道を云はず:天童

04




お洒落なジャズをBGMに、べールがかったように白んだ朝陽に煌めくパリの街をゆったりと歩く。通りがかったパン屋で焼きたてのクロワッサンを買って、大通りの一角に佇む人気のカフェのテラスで一日の始まりを楽しむ。そんな理想通りの休日とは、残念ながら今は縁がないようだ。

バタバタと早朝から忙しなく駅のホームを駆け抜ける。長い長いエスカレーターを駆け降り、発車のベルが鳴り響くホームを全力で走って、閉まりかけるドアに二人して滑り込んだ。ガガッと音を立て閉じられたその扉は日本の地下鉄のものよりも大分荒く、力強く、下手をして挟まれでもしたらと考えると怖くなってしまう。

昨日、この電車に乗り遅れたらヤバイからその一本前のに乗ろうと話していたにも関わらず、その“乗り遅れたらヤバイ電車“にさえ乗り遅れてしまいそうな時間に、天童さんは呑気に待ち合わせたメトロの入り口へと現れた。そこからはもうお分かりの通りだ。


「っぶねー!焦った!」


ゼェハァと息を荒らげながら車内で胸を押さえて息を整える。本当に、危なかった。今日はパリの郊外にあるパーティーホールで、新作の発表のためにここらのショコラティエが一堂に会するらしく、天童さんももちろんそれに呼ばれている。

そんな場所になぜ私も共に向かっているのかというと、この間仕事終わりに「暇なら晶子ちゃんも一緒に来るー?タダでたくさん食べられるよ!」と声をかけられ、「いいんですか!?行きます!」と二つ返事で誘いに応じた。あまりの返事の早さと勢いに、食い意地張ってると揶揄われ笑われたことは少し恥ずかしかったけれど、色んなお店のチョコに触れられるのはとても楽しみだ。


「間に合ったから良かったものの!すっごく焦りました!」

「俺もさすがにビビった!やべぇ〜!」


何が面白いのかはわからないけれど、楽しそうにお腹を丸めて笑っている天童さんは本当に反省しているのかどうか怪しい。けれどもとにかく間に合うのならば良いかとそれ以上はその話題には触れないことにした。電車に揺られながら、他のお店の詳細や天童さんの気になっているラインナップの話を聞く。目的地に近付けば近付くほど楽しみが増して、「顔に出てるヨ」とニヤニヤ笑った天童さんを肘で突きながら電車に揺られた。


「すごい……!」

「んお、空気から甘ッ!」


所狭しとチョコレートたちが並べられている。会場の扉を開けた瞬間から漂ってくる、鼻が蕩けてしまいそうな程にうっとりとする甘い香りを思い切り堪能するために、目を瞑って大きく息を吸い込んだ私を見て、天童さんは「子供みてぇ」と馬鹿にしたように笑った。


「一仕事してくるから回ってていいよ」

「わかりました」


天童さんは他のショコラティエの方々のところへと挨拶に行った。普段はヘラヘラとしているのに、当たり前だけれどこういう所はしっかりとしている。天童さんが戻ってくるのを待つ間、ふらふらと会場内を歩きながら様々なチョコレートを食べて回った。

甘味の少なく誰からも好かれるような控えめで上品なもの、いつまでも口の中に残るその余韻までもが楽しめる濃厚な甘さのもの、ほろ苦くて甘酸っぱい大切な日に食べたくなるようなもの。一粒一粒、そのどれもが美味しい。口に含んだ途端に思わずうーんと声が漏れてしまうくらいに。

気になるチョコレートを端から残らずパクパクと口へ入れ堪能していると、トントンと誰かに左肩を叩かれた。振り向くとそこには知らない男性が一人。首にかけられたネームホルダーには、店舗名と本人の名前が記載されていることから、きっとどこかのショコラトリーの方だろうということがわかる。


