「お兄ちゃん」


ニヤニヤといういやらしい笑みが隠しきれていない倫太郎が、口元にスマホを当てながら愉快そうにこちらを見る。


「ねぇもう一回言って」

「絶対嫌だ」

「お願い、一回だけ」


一体何がそんなに楽しいのかはわからない。が、倫太郎はもう一回もう一回と引き下がろうとはせず、しつこく迫ってくる。

つい昨日まで帰省していたからか、不意に「これ見て」とスマホ画面を向けてきた倫太郎に対して、間違えて「なぁにお兄ちゃん」と言ってしまったのが全ての始まりだった。倫太郎は渋る私に「ねぇ」と未だ諦めることなくもう一度お兄ちゃんと呼ぶことを要求してくる。


「嫌なんだけど」

「良いじゃん別に」

「別に良いなら呼ばなくても良いじゃん」

「良くない」


なんでだよ。という思いが顔に出てしまっていたのか、倫太郎はソファの端まで私を追い詰め、真剣な表情で「もう一回だけ」と繰り返した。本当に嫌だけれど、そのあまりの圧の強さに私もついに折れてしまって「お、お兄ちゃん」と渋々口に出す。

彼氏のことをお兄ちゃんと呼ぶのは、わかっちゃいたけどとんでもなく恥ずかしい。もう良いでしょと顔を見られないように俯きながら、倫太郎の胸を押す。が、びくともしてくれない。


「……俺、妹がいるんだけどさ」

「知ってるけど」


会ったことあるし。なんなら仲も良いし、たまにこっちにきた妹ちゃんとは二人で一緒に出かけたりもする。なのに彼はまるで秘密を打ち明けるような神妙な顔つきをしていた。すでに知っている事実を真面目に話し始める意味のわからなさに、私はただ戸惑うことしかできない。


「今まで友達に妹っていいよなとか言われても、うぜーだけじゃんとか思ってきたけど、今初めて妹っていいなって思った」

「うん……え?」

「だから、俺の妹のナマエが最高って話」

「いや私のお兄ちゃん倫太郎じゃないけど」

「嘘言うなよ」

「嘘言ってんのはそっちなのよ」


私の知らない変なスイッチでも入ってしまったのだろうか。何言ってんだこの人、と少し怯えながら倫太郎から離れようと試みるも、がっしりと両脇に手を差し込まれてしまってそれは叶わない。


「もっとこっちおいで」

「今の倫太郎なんか怖いからやだ」

「違うでしょ、お兄ちゃんでしょ」


普段あまりしないような笑みを浮かべ、ニコニコとこちらを見る。掴まれた腕を親指でゆっくりと撫でられて、ピッと思わず背筋が伸びた。


「今日はお兄ちゃんの言うこと聞いてくれるよね、ナマエは良い子だからできるよね」

「ノリノリじゃん。しかもそういうタイプのお兄ちゃんではなくない?倫……」

「…………」

「……お兄ちゃんは」

「うん、良くできました、えらい」


倫太郎ってこんなに優しい声出せるんだ。と思わず思ってしまった。彼は柔らかに微笑みながら、愛でるように頭を撫でてくる。

この時点でもうこれ以上は何を言ったって無駄だろうと悟りはしているけれど、それでも素直に従うのはやっぱり恥ずかしい。私は倫太郎みたいにそんな設定にすんなりと入り込めないと思いながら、肩をトンと押しさりげなく組み敷こうとしてくる彼に「仮にも妹に何しようとしてんの」と文句を言う。


「何しようとしてるのかナマエにはわかんないと思うけど、お兄ちゃんに任せておけば全部大丈夫だよ」

「やっすいAVみたいなこと言うじゃん」

「うちのナマエはAVなんて知らないし言わない」

「怖いって」


呆れたようにそう言いながらも、もうこうなったらとことんまで付き合うしかないとこっちも腹を括った。今日は彼が満足するまで絶対に終わらせてはもらえないパターンだ。心の中でため息を吐きながら、「なるべく優しく教えてね、お兄ちゃん」と、彼の背中に腕を回した。


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