流される


その人には好きな人がいるという噂がある。あくまで噂である。確証はないし、信憑性もかなり低い。

女性人気は私がみた限りでは高い方、だと思う。告白も何度かされているらしい。が、誰がいつ告白したのか、結果どうなったのか、実際に恋人がいるのかは誰にもわからない。好きな人がいるという噂は、彼女がいるかもしれないからというところから派生している可能性もある。

ただモテるという話題だけで留まればいいのだけれど、こんな感じなのでそこで終わるはずがない。これも真実なのか偽りなのかわからないが、みんな彼にうまく丸め込まれて遊ばれてしまっているという、どちらかというとマイナスな噂まで流れてしまっている。

根拠もないのにそうした話が回るのは酷いなと思いつつも、彼の醸し出す雰囲気的に、そうしていても別におかしい事ではないなと思ってしまい完全には否定できないのが申し訳ない。

その人の名前は角名倫太郎という。

個性的な顔立ちは魅力的だけれど、一見冷たそうにも見える。しかし実際の本人は、確かにクールだけれどかなり優しいと思う。常に一緒にいたりとかしたら、知らぬうちに私も好きになっちゃっててもおかしくないな、なんてついつい考えてしまうくらいには。

定期的に開催されている飲み会に、角名さん達が来ることはかなり珍しかった。それでも特にこれと言って気にする事もなく、いつものように上司の機嫌をとりながらなんとか乗り越える。そして気がつけばもう解散の時間となっていた。

ほとんど無理やりのように上司たちに摂取させられていたアルコールが回って、立ち上がると同時に視界が僅かにブレる。


「ミョウジさんあっち?方向一緒だから送ろうか」


酔いと戦う私にそう声をかけてきたのはまさかの角名さんで、混乱するも上手い断り方もわからないしとりあえず頷く。今はうまく頭が回らないのだ。

送り狼はやめろよーという上司たちの揶揄いを、「それはミョウジさん次第ですね」と茶化すようにして、彼は思考力の落ちている私とは違いうまく躱していた。


「水とか買う?」


僅かに眉を顰め、角名さんは私の顔を覗き込んだ。しかし私は短く「大丈夫です、ありがとうございます」とだけ早口で言って、目を逸らすように首を振ってしまった。

ないわけではない。けれど、仕事以外での交流は、もちろんほとんどない。会話という会話も特にしないまま、隣を歩く角名さんをバレないように横目で見上げる。

いろんな噂のある人だ。けれど彼はバレーの選手でもあるし、職場の内外問わず人気なのは間違いない。そういう人にはあることないこと噂がついて回るのは仕方のないことなのかもしれない。

変に警戒するのも意識しすぎるのも、こうして同じ方向だからと親切に一緒に歩いてくれている彼に失礼だろう。


「角名さん、あの」


思い切って話しかけてみようと赤信号で止まったタイミングで横を向いた。それと同時に、右手に自分のものではない体温を感じた。

あの、の続きは、一体何を言おうとしていたんだっけ。


「……角名さん?」


戸惑いがちに再度かけた声にも反応はなく、彼はいつもの表情のまま青に変わった信号に従って横断歩道を歩き出す。

驚きで私もそれ以上は声が出ない。しかしその間も手が離されることはなく、繋がれたそこは私と彼の体温が混ざり合って、少しずつ熱を持っていくだけだった。


「角名さん」

「……何?」

「それ、こっちのセリフです」


この事態にどう出たらいいのかわからず、どうしても発する声がか細くなる。繋がったそこを引っ張るようにして無理やり立ち止まらせた。彼の手を振り解けるほどの力は私にはない。魅力的に思えるはずの、彼の少し冷たそうにも見える感情の読めない瞳が、今は少し怖い。


「酔ってるんですか?」

「俺は基本ノンアル」

「じゃあ、これはなんですか。遊んでるんですか」

「そういうことするやつに見える?」

「……噂は、よく聞きます」


それだけ言って目を逸らした。気まずい空気が流れる。遊んでいそうかと言われたらそうは思わない。でも完全にも否定はできない。彼の思考は普段から全く読めないからだ。

冬の始まりを完全に告げられたこの時期の夜は、手袋が欲しいくらいに肌の表面が冷える。


「そんな噂信じてるの?」


角名さんにはそんな自覚はないだろうし、ただ私が今勝手に怖く思っているからこそそう感じてしまっているだけなのだろうけど、彼の発した声は、ただでさえ冷えている周りの温度をさらに下げるような冷たさを孕んでいるような気がした。


「信じてるわけじゃないですけど、否定もできないとは思ってます」

「そう」

「すみません」


謝り、俯いた。どうすれば良いのかわからない。アルコールに侵された脳ではあまり深いことも考えられない。

もう最高に気まずい。なのに彼は手を離すことはなく、私が逃げないようにするためなのかさっきよりも力を込めてくる。


「遊ぶだとか、そういう面倒事に繋がりそうなのは嫌いなんだ」


屈むようにして顔を近づけられる。離してくださいと言いたいのに、どうしてだろう、なぜかそれが口には出せない。彼が放つ空気感は、自然と人の感覚を鈍らせていくような気がして、その点にだけはただ恐怖を抱いた。


