うわさ


私には大好きな彼氏がいる。私にはもったいないような完璧な人で、付き合えていることがそろそろ三ヶ月が経つ今でも夢みたいに思える!

なんて思っていたけれど、もしかしたら本当の本当に、夢だったのかもしれない。



「北くんとミョウジさんって別れたらしいよ」


まじか。そう言ったのはその会話をしていたもう一人の子じゃなくて、心の中の私だ。

たまたまトイレの前を通ったら、開きっぱなしになっていた扉からそんな会話が聞こえてきた。このまま立ち去ることもできず、盗み聞きをするように立ち止まる。


「てか最初から付き合ってたかどうか怪しいよね」

「ミョウジさんがただ付き纏ってただけにも見えるしね。まー、どちらにせよ最初から北くんはミョウジさんに興味なさそうだったよ」


ええ、そうだったの……?私がただ付き纏っているだけに周りからは見えてたの……?という驚きと共に、ちょっと納得できてしまう気持ちもある。悔しいけど。

その後も二人の会話は続いていたけれど、これ以上は苦しくなりそうだったので聞くのはやめた。それでも『最初から北くんはミョウジさんに興味なさそうだったよ』というさっきの言葉が、頭の中をぐるぐる回り続けてなかなか離れていかない。

私たちはもうすぐ付き合い始めて三ヶ月になる。けれどキスどころか手を繋いだこともない。まだ高校生だし、周りのカップルがどうだからといって焦る必要もない。私たちは私たちのペースでいい。そう思ってきたし、北くんは初彼氏というのもあって、一緒にいれるだけで嬉しくれ嬉しくて、そういうペースだとか何だとかはあまり深くは考えてはなかった。

でもこう思っているのは私だけで、北くんは私に興味がないせいで今後も進める気もなければ、ゆっくり自分たちのペースでとか、そんなのも考えてなかったらどうしよう。

言われてみれば一緒に帰ろうと声をかけるのはいつも自分からだった。北くんはどうしても部活があるから私のことを待たせてしまうし、自分からは誘いにくいよね、なんて思っていたけれど、考えてみればメッセージを送るのも、話しかけるのも、告白をしたのも全部全部私からだ。

……あれ、もしかして本当に別れててもおかしくはない?し、付き合ってるっているのも私の思い込みとかだったらどうしよう!?なんとなく後者の方が可能性としては高い気がする。

北くんに告白した時の私は、緊張しすぎて焦ったように「好きです!」と伝えたあと、そのままの流れで早口で「北くんとこれからも一緒にいたいです」と捲し立てた。それに対して彼は引きもせず、いつも通りのテンションで「よろしく」と言ってくれた。

けれど、もしかして、もしかして。そのよろしくは"一緒にいる許可"をしてくれただけで、付き合おうって意味ではなかったのかもしれない。だってどっちからも付き合うという言葉は出なかったわけだし。

嬉しくて友達には「北くんと付き合えることになった」とすぐに言ってしまったし、そんな絵に描いたようなベタベタした行動はしてないはずだけど、廊下や教室では友達と呼ぶにはいささか近すぎるだろうという距離感で話しかけてしまっていたと思う。

サァっと全身の血の気が引いた。今日は元々寒いけど、そういうのではない寒さに襲われる。無意識のうちに指先が少しだけ震えていた。今日は一緒に帰ろうって誘ってないけど、このままでは帰れない。

自主練を含め彼らの活動が終わるのはだいぶ遅い時間で、辺りはもう真っ暗だった。さっきまでは校舎の中にいれたけど、この時間は部活動以外の生徒は追い出されてしまうから外にいなければならない。吐き出した息が白い。それでどうにか暖を取ろうと試みてみるが、なかなか冷えた指先は温まらない。

