苗字
気がついたら自分の苗字が佐久早になろうとしていた。
どうしてこんな事態になっているのか。という言い方をすると、彼が私のことを脅しでもして、無理やり押印させようとしているかのように思われてしまうかもしれない。が、それは絶対に違うということだけは伝えておきたい。
彼の欄が全て埋まっている婚姻届。その隣の私の欄も、きちんと全て埋まっている。もちろんこれは私自ら書いたものだ。自分の意思で、この人と生涯を共にすることを誓おうとしている。
では、なぜ気がついたらなんて言い方をしたかというと、彼と付き合い始めた当初、その気が全くなかったからである。
全く、と言ってしまったら相手に失礼かもしれない。でも、本当に何も考えていなかった。私以外の人も、彼氏や彼女ができたと言っても、誰しもがこの人と結婚するために!と最初から心に決めてスタートしているなんてこともないと思う。
大学の同級生で、あまり異性と関わりを持たない彼だったけれど話す機会が他の人たちよりは多くて、なんとなく波長が合う気がして、顔も結構好みだった。そして、関わりが少ない人たちからは無愛想にも思われがちな彼は、私にだけには特別壁もなくちょっと優しかった。私のことが好きだったからだ。これは彼から告白をされた時に初めて知ったことだったけど。
告白された時は、佐久早も誰かのこと好きになることあるんだ、と内心驚くとともにそこに一種の面白さまで見出していた。今思うととても失礼で申し訳ない。
交際がスタートして、特に何事もなく私たちはうまくいってしまって、最初は「まぁ佐久早に今のところ嫌だと思うところはないし、この人の恋愛って想像できなさすぎてなんだか面白そうだし、付き合ってみようかな」なんて気持ちだったのにもかかわらず、私は彼のことをいつの間にか本気の本気で好きになってしまって、なんなら私の方が彼にのめり込んでしまって、今に至るのである。
右手に印鑑を持ったまま、押すことはせず黙り込んだ私に聖臣が視線を投げかけた。どうしたんだと言葉にせずとも瞳で語りかけてくる彼に、私は「ついにここまできちゃった」と届くか届かないかのギリギリの声量で、独り言を言うかのように、しかししっかりと彼に向かって話しかける。
「こんなはずじゃなかったのになぁ」
「何が」
「気がついたら私の苗字が佐久早になろうとしてる」
「……ちゃんと許可とっただろ」
「プロポーズのこと許可って言わないでよ」
「……取り消すなら今だぞ」
「取り消すわけないじゃん」
じゃあなんなんだと、眉間にこれでもかと皺を寄せた彼には申し訳ないとは思いつつ、私は話を続ける。
「聖臣と恋愛なんて、飽きなさそうだし一回付き合ってみよーくらいの軽い気持ちだったのに」
「軽く思ってたのはナマエだけだろ。俺は最初からここまで見てた」
「うん、知ってる。だからこそ今私がなんの躊躇いもなく籍入れようとしてるの怖いんだよ」
「なんで」
「聖臣、自分の望んだ方向に物事を進めていく力が強すぎる」
「強制はしてないだろ」
「だからこそだよ。聖臣ってもしかして最初から私と最後まで歩むこと望んでたのかなって、気がついた時には私ももうその未来が訪れるとこになんの恐怖も疑問も抱かなかったもん」
彼に狙いを定められたら終わりだということに気がついていなかった。愛すると決めたら彼は最後まで愛しぬいてくれる人だ。それを自覚した頃にはもう遅かった。しかも私までその生き方に影響されてしまっていた。彼の真っ直ぐで強すぎるその気持ちを怖く思うどころか嬉しくて、初めから今まで変わらぬ想いをぶつけ続けてくれている彼に対してさらなる愛おしさまで抱いてしまった。
「なんなら、今はもっと先まで見えてるけど」
そう言った彼の目をしっかりと見る。彼と出会った時には一切思い描いていなかった未来、今いる場所。きっと最初は彼だけが見据えていただろうここにこうして私もちゃんと立てている。そして、ここから先は二人で描き歩いていける。
押された朱が乾くと同時に、そろそろ行くかと聖臣が腰を上げた。ポケットに財布を入れて、左手にスマホを持って、右手で聖臣の左手を掴んだ。珍しく何も言わないまま、彼は左手でしっかりと私の指先と自分のそれを絡め合わせて、右手で全ての欄が埋まった書類を優しく握る。
「帰りさ、市役所の近くのコンビニ寄ってアイス買お」
聖臣が黙って頷いた。たったのそれだけで幸せに包まれる。繋がれたそこに力を込めた。
気がついたら自分の苗字が佐久早になってしまった。軽い気持ちで付き合い始めたはずなのに。佐久早に、なってしまった。いつの間にか私も彼のことを愛し始めてしまったからだ。
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