わがいおは都のたつみしかぞすむをうぢ山と人はいふなり




「どや俺の仲間すごいやろって、もっと言いたかったわ」

 そう言って笑った北さんの顔が頭から離れなかった。春高もとっくに終わって、気がつけばもう春はそこまできている。まだまだ寒い日々は続いているけれど、息が白くなることはもうない。

 早朝の体育館。朝練が始まるまではあと少し時間がある。当然まだ誰も来ていない。一人ボールと軽く戯れるようにポンポンと手のひらで弾ませた。こんな時間から本当に何をしているんだろう。侑たちみたいに常にバレーしてたいと喚いているわけでもないのに、今日は何だか無性にボールに触りたくなった。

「随分早起きやな」
「・・・・・・北さん」

 おはようさん、と言いながらこちらへと近づいてくる。部活時のTシャツではなく制服で。当たり前だ、春高が終わったら先輩たちはみんな引退していった。だから今この体育館にこうしてこの人がいること自体がおかしいんだ。しかもこんな時間に。目の前に立って俺の持っていたボールをゆっくりと奪い取った。それをただ見つめることしかできない。

「何でここにいるんですか」
「お前だって何でこんな時間に居るん」

 質問を質問で返される。少しだけムカっとした。会話が成り立たない。お前、何にそんなに悩んどんの、と俺の質問を丸々無視していきなり切り出す北さんの目は、いつも通り熱があるわけでも冷めてるわけでもなく、感情がうまく読み取れない。

「バレー、続けるんやろ」
「・・・・・・わかんないです」

 何で。そう短く言い放った北さんに苛々してきた。あんたには関係ないだろ。俺のことなんだから放っておいてくれよ。そう思っているのが表情からばれたのか、少し怒ったような顔をした北さんは、俺の肩を掴んで下手をしたら聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声を出した。

「お前は、もう、道を誤るな」
「何言ってんですか」
「・・・知らん、俺も何もわからん。せやけどお前の事見とると引き戻さなきゃあかんって気持ちになる。お前は絶対バレー続けろ」

 はぁ? 意味わかんねぇ。どういうことなの。道を誤るって? バレーを辞めることが間違った道だとでもいうのだろうか。例えそうであったとしても、いくら北さんでも決めつけられるのはいい気がしない。

「そうは言ってもこれは俺の気持ちやから、お前が自分で決めんと意味ないよな。すまん」
「・・・・・・・・・」
「でもこれだけは言っておく、お前は確実にバケモンの一人や。もっと上に行けるし実力も気持ちもある。ここで諦めたら勿体無いで」
「・・・気持ちはそんな持ってないと思いますけど」
「何言うとん、お前ちゃんとバレー好きやろ」

 さも当たり前だというように言い放つ。たしかに嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、こういうのはそういう問題じゃないだろ。好きだから全員がその道でやっていけるなんて事はない。好きか嫌いかで決めていいものじゃないはずだ。

「いちいち理由探して逃げんな」
「・・・何で北さんにそんなに言われないといけないわけ」

 いつもより大きな声が出た。感情的になるな。たしかに決めつけられるのはよく思わないけど、悩んでいる部分を的確に突かれているからこんなに苛々して焦ってるんだろ。

「俺がお前のバレー好きやからに決まっとるやろ」

 川のせせらぎのような、静かで落ち着いた音が聞こえたような気がした。気がしただけでそんなことはありえない。ここは体育館なのだから。俺は前にこの顔をする北さんを見たことがある。そんな不思議な気持ちになった。いつ、どこで。それは思い出せないけれど、確実にどこかで見た。そして言ったんだ、それは無理だよと。夏の終わり、秋の初め。月が綺麗な夜だった。そこまで覚えているのに、肝心な事は何も思い出せない。

 ズキっと一瞬頭が痛んだ。この人の真っ直ぐな目が、俺は今でも少し怖い。


◆◆◆◆◆◆


「ずいぶん悩んどるみたいやな」
「うるさいなぁ」
「素直に認めたれ、楽になれるで」
「悪魔の勧誘?」

 寒い冬にもだいぶ体が慣れてきた。ここ数日はちらほら雪の降る日もあったりして、ひらひらと降り注ぐ雪の綺麗さに少し驚きもした。いつもは外に行くのも億劫だし、中にいても寒いし、真っ白で綺麗だとかはしゃぐのは子供までだろと布団の中に引きこもっていたけれど、今年はそうは思わなかった。

