犬岡走との帰り道
パタパタと元気よく尻尾を振って歩く犬の表情はどこか楽しげに見えた。飼い主よりも先を行って、定期的に「人間、ちゃんと着いてきているか?」と確認するように振り返る姿はなんだか愉快で、ペースの早そうな散歩に若干息をあげている飼い主もまた、犬と同じ幸せそうな顔をしていた。
「犬岡、お手」
「俺犬じゃないし」
バカにすんなとでもいうように一度大きく笑った犬岡は、散歩をしている犬を横目に「かわいー」と一言こぼした後、視線をまたこちらに戻した。
「犬岡お手〜」
「だからさあ」
「お手は?」
「わん」
「あはは、しっかりやってくれるんじゃん」
乗ってくれたどころか丁寧に鳴き声までつけてくれた。バレーボールに打ち込む犬岡の手のひらは、私のものよりもずっと大きくて硬くてあたたかい。
「早く秋にならないかな」
「九月だから、もうすぐじゃない?」
「でも残暑やばいし」
その後も何事もなかったように続けられるいつも通りのくだらない会話。お互いに、本当に何事もないように振る舞っている。しかし今の私の頭の中は大混乱で、とてもじゃないけどいつも通りなんてことにはいかなかった。
お手と言ったことで重ねられた手のひらは、そのまま離されることなく私のそれを握りしめ、今もぶらぶらと遊ぶように揺られ続けている。
「なんで何も言わないの」
あはははと元気よく笑って、犬岡は見せつけるように繋いだ腕を私の目線の高さまで上げた。「何か言ってよ」と言われたって、こっちはどうしていいのかわからなくてどんどん混乱していくだけだ。
真夏のピークなんてとっくに過ぎ去ったぬるいはずの空気が、サウナみたいに感じられるくらいにグンと一気に体温が上がる。手汗をかいていないかヒヤヒヤする。そんなことを心配するよりも、まず犬岡に何かを言わなきゃならないのに。
「てっきり払われると思ってたから、俺、これ以上はどうしていいかわかんないよ」
小さな声でそう言った犬岡が、繋いでいない方の手で顔を隠した。見える部分の全部が赤く染まっていて、私たちの周りだけまだまだ真夏みたいな温度をしている。
握る力を弱めたら、逆に力を強められた。つられて私の手のひらにもまた力が入る。お互いに離し方がわからなくて、でも繋いだままでうまく事を進める方法もわからなくて。
駅の奥から電車の走り出す音が聞こえた。多分、私たちが乗るはずだったものだろう。その音すらも遠ざかってしまって、再び周りが静かになってしまう。
意を決して「あのさ」と声をかけてみたら、タイミング良く犬岡も全く同じことを言った。
「そっちからどうぞ」
「いや、犬岡が先にどうぞ」
「……あー、じゃあ」
バクバクと高鳴る心臓の音と犬岡の声で頭の中がいっぱいになって、手のひらがじんわりと熱くなる。今度こそ手汗をかいていないかと本格的に焦ってきた。こんな駅前で、誰かに見つかったらどうしよう。犬岡がこっちをみている。
「もうちょっとこのまま、寄り道して行かね?」
「うん」
「他にも言いたいことあるんだけど、それはもっと静かな場所に行ってから言うから、ミョウジも今は何も言わないでおいて」
「わかった」
先週よりもほんの僅かに温度の下がった風が、私たちの繋がったままの部分を冷ますように表面を撫でていく。それでも全くと言っていいほど体温は下がっていかなくて、まるで夏の盛りの茹だるような熱にうなされてる時のように、呼吸をするごとに胸の辺りが苦しかった。
にかっと大きく歯を見せて笑った犬岡が、太陽のようにきらきらと眩しい。頬は、彼がいつも着ている部活のジャージみたいな色に染まっていた。
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