思い出
「こんなところにいたんだ」
ガチャっと重い扉が動いた。振り向くと角名くんがいつも通り表情の読めない顔でゆっくりとこちらへと歩いてくる。風が強く吹いて、手に持ったままの卒業証書が入っている筒を強く握り直した。校庭で写真を撮ったり寄せ書きをしたりする同級生たちの楽しそうな声がこの屋上にも届いている。
「みんなと最後の思い出作らなくていいの?」
「そういうことするタイプだと思う?」
カシャン、とフェンスが音を立てた。私の横に立った角名くんがそれに寄りかかるようにその場にしゃがみ込んだ。
なんでここに来たの、とは聞けなかった。聞かなくても良いと思った。これが最後だからだ。角名くんと過ごす最後の日。彼は今月末には兵庫に行く。
「これあげる」
「ボタン?普通男があげるんじゃないの。しかも自分から渡すとか」
「いいから、持っといて」
大切にしてよね、と無理やりそれを押し付ける。「ちゃんと大切にするよ、失くさない限りは」。そう言いながらポケットにそれを仕舞った。それと同時に彼は反対の手でブチっと自身の第二ボタンを勢いよく引きちぎった。
「お返し」と手渡されたそれを「一生大事にするって、こういうときは社交辞令でもいいから言うものだよ」なんて言いながら受け取った。
「不確定な未来を下手に約束する方が残酷だと思わない?」
クツクツと喉を鳴らす角名くんの笑い声が風に乗って耳へ届く。彼のいつものらりくらりと躱していくような雰囲気と口調が少しだけ気に食わなかった。それでもその気持ちもわからなくもない。だから何も言わない。
「私は多分この時間を一生忘れないと思う」
「へぇ、そりゃ嬉しいね」
「角名くんは?」
「記憶が薄れない限りは思い出すよ」
思い出は美化されていくから、きっとこのやりとりも歳を追う毎に甘酸っぱい青春の思い出として私の中で消化されていくんだろう。
「角名くんがプロになってテレビ中継とかしてたら嫌でも思い出すな」
「じゃあ頑張らないと」
「勝手なこと言うなとか言わないんだ?」
「俺がしないのは不確定な未来の約束だけだって」
珍しく強気に笑った。最後に見たその笑顔が共に過ごした三年間で一番印象深い彼の表情となって脳裏にこびりついた。
あの時のことを思い出す度に胸が締め付けられる思いがした。若い頃の青春の一ページとして予想通りに美化されたのは、思い出だけではなく彼の存在も一緒だった。
自分の言った事も彼の言葉も全部全部覚えている。もらったボタンも引き出しに入れた小さな箱にちゃんとしまって保管してある。
テレビの中で控えめに笑う彼を見つめた。
当たり前だけれどこちらを見ることはない。あの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。けれども日の丸を掲げた彼の横に私は居なくて、屋上の景色もそこにはなかった。
きっと彼はもう忘れてしまっているんだろう。あの日のことも、私のことも。それでも一方的に宣言した約束を私はこれからも破るつもりはない。
あの日の言葉も、肩越しに見えた景色も、夕日の眩しさも、風の匂いも、彼の笑顔も、抱いた感情も、もらったものも、共有した時間も。
全部大切にする。失くさない限り。一生。
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