瀬を早見にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ




 ぽつんと部屋の真ん中に置かれた一冊の歌集を手に取った。元々荷物の少ないこの部屋は、他に目立つものも特になく、本当に少し前までここに人が住んでたんか疑いたくなるほどや。誰もいないここは不気味なほどにシンと静まり返っていて、まるで現実世界では無いような気分にさえさせた。

 ぱらぱらと捲ったそれには歌が書き連ねてある。一人の女と一人の男。浮世を離れたこの場所で、ばらばらの時代に生きたこの二人が確かに同じこの場所に居ったというただ一つの証。

「ほんまに不器用なやつやな」

 涼しい顔して器用になんでもこなすくせに、肝心なところで笑ってしまうほどに不器用。性格も、生き方も。ちゃらぽらんのようで全然そうではなくて、冷めとるように見えて内側に秘めるもんはとんでもなく熱い。冷酷そうな印象を持たれがちやけど、関われば関わるほど根っこの部分は柔く優しいのがわかる。一人で生きていけそうなのに見た目に似合わず繊細で、思わず構ってやりたくなる。

 また会おうと言ったその男は、舞い上がる紅葉と風に紛れてそのままどこかに消えていった。強風に耐えきれず閉じた目を開いた時、もうどこにもそいつの姿はなくて、どんだけ叫んでも駆けずり回ってもその場所には俺一人しか居らんかった。クシャッと踏みしめた枯葉の音ですら、まるで悲鳴のように大きく聞こえる。そんな空間が広がっただけ。

「・・・・・・とんだ馬鹿やな」

 ぽつんと小さく呟いたその言葉に、「なんでそう言うこと言うかな」と無表情に近い顔で不機嫌そうに返してくる声は、もうここにはない。また来たのと怠そうに目を細めながらも俺を出迎え、そういえばこの前こんなものを見たんだと聞かせてくれるその姿はない。

 傍に置いてある綺麗に押されたあやめの花を手に取った。それを歌集の間に挟む。

 あいつがあの後どこに行ったのかは知らん。生きているのか否かでさえ。本当に誰も知らないところに、あいつの存在も彼女の存在も誰も知らん、本当に何にも囚われない自由なところにいるのかもしれん。今の時点で俺にわかることは、もうこの先この人生であいつに会う事は確実に出来ないだろうということだけ。

 じゃあ、俺は何をするか。

「何がなんでも残したる。あいつらがいつか巡り会うその日まで」

忘られむ 時しのべぞと 浜千鳥 ゆくへもしらぬ 跡をとどむる

 その歌集の最後のページに一文だけ付け足した。これはこいつらを見守り続けた俺の決意で、あいつと彼女を引き合わせてしまった俺に出来る唯一の弔いや。いずれ忘れられようとする時、これを読んで思い慕ってくれと、文字を書き記して残すのである。浜千鳥がゆくえも知らず飛び立とうとも、足跡を残しておくように。


◆◆◆◆◆◆



「角名」

 聞き慣れた声が俺の名前を呼ぶ。サァっと一際大きく風が吹いた。せせらぎに混じって地面を踏み締める音がする。

「やっときたな」
「お待たせしました」
「待たせすぎやわ」

 振り返ればキラキラと月明かりが反射する。その銀色に目を細めた。優しく微笑むこの表情は何度も目にしたことがある。卒業してからこの人がこんなにも笑うことを知った。記憶に新しいそれと、遠い遠い記憶のそれと、今目の前にいるその表情が重なる。

「北さんはずっと知ってたんですか、俺のこと」
「いや? 前からなんか変やなって思ったことはあったけど、ちょっと前にいきなりバンときたわ」
「俺と一緒ですね」
「同じタイミングやったんちゃうか。五月のあの日」

 欄干に肘をついてサラサラと流れる川を見下ろす。この場所に北さんと来るのは二回目。だと思っていたけれど一体何回目なんだろう。見上げた月はやっぱり綺麗だった。ここから見るそれはいつの時代も変わることがない。

「千年もよう耐えたな」
「まぁ」
「アホみたいに長かったな」
「そうですね。でもおかげで夢みたいな便利な世の中になりました」
「・・・ほんまやな」

 まぁでも、記憶取り戻したんならもっと早よ会いに来いや。そう言って俺の背中をポンと叩いた。そりゃそうだ。もう季節も超えて秋になってしまった。記憶が戻ってから何度も会いに来ようとしたけど、どんな顔で会いに行けばいいのかわからなかった。そのことに素直に謝れば珍しいなとまた笑われる。本当にこの人は自分が思っていた数倍よく笑う人だ。

