑っていると、振り返った彼がさらに「ナマエの中では常に俺が一番じゃないと」なんて子供っぽい事を言い出すから、何だか嬉しくなって思わずギュッと抱きついた。


「大丈夫、倫太郎が一番だよ」


捨てられた香り。いつもより少し暖かな室内ではいつも以上にはっきりと匂いがわかる。苦手だ。でも、さっきのように顔を顰めたりはもうしなかった。


「良かった。じゃあこの俺の体に残ったウザったい最後の匂いはナマエがその手で消してね」

「え?」

「記憶からも消すまで逃さない」

「え……こわ……」


私はもうとっくにシャワーを浴び終えたんだけど、といくら主張しようが今の彼は聞く耳を持たない。仕方がないと諦めて、私も二度目の入浴の準備をすることにした。

この先のどこかで、またこの香水をつけている人と出会うこともなくはないだろう。でもきっとその時は、もう元カレとのネガティブなことじゃなくて、大好きな倫太郎との今日のやりとりを思い出すことになるんだろうなぁと確信が持てる。

部屋の設定温度を普段通りに戻した。それと同時に彼に名前を呼ばれる。未だ拗ねたような表情のままの彼にバレないようにこっそり笑って、あんなに難しいと思っていた元カレとの記憶を消去して、記憶を上書きしながら二人分のバスタオルを用意した。


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