部室棟の隅に腰掛けていた私に、体育館から出てきた北くんの後輩の双子の金髪の子が目敏く気がつき、こちらを指差し「北さんの!」と少しだけ大きな声を出した。


「……ミョウジ?何で居るん?」


眉を顰められ一瞬怯みそうになる。しかしなんとか耐えて「ごめん勝手に。一緒に帰りたいなと思って」と言ったら、「今何時だと思っとんの」なんて今度はため息混じりに言われてしまった。

早足に部室に入ってく彼の後ろ姿を見ながら、やっぱり迷惑だったかなと後悔しつつも今更帰ることなんてできない。

冷えた指先が冷たいを超えて鈍く痛み始めた頃、予想よりもだいぶ早く北くんは出てきた。横に並んで歩き出す。真っ暗の道に街灯がなんとか明かりを提供してくれていた。今日は空に月もない。話題が話題なのでなかなか話し出せなくて、静かな時間が流れ続ける。彼のシューズと私のローファーが地面を鳴らす音だけが聞こえた。


「こんな暗い中待つんやったら、体育館に一回顔出して言ってくれたらええのに」


珍しく自分から口を開いた北くんの声はいつもより冷たく感じた。それが本当にそうなのか、今の私は何でも不安に感じて勝手にそう聞こえてしまっているだけなのかはわからない。


「ごめんね」

「こういう時は次からはそうしろ」

「次もいいの?」

「ほんまは寒いし危ないしこんな暗い中待って欲しくないんやけど」

「……迷惑?」

「心配にはなるけど、迷惑なんて思わんよ」

「そうなの!?」

「何でそんな驚くん」

「え、だって私達、付き合ってないかもしれないのに」


私がそう言った途端勢いよくこっちを向いた彼に釣られ、私も思わず僅かに俯いていた顔を上げた。一緒にい始めてから、彼は思っていたよりもずっと笑うのだと知ったけれど、それでも他の人と比べればあまり表情に変化がない。そんな北くんには珍しく、わかりやすくとても驚いた表情をしている。

今なんて言った?という声も、私の勘違いとかではなくて、確実に怒っているような声だった。


「私は、北くんと付き合ってると思ってたんけど……でも別れたらしいって噂あるし、そもそも最初から付き合ってなかったのかもとかも言われてて」


北くんのいつもの表情よりも少し歪められてはいるけれど、顔だけでは何を思っているかまではわからない。


「てかもしも付き合ってるのが私の勘違いだったら、三ヶ月近くもただ付き纏ってたヤバい女だよね怖すぎるっ……!」

「それよりも何よりも本人なのに付き合ってるかどうかここまできてわかってへん方が怖いやろ」

「どちらにせよ怖くてごめん!」

「付き合ってるんとちゃうんか」

「ほんとに!?」

「これで違ったらこの関係なんなん」

「わかんない……」


じっと見つめられ、動けなくなる。心の奥の底の底まで見透かされそうな彼の視線から逃れる術はない。


「そもそもどうしてそんなこと思った」

「告白の時、一緒にいて欲しいって言った通りに北くんはこうやって一緒にいてくれてるけど、付き合ってくださいとは言わなかったし、もしかしたらって思っちゃった。あの日から付き合ってるので良いならもうすぐ三ヶ月経つでしょ?だけどキスどころか、私達まだ手も繋いでないしさ。私は今は一緒にいれるだけでも十分嬉しいし、私達のペースがあるしとか思ってたけど、北くんは一緒にいてくれるだけならそういうのも何も考えてはなかったかな、とか」


へへ、と気まずさを笑うことでなんとか誤魔化そうとしたら、不意に無言で手を握られた。彼の右手が私の左手に触れている。寒いのに、彼の手のひらはさっきまで部活をしていたからなのか、元々体温が高いからなのかわからないけれどとてもあたたかかった。