 少しだけ積もった雪もほとんど溶けてしまった暖かい日の午後。今日もいつものようにフラっと訪れた男が、「だらけてるお前に朗報持ってきたで、今度大和の方に行くんやけどお前もどうや」なんて急に切り出すから、さすがの俺も動きを止めた。

「・・・めんどくさい」
「一人じゃ絶対行かんやろと思って、せっかく誘ってやったのに」

 えー、だってここから奈良までどのくらいあると思ってるの? まぁ近いけど。東北行こうとか言うよりは全然近いんだけどさぁ。

「あんた仕事で行くんでしょ? 俺邪魔じゃん」
「いや、仕事じゃなく知り合いの顔見に行くだけや」
「顔見にそんな所までわざわざ? ほんとの暇じゃん」
「休暇も兼ねとるからな」
「紅葉も終わってるのに? 鹿しかいないよ」
「・・・・・・文句しか出てこんな」

 少しだけイラついたような声を出した男は、ため息混じりに「また迎えに来てやるから、準備はさっさと終わらせておくんやで」と一方的に約束を取り付けてそそくさと姿を消した。俺まだ行くなんて一言も言ってねぇんだけど。

 それから数日後、本当に俺を迎えに男はやってきた。さらには上に俺の連れ出しの許可まで勝手に取って。ふざけんなと思いながらも、「あんなに文句垂れとったんに準備ほぼ終わっとるやん」と指摘されてしまってぐうの音も出ない。いっつも無理やりで急だから、もしもの時のために用意だけはしておいたんだよ。

「まだつかないの」
「宇治超えてからまだそんな時間経ってへんぞ」
「もう帰りたい」
「こっから帰るんならまだ奈良の方が近いで」

 さっき、と言っても時間としてはだいぶ前だが、少しだけ立ち寄った宇治はとても綺麗だった。時間がゆっくり流れてる感じがして落ち着いてて良かったな。俺も喜撰法師きせんほうしが言っていたように老後はあそこに住もうか、なんて考えていたら、その時だけは少しだけ気分が上がった。

 歩いて歩いて、ひたすらに歩いた。もうどのくらい歩いたかはわからない。足の裏痛え。牛車も馬も酔うから嫌いだけど、これよりマシだったんじゃないかと今なら思う。使えばよかった。

 後半はほぼ感情が無になりながらもなんとか歩ききって、「ここや」という男の声を聞く前に目の前の家にバタンと倒れ込んだ。着いたんですね! 予定よりだいぶ遅かったんで心配しましたよ! とドタドタと奥から駆けてきたやつに一応挨拶くらいはしなきゃなとも思うが、もう顔も上げられない。こいつが隙あらば休もうとするからな、という不機嫌そうな声と共にガシッと首根っこを掴まれ無理やり身体を起こされる。無理だって。これもう背骨溶けてるから。自立できねぇよ。

「こいつが角名や」
「あぁ、噂の!」
「んでこいつが俺の知り合いの銀。仲良くせぇや」
「・・・よろしく」
「おう、こちらこそ! とりあえず辛そうやし何か飲むか?」
「飲む。喉乾いて死ぬ。でもどっちかというと飯の方が良いです」
「お前・・・ほんまに図々しいな」
「ええよ。こんだけ歩けばそりゃそうよなぁ! 長旅ご苦労さん。早よ上がって上がって」

 良いやつ。出会ってまだ数分だけど、多分この人は良い人。そう位置付けた。聞けばついこの間まで京にいたらしく、こっちに来てから数日も経ってないらしい。せやから本当はちゃんとこの辺り案内してやりたいんやけど、引越しのあれこれしとってまだ俺もそんなに出歩いたことないんよ、と少し悔しそうにしていた。言葉の節々から良いやつ感が溢れ出てる。

「俺も角名も休暇兼ねて遊びに来とるんやし、そんな気張らんでもええよ」
「んじゃ明日は三人で思い切り楽しみましょ!」

 こんな生真面目人間と超善人に囲まれて俺は大丈夫なのかと、少し先行きが心配になった。


用語
喜撰法師きせんほうし・・・百人一首、八番「わがいおは都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり(私の庵は都の東南にあって、自らこの土地を選んで平穏に暮らしているというのに、世間の人は世を憂いて都会を逃れるために宇治に住んでいるのだと言っているようだ)」の詠み人


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