「会えたんやろ」
「うん・・・・・・あ、はい」
「ははっ」
「彼女のこと話そうとするとつい」
「ええよどっちでも」

 秋の初めの涼しい夜風が頬を撫でる。この人と二人でいる時の沈黙なんて耐えられないと思っていたのに、今はそうは思わない。北さんがゆっくりと口を開いた。川の音にギリギリかき消されないくらいの小さな声で。

「ちゃんと、残ってたな」
「はい」
「ちゃんと、届いとったな」
「・・・はい」

 彼女はあの歌を知っていた。あの歌集を見たと、そう言っていた。その時気づいた。きっとこれをこうして残してくれたのはこの人だろうと。

「ありがとうございます」
「また珍し」
「・・・・・・感謝しきれないですよ、ほんとに」

 俺の横に並んで同じように欄干に肘をつく。サラサラと流れる川を見つめながら、ぽつりぽつりと懐かしむように言葉を紡ぐその表情は、いつもの堅い雰囲気など考えられないくらいに柔らかい。

「お前と初めて会った時、体育館やからありえんはずやのに紅葉が舞うのが見えた」
「なんですかそれ」
「不思議な感覚やなぁと思っとったけど、やっと意味がわかってスッキリしたわ」

 ほんまに秋に帰ってきたな。そう言ってこっちを見た。細められた瞳に俺が映る。風に揺れて髪の毛先がひらりと空を泳いだ。

「・・・あんたも、あの時言ってくれたようにまた会えたね」
「あぁ、せやな」

瀬を早見 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

 にっこりと笑いながら、俺は嘘はつかん。約束は守る、そう言って大きく笑った。かっこいいやと答えると、「お前もしっかり約束は果たすタイプやん」なんて言って少し揶揄ったような声を出す。

 いつの時代もこの人は俺よりも俺のことを見ていた。もちろん俺だけじゃない。周り全体をよく見ている。達観した考え方と、冷静な判断を下すのが少し窮屈で怖かったけど、この人のことを良く知れば知るほど、それがこの人の強みであり優しさだと解るから、俺も少しは成長できているような気がする。

「どんなやった、苗字さんは」
「想像通りの人ですよ。あの人あってのあの言葉選び」
「俺も会ってみたいなぁ。俺やって千年会えてないしな」
「ははっ、確かに」

 わずかに色付いた木葉たちはまだ盛りには程遠い。今この場所でこうしてこの人と共にいることに違和感と懐かしさを同時に感じる、この感覚が心地よかった。今の俺たちは兵庫と静岡というバラバラの場所にいる。けれど、会いたいと思った時にいつでも会いに来られる。今はそんな時代だ。

「ここの風は気持ち良いな」

 暗闇の中、街灯に照らされほんのりと明るくなった風景をスマホに映し出す。画面に映ったそれは実際に目に写しているそれと何も変わりなく、シャッターボタンを押せばパシャっと音を立てその風景を記録する。アプリを開いて、それをそのまま目的の人物に送りつければ、すぐに既読がついて「渡月橋だ、綺麗だね」と返信が来た。

「随分仲良えな」
「そう見えます?」
「なんや、思ったより弱気なんか?」
「強気ですよ割と」
「ははっ」
「ここまできて振られるとか笑えなくない?」
「出たわ我儘」

 会いたいっていう願いやったのにな。なんて言いながらニヤリと笑ってこっちを見た。それにムッとしながら、「そんなこと言わないでくださいよ」と言い返せば、すまんと笑ってポンと背中を叩かれる。会いたいと願い続けた。その願いが叶った。じゃあ、もっと。顔も声も知らなかった彼女にそんな気持ちを抱いている。一歩ずつ確実に、踏み出すことができなかった領域に足を踏み入れられる。そんな今が楽しく、嬉しい。今までの何よりも。

 ほんまにすごいわ、奇跡なんて言葉じゃ表せんくらい。そう言って北さんは真っ直ぐ前を向いて空を見上げた。同じように上を見上げる。大きな満月がそこにある。どんなに長い時を超えても変わらないその眩さに目を細めた。


和歌解説
・瀬を早見 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
・・・川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が時にはふたつに分かれても、また合流してひとつになるように、愛しいあの人と離れてしまっても、いつかまた一緒になれるようにと信じています。


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