「前に角名さんには好きな人がいるって聞きました」

「よく知ってるね。それは本当」

「……なのにこんなことするんですか」

「ミョウジさんにだからしてるんだよ」

「揶揄わないでください。面倒事になりますよ」


眉を顰めた私に角名さんは軽く息を吐くように笑った。何がおもしろいんだろう。


「俺みたいな性格のやつが、好きでもない人をわざわざ自分から送るって言い出すと思う?」


ミョウジさんの中で俺の可能性はゼロ?と言って、低くて耳に馴染む声で確認するようにもう一度「ミョウジさん?」と確認するように名前を呼ぶ。優しく撫でられた手の甲に肌が粟立つと同時に、体内に残っているアルコールが一段と強く脳を襲ってくる感覚がした。

好きだと直接言われたわけではない。でも角名さんの瞳は好きだと言ってくるようで、混乱する。

好きな人がいるという噂の対象を私のようにうまく見せかけて、流そうとしているのかもしれない。遊ばれているのか本心なのか、ここにきてもまだ定かではない。

でもなんだかだんだんとこの空気に流されてもいいような気もしてきた。彼が放つ空気感は、自然と人の感覚を鈍らせていくような気がする。先ほど感じたことを改めて思った。やっぱり、その点にだけはただ恐怖を抱いた。

判断が鈍る。アルコールが入っていることもあるし、一緒にいたら気付かぬうちに好きになってしまいそうな人だなとずっと思っていたくらいには、私としては彼は好印象だった。そう思っているくらいなのだから、この先彼とかかわりを持つきっかけがあれば、何かが起きてしまう可能性だって悔しいが正直否定はできない。それがもしかしたら今なのかもしれない。そう思ったら警戒心がなくなってしまった。

こんなに流されやすい性格ではないのに。自分を安売りするタイプでもないのに。角名さんの放つ圧に、今までのそんなのはどうでも良いかと思わせられる。

何かがあればコロッと傾いてしまいそうだなんて思っていただけあって、さっきまで怪しみ続けていたはずなのに、いつの間にか心臓は高鳴り始めている。

何も言い返さない私に、彼は「嫌なら逃げて」と言って、静かに腕を引いた。ほとんど抱きしめられていると言っても過言ではないくらいの距離になる。

あ、なんか本格的にやばいかも。そう思った頃には、でもまあいいか、なんて考えも頭の片隅に浮かび始めてしまって本当に困る。きっとこうやって数々の女性たちが彼に魅せられてきたのだろう。ずるい人だ。

空いた方の手で私の顎を掬い、額と額をぶつけられる。好きとは言われていないのに。うまく丸め込まれてしまっていると思うのに。どうしよう逃げなきゃという考えが、頭の中から追い出されていく。この先の展開に期待している自分まで現れた。

吐息がかかって、鼻の先が触れ合ったところでギュッと目を瞑る。ああもうどうにでもなってしまえ。私もこれで晴れて噂話の仲間入りだ。でもだからと言って、彼とこんなことになりましたとは言いふらしはしないだろう。なるほど、だから彼は噂で騒がれるのに詳細な内容は一切わからないままなのか。

きっと訪れるであろう、唇への熱がなかなかこない。冬の夜の冷たい空気がそこに触れ続けている。ゆっくりと目を開けると、離れていった角名さんが「あんまりこういうの流されちゃダメだよ。俺以外にしてたら本気で怒るからね」と困ったように笑った。

好きな人には誠実でいたいから、この続きはミョウジさんがお酒飲んでない日にね、とか言って。


「……なんなんですかもう」

「俺になら流されてもいいかな、って思ってくれるくらいには嫌われてないんだってわかって嬉しいけど、好きな人流して手に入れたくはないでしょ。俺も別に焦ってるわけじゃないし。これだけすれば嫌でもこれから俺のこと意識してくれるだろうしね」


口角だけを上げて控えめに笑った後、繋いだ手の指をさっきよりもしっかりと絡めて、角名さんは歩き出した。もう私の家はすぐそこまで見えている。

防犯的な意味で家の目の前までは流石に。とさっきまでは思っていたけれど、もういっそのこと最後まで送られてしまおう。

今後の私はどうなるのだろう。もう予想なんかしなくてもわかると思う。今日は流されなかったけれど、きっとこのまま私は彼に興味を抱いてしまってそのまま突き進むんだ。完全に良いように弄ばれている。焦りながらも、やっぱりそれでもいいやと思ってしまう自分に呆れた。見上げた彼の横顔がなんだか格好良く見えてしまって、それがまた悔しい。


「来週の水曜、練習も早く終わるから夜空いてるよ」


私を見下ろして、そう言って口角だけを上げて控えめに笑った。冷たい空気が火照ろうとする頬をなんとか冷ましてくれる。

何かがあればコロっと傾きそうとか考えるんじゃなかった。来週の水曜まであと四日、このうるさい心臓抱えながらどうやって耐えればいいのかわかんないし。


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