03
「晶子ちゃーん、これもお願い!」
「はーい!」
天童さんのお店で働くようになってからもうすぐ一ヶ月。だんだんと業務内容にも慣れてきた。もちろん私は厨房の中には入らないので、主にレジ回りだとか他の雑用だとかを担当している。
学生時代にバイトをしていた時のことを思い出して懐かしくなった。当時とても良くしてくれた店長は今どうしているだろうか、なんて考えながら今日も楽しく仕事を終えた。
基本的にトップに立つ天童さんがあんな感じの性格なので、従業員内での揉め事も変な雰囲気も一切ない。癖の強いショコラティエを周りが理解して支えているといった感じで、特に固いルールもなく、かといって緩すぎもせず本当に良い職場環境を保っていた。お客さんも良い人たちばかりだ。常連さんが多いこの店は、新入りの私にも気軽に話しかけてくれる。
初めて心穏やかに、この土地で楽しさを見出せているような気がした。
「おつかれ〜」
「お疲れ様です!」
たまたま店を出る時間帯が一緒になった天童さんと地下鉄の駅までの道を歩く。もう外は暗く、街灯に照らされた石畳が赤みのある綺麗なブラウンに染まっていた。
こんな夜でも人通りの多い道をぼーっとしながら歩いていると、「ん〜」と隣で難しい顔で何か考え込むようにして唸っている天童さんが「晶子ちゃんはさぁ」といつもより少しだけ真剣な声で話しかけてきた。
「なんでしょう」
「日本食がすげー恋しくなった時って、どうしてる!?」
向けられた質問に思わずパチパチと瞬きを繰り返す。真面目そうな話の切り出し方だったから、てっきり仕事関係で何か言われるのかと思って少し身構えてしまった。
天童さんはそんな私の反応は気にもせずに「もしかして全く日本食恋しくならないタイプ!?味噌汁とかさぁ、特に好きって訳でもないけどたまに飲みたくならない!?」と驚いた様子で顔を覗き込んでくる。
「えっと、基本的にお味噌汁は頻繁に摂取したくなるので毎日のように作ってます」
「あ〜イイネ、わかる。でも味噌こっちだと高くない?」
「少し安く手に入るスーパー知ってますよ」
マジ!?天才じゃーん!と目を輝かせた天童さんは、楽しそうにピョンピョンと飛び跳ね、「和食食いてー!」と頭を抱えた。
「食べに行きます?」
「でもこっちにある和食って和食じゃないよねー」
「まぁ、その気持ちは分からなくはないです」
寿司屋って書いてあるのにカルフォルニアロールしか置いてない店とかズコーってなっちゃうよねぇ。と悔しそうに嘆いた天童さんに、「あの」と少し控えめに言葉を投げた。
「私の作ったものでもよければ食べにきますか?調味料とか食材はほとんどあるので」
「いくいく!いいの!?」
「はい、いつもお世話になっていますし」
いえーい!と叫びながら天童さんがその場でくるりと回った。薄手のチェスターコートの裾がひらりと舞い上がる。遠くに見えるライトアップされたエッフェル塔を背景にはしゃぐ姿はなんだか面白い。
特にこれといった特徴もない無難な手料理。和食といってもザ・日本食というものではなく、日本じゃどこでも食べられているようなごく普通の家庭料理だ。それでも天童さんは文句は言わずに美味しい美味しいと食べてくれているのでとても助かる。
あまりにも褒めるので少し恥ずかしくなって「そんなに褒められるほどの腕前じゃないですよ」と謙遜してみれば、「ニホンジンの悪い癖だよね。良いところはちゃんと受け止めなよ。俺はダメだと思ったらハッキリ言うし」とビシッと指をさされてしまった。
少し作りすぎたかなと思っていたけれど、天童さんは見事に完食してくれた。そして満足そうな顔をしながら、温泉に浸かった時に自然と出てしまうような「あ〜」という何とも言えないような声をあげてボフっと後ろに倒れ込んだ。
「疲れた、もうこのまま寝たい」
「ええ……せめて歯は磨いてください」
「そしたら寝ていいワケ?」
「好きにしてください」
「………晶子ちゃんってさぁ」
「なんですか?」
「他の人にもこうなの?」
食器を洗い終わって手を拭きながら後ろを振り返ると、寝っ転がったままジトッとした目でこちらを見つめる天童さんと目があった。そのままお互い無言でジッと視線を合わせる。シンと静まり返る部屋に、外で誰かがアコーディオンを弾く音色が小さく反響した。
「………………」
「………………」
「こうなの、とは?」
「ん〜」
「……他の人にもと言われましたが、少なくとも天童さんと同じくらいに親しくなった方もお世話になった方もこっちでは出来てないので、自分の家でこうやって誰かと一緒にご飯を食べるのは今日が初めてです」
そう言うと、それまで口を尖らせて眉を顰めながらどこか不機嫌そうな表情をしていた天童さんが、急にパッといつものように笑った。
「そろそろ帰ろっ」
その場で気持ちよさそうに伸びをして、弾みをつけてグンッと勢いよく飛び起きる。傍らに置いてあったコートとカバンを手に取ると「ありがとネ美味しかったよ!」と手を振って帰ってしまった。
まるで嵐のような人だ。窓の外に広がる夜空の紺色はこの街を隠すことなく優しく包み込み、進む先の道標を見失わないように星が白く瞬いている。
こんな感じで、天童さんのお店で働き始めてからは、飽きない毎日を過ごしていた。