天童覚はなんにもなんない


◎2023年5月企画


春と呼ぶには暑すぎて、夏と呼ぶには涼しすぎる。梅雨を控えた五月の終わり。ちょうどこの時期の話だった。頭の片隅に残る記憶の欠片。忘れられない人がいる。


「天童くんってなにになるの」


ただ隣の席だったから、何気なくそう聞いてみた。それまでも会話はなく、隣の席のくせにほぼ唯一と言っていいくらいに関わっていなかったクラスメイト。別に嫌っていたわけでも避けていたわけでもなくて、ただ彼が、そこまで周りの人間に興味がなさそうに見えたから、こっちからもあまり触れずにいただけだ。


「なんにもなんない」


急に話しかけてみたけれど、彼は私のことを無視することなく、思っていたよりも普通に言葉を返してきた。


「なんにもなんないって何」

「そのままの意味っしょー」


わかんないよなんて笑いながらも、私も将来がしっかり見据えられてるわけでもないし、何になるかなんてわからないから、聞かれてもそう答えるしかないかもなあと思った。


「なんだか天童くんらしいね」

「俺っぽい?」

「うん。天童くん、何にも縛られないって感じのオーラ出てる」

「エー」


ぐでんと机に大きな体を伏せながら、顔だけをこちらに向ける彼の、話すたびにわずかに揺れる赤い髪が綺麗だ。


「私も天童くんも、何になるんだろうなあー」


配られたばかりの進路調査の紙を掲げた。やりたいことなんて、特にない。

せっかく進学校にいるのだから、出来るだけ良い大学を狙ってみようかなとは思う。自分にとっての良いの基準も正直わからないけど、後々の選択肢は多い方が良い。


「好きなことすればいいじゃん」

「好きなことかー」

「ないの?」

「えー?なんだろ……天童くんはある?」

「あー……ダラダラすること」

「それだとなりたいものニートになっちゃう」

「それはそれでいいかもネ」

「良くはないよー」


なんて、クラスの他の誰も気に留めないような私たちのやりとり。好きなことなんていうけど、私は一体何が好きなんだろう。

こうして真剣に考えようとすると何も出てこない。自分で自分が未だわかってない。十七年私として生きてきたのに、まるで自分が他人みたいだ。


「……それ、一個ちょーだい」

「ああこれ?一個と言わず好きなだけ食べていいよ、甘すぎて食べきれそうになくて」


机の上に置いていた、袋の空いたチョコがかけてあるクッキーを天童くんに渡す。

彼は嬉しそうにそれを頬張って、好きなだけ食べて良いと言ったし、本当に食べきれないから全然構わないのだけれど、遠慮もなく全てを平らげてみせた。


「好きなんだ、それ」

「んー?そうだねー。好き」


かも、とか、そんな装飾はつけずに彼はハッキリと言い切った。

コンビニで百数十円の大人気商品。何に対してだろうが、曖昧にせずにちゃんと好きだと発言できる、それが何だかかっこいいなんて思った。

大も小もない。その対象は何だって良い。別に誇れるものでも特別なものでもなくて良い。たとえコンビニのチョコレート菓子だろうが、好きなものを好きだと言い切れるものが一つでもあれば。それだけでかっこいいじゃないか、素敵じゃないか。

お腹が満たされたのか再び机に伸び始めた天童くんを横目で見た。窓から入ってくる初夏の風に、赤い髪が楽しそうに揺れていた。

たった、それだけだ。天童くんとの思い出は。あと何回か話はしたけど、記憶に残るような会話ではなかった。唯一残っているこれも、決して特別なやりとりではなかったけれど。

ぼーっとしていたら休み時間もまもなく終わる時間になっていた。オフィスの中がざわざわし始める。外から帰ってきた同僚が「これじゃもう夏じゃん」と言いながら汗を拭った。


「でも明日は涼しいんだって」

「なにそれもー。あっ、それ一個ちょーだい」

「いいよ」

「ありがとうー。こっちも食べていいよ」

「うん、もらう」


私の持っていたお菓子を一個と、彼女の持っていたものを一個交換する。その学生みたいなやりとりに、また当時のことを思い出した。彼は全部食べたな、これを。


「ナマエっていつもそれ食べてるよね」

「そうかな」

「うん。大好きじゃんって思いながら見てる」

「あはは、好き」


コンビニで百数十円のお菓子。私の好きなもの。好きになったものの一つ。

風の噂で天童くんはショコラティエになったと聞いた。しかも、フランスで。ニートになるのでもいいかもと言っていたくせに、だいぶかけ離れたものになっている。好きだけを追い求めた人ができる仕事だ。それでも、なんにもなんないと言った彼は、その職業に就きながらもなににもならず彼は彼のままなのだろう。やっぱり、天童くんらしい。

結局私は特別好きなことを仕事にしているわけじゃない。でも、その対象がなんだろうと好きなものを好きだと言い切ることが出来る人間でいる。

あの時の、誰も気に留めない何でもないやりとり。だけど、あの普通だったら忘れてしまいそうな、特別でもなんでもない天童くんと過ごした一瞬が、私の中の特別として永遠に残っている。

好きとハッキリ言い切った天童くんを思い出す時、私は少しだけ強くなれるような気がしている。私も今もなににもならずに、私のままでいられていると再確認できるのだ。だから、彼との当時の会話を思い出すことが、好きだ。

春と呼ぶには暑すぎて、夏と呼ぶには涼しすぎる。梅雨を控えた五月の終わり。ちょうどこの時期の話だった。頭の片隅に残る記憶の欠片。

忘れられない、人がいる。


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