『はじめまして、今日は誰かの付き添い?』

『はじめまして!そうです』

『それ、僕が作ったやつなんだけど一個食べてみてよ』


指を差された先には、見た目がとても可愛らしい小ぶりのチョコレートがあった。言われるがままに手に取ってパクリと口へ含む。少しだけベリーの酸味が効いた滑らかなこのチョコレートは、ミルクティなんかと合わせて陽の当たる午後のティータイムでゆったりと味わうのにピッタリだと思った。


『美味しいです!女性に人気が出そうですね』

『すごく嬉しいよ。君も気に入ってくれた?』

『はい!』

『そっか!じゃあこの後………んーっと』


ニコニコと嬉しそうに笑ったその人は何かを言おうと口を開けたが、突然詰まってしまったその続きの言葉をなかなか発することがない。不思議に思って『どうしたんですか?』と聞いてみても、あぁとか、えっとと言葉を濁して、『君、サトリのところの子なんだね。何でもないよ!ありがとね』と手を振ってそそくさとどこかへ去っていった。


「……何してんの」

「あ、お帰りなさい」


少し不機嫌そうな顔で戻ってきた天童さんに「今これ食べたんですけど、すごい美味しかったです!」とそのチョコレートを指さすと、「見てたよ」と苦虫を噛み潰したような顔をした。


「あっちのやつのが美味しそうだったし」


パシッと私の手を自然にとった天童さんが、人をかき分け今居た場所とは少し離れたブースへと歩いていく。


「どう?」

「こっちのも全部美味しいです!」

「晶子ちゃんソレばっかで全然参考になんねー!」


プクッと頬を膨らませた天童さんは、むにっと私のほっぺたを軽く摘んだ。「痛いです」と頬を抑えると、それをみた天童さんが面白そうに笑う。


「たくさん食べたでしょ。どれが気に入った?晶子ちゃん食リポど下手だけど、一応参考にするヨ」


そう言ってニヤっと口角を上げた天童さんに少しムッとしながら、今日食べた中で一番おいしかったチョコレートを一粒手に取ってみせた。


「天童さんも食べます?一緒に食リポしましょう」

「えー、メンドクサ」

「いいじゃないですか、ホラ」


あー、と大きく開いた天童さんの口の中に、ポンとそのチョコレートを投げ込んだ。「どうですか」と聞いてみても「うーん、どうって言われてもな〜」と、ゆっくりゆっくりチョコを舌で溶かし味わっていてなかなか感想が飛び出さない。


「天童さんも食リポど下手じゃないですか」


同じように口に含んだチョコレートをコロコロと舌で転がし味わいながら、お返しだというようにそう返すと「性格ワル〜」と怪訝な顔を向けられる。


「どうもなにも、このチョコ作ったショコラティエまじで世界で一番天才だな〜としか思えないよ」

「でしょう……!!私もそう思います!!」

「そんなにハッキリ言われると俺も照れちゃうんだケド!」

「どれも美味しいですけど、何を食べても、一番私好みの味なのはやっぱり天童さんのチョコレートです」

「…………この場所でソレ言うのホント勇気あるよね」


ぱくぱくと他のお店のチョコを興味深そうに食べ始めた天童さんを見つめながら、ふふっとバレないように小さく笑った。

パリの夕方を連想させる、淡い街灯に当てられた石造の深い琥珀色。幼い頃から憧れてきた欧州の華の都をギュッと閉じ込めたようなそれを一粒手に取って、自身の口の中へゆっくりと誘う。私の淀んだ気持ちを吹き飛ばした彼の、少し遠回りでまっすぐなその優しさが舌の上で転がってじわじわと溶けていく。個性的で、どんな味なのか口に入れるまで予想できない。しかし気付けばその魅力に取り憑かれていて、もう他の刺激では満たされないほどに彼の作り出す独特の甘さにいつの間にか侵されている。

どんなに美味しいものを食べたって、結局最後に辿り着くのは、やっぱりこの人の作ったチョコレートだ。


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