「手、繋げばええの」

「良いっていうか」


今度は気恥ずかしさを誤魔化すようにヘラヘラとした小さな声を出してみるけど、北くんはそれにも何も言わなかった。


「こういうことすれば、ミョウジは勝手な他人のアホな噂に流されずに俺との関係信用してくれるんか」


真面目という文字を擬人化したような北くんではあるけど、それでもあまりにも声が真剣だった。ふざけた様子も誤魔化す様子も一切ない。


「ならキスでも何でも、望まれること全部したるわ」


そう言って彼が一歩私に近づく。私は、思わず一歩後ずさった。

正直言って、私は今初めて好きな人と手を繋ぐという行為をして、もういっぱいいっぱいだ。北くんの言葉に胸をときめかせる、なんてそんな表現じゃ足りないくらいに爆発寸前まで心臓は膨れ上がっている。

このまま、キス、なんて、そんなことできるわけない。


「ご、ごめん、あの」

「別に謝らんでええよ」

「北くんが嫌とかじゃなくてね!」

「わかっとるわ」


こんな反応して、もしかしたら嫌な気持ちにさせてしまったかもしれない。そう思ったけれど、彼は本当に気にしてはいないようで「大丈夫やから」と優しく言ったあと、いつもよりもゆっくりと歩き出した。

手を繋いだままだから、私は強制的に彼の横に並ぶことになる。いつも横を歩いてるけど、ここまで近づいたことはなかった。気を抜いたら手だけじゃなくて肩まで触れてしまいそうだ。いつの間にか指の先は北くんと同じくらいに温かくなっていて、寒さではなく緊張のせいで体が強張っていた。


「誰や、くだらん噂流しとるやつは」

「隣のクラスの子たち、だったかな」

「今度会ったら別れるつもりはこれっぽっちもあらへんわって言っとけ」


また北くんの口から感情のわかりやすい怒ったような声が発せられる。しかもさっきよりも少し拗ねたような感じにも聞こえる。

珍しいとかじゃなく、初めてのことで嬉しい気持ちと戸惑いが大きかった。


「そいつらにも、俺との関係疑ったミョウジにも、疑わせた俺にも腹立つ」


きゅっと力を込められて、手のひらが隙間もないくらいに合わせられる。思わずヒュッと息を吸い込んでしまってなんだか恥ずかしいけれど、ありがたいことに彼は今回もスルーしてくれたみたいだった。


「北くんって、ちゃんと私のこと好きなんだ」

「当たり前やろ」

「あー……へへ」

「大事にしようと思って全部我慢してきたけど、不安にさせるんなら手出しとけば良かったな」

「言い方」

「わざとや」

「……大事にしてくれてたんだね?」

「当たり前やろ。好きなんやぞ」


思えば北くんにここまでハッキリと好きだと言われるのは初めてのことだった。恥ずかしくなって下を向いた私に、彼が「これからはちゃんと自分の気持ちももっとはっきり言葉にせんとな」と少しだけ揶揄うように言う。


「嬉しいけど、恥ずかしいから控えめでも良いよ。たまには欲しいけど」

「じゃあここぞという時に取っとくわ」


次からはもっと行動でも伝えるし、と顔を上げた私に見せびらかすように彼が繋いだ手を持ち上げた。


「さっきは避けられたけど、こっちはいつでもキスでも何でも出来るからな」

「え」

「って言うと軽く聞こえるかもしれへんけど、ちゃんと考えとるし」

「わかってるよ!」

「じゃあ覚悟決まったらいつでも言いや」


そう言って笑った北くんにキュンと心臓が音を鳴らしたのが自分でわかってしまった、と思えちゃうくらいに高鳴った。苦しいくらいにドキドキしている。

手を繋ぐだけで今は精一杯だけど、早く慣れて次に進めるように頑張ろう。今よりももっと最高な北くんとの時間がきっと待っている。期待と決意を胸に浮かべ、しっかりと手を繋いだまま静かな道を歩いた。

明日あの噂を流してた人たちを見かけたら、ちゃんと否定するんだと心に誓いながら。


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