あなたの名前そこに足しておいたぞ

へとへとになりながらいつもの場所に向かう。体育館の中はサウナを通り越してもう灼熱地獄。今年一番熱いといわれる今日は外に出てももはやその暑さが変わらなくて、一歩進むだけで汗が吹き出る。拭っても拭っても滴る汗が鬱陶しくてもうそのままにすることにした。満タンのスクイズボトルを傾けて勢いよく口に含む。半分以上無くなったのに、飲んでも飲んでも体に十分に水分が行き渡る気がしなかった。

いつものように座り込んでボーッと辺りを見回す。しばらく経ってからほとんど毎日見かけるあの女子生徒が今日は居ないことに気がついた。今日は休みか。まぁ当たり前だよね、夏休みだし。

普段なら絶対にそんな気は起こさないはずなのに、なぜだかその日だけはなんとなく、本当になんとなく花壇の花が気になって腰を上げた。わざわざこんなに暑い日に。いつもの倍疲れているのに。

花壇には様々な花が綺麗に咲いていた。カラフルなそれらは元気に太陽の方を向いて、枯れるような暑さの中で瑞々しくぬるい風に吹かれて揺れていた。そこでふと気になった。土も葉も濡れていて、誰かが水をあげた後だということがわかる。あの子か、それとも別の人だろうか。


「………うっ」

「……っ!?!?」


誰もいないと油断していたから急に聞こえてきた小さな小さな唸り声に全身をはね上げる。びっっくりした。心臓に悪いからやめて欲しい。声の聞こえてきた方を振り向くと、そこには膝を抱えて座り込んだいつもの女の子がいた。

その子は顔も上げなくて、あの一回小さく唸り声を上げた以外には何も言わない。何か様子がおかしい。そろそろと近づくとこんなに暑いのに汗もかかず青白い顔をしているのが見えた。普段なら自分から話しかけるとか絶対にしないけど、今はそんなこと言ってられない。


「……大丈夫?」


話しかけても何も言わない。何も言えないが正しいのか。焦っているけれど、冷静な思考は保てている。こんなに暑い日に日陰もない場所で何往復も水を運んでいればこうなるはずだ。傍らに飲み物を用意している様子もないし。


「……馬鹿じゃないの」


無理やり顔を上げさせて手に持っていたスクイズボトルを口に当てた。触れた体は暑いのにどこか冷たくて何だか変な感じだ。強制的にドリンクを飲ませながらどうするか考えた。体育館に戻って誰かに言うか。でもそんな時間も勿体ないくらいにダルそうにしている。日陰に移動させるよりももうそのまま保健室に運んだ方が早い。あー、もう。考えてる時間も惜しい。

抱えられた膝の間に腕を無理やり差し込んで、ぐったりとした背中を支えるようにして持ち上げた。重い。力が強いほうじゃないのは自覚してるからあんまりこういうことはしたくないけど、思ってた以上に女子の体は軽いらしくすんなり持ち上げられた。焦っていたし、やらなきゃって気持ちが強かったからいつもよりも力が出せたというのもあるのかもしれない。

ぐたっとしている体をグッと近づけてその子の額をおれの肩に乗せるようにした。「急ぐから、捕まれるなら捕まってて」と言うとゆらりと力のない腕が首に回される。それを確認してからなるべく揺らさないように、でも出来るだけ早く保健室を目指した。


「………先生呼んでくるから」


クーラーはかかっているけれど暗い保健室には誰もいない。とりあえず勝手に冷凍庫から氷をもらって、首の周りを冷やすようにしてベッドに寝かせた。飲めるなら飲んでと同じように冷蔵庫から勝手に取り出したペットボトルを傍らにおいて、誰かを呼ぶために職員室に向かおうと後ろを向いた瞬間に、クッとTシャツの裾を引っ張られた気がして何かあったのかと振り向く。

辛そうに目を瞑ったまま。けれどTシャツはしっかりと握られている。少し待ってみても何も言葉を発さないその子に「早く人呼んでこないと、おれ処置の仕方とかよく分からないし」と言っても特に反応はない。無理やり退けようとその熱い手に触れたところで、ふわっと指先を握られてあまり経験したことが無いその感覚にびっくりして体が固まった。

……え。何。何してるんだろうこの子。てか起きてる?寝てる?もちろんこんなこと初めてで頭が混乱する。振りほどきたいのに出来ない。というかなんか体が動かない。どうしよう、パニックだ。どうすればいい。一人ひたすら疑問符を浮かべながら未だ何も言わないその子に「あ、の………手……が……」とよく分からない声をかけた。うわ、すごいコミュ障じゃんおれ。確かにそうなんだけど、こんな典型的などもり方ある?一人で少し恥ずかしく思っているとさらにキュッと力の込められたそれに驚いてまた肩を跳ねさせた。


「ち、ちょっと、おれ職員室、いくから…」


ゆったりと首をこちらへと動かしたその姿にだんだんと語尾が弱くなった。ダサい。まだまだ青白い顔をしたその子を見ていると早く誰か呼ばなきゃって気持ちになるのに、向けられたその視線から逃れることが出来なかった。

派手な髪型、派手なメイク。崩した制服が妙に似合う。おれとは正反対の女の子。ごくりと息を飲んだ。暑いのとは別の違う感覚がカッと湧き上がった。緊張で息が詰まる。おれこういう雰囲気慣れてないんだって!


「ありがとう」


ふわりと笑った笑顔は苦しそうだけど優しかった。意外。大声を上げてギャーギャーと笑うイメージを勝手に抱いていたから。こういう人たちは見た目だけで怖いな、絶対に関われないと判断しがちだったけれど、なんだかそうでも無いような気がした。

ドっと高鳴った心臓に違和感を感じる。「……べつに、いいけど」なんて何の気も使えない返事をしながら、慣れない空気感に耐えられなくなって急いで保健室を出た。


「……何、今のなにっ!」


職員室までの廊下を走りながら、ブワッと吹き出てきた汗を必死で拭う。やったことないけどギャルゲーみたいな展開だった。これが本当にギャルゲーだったらここから恋が始まって、色々あって最後はハッピーエンドだ。現実はそんなことにはならないし、べつに恋ではないからそんなゲームみたいにはならないけれど。慣れない展開に慣れない雰囲気。真逆のタイプの女の子を目の前にしたおれは、王道すぎるつまらないハーレム漫画の主人公みたいだ。自分で考えておいてちょっとそれは最悪だなとも思った。けれどそうとしか思えない。


「ウッス研磨、おつかれさん」

「ごめん。いろいろあって遅くなった」

「いいよ、なんか焦って校舎ん中入ってったの見てたし」

「……え」


先生に伝えてすぐに部活に戻った。休憩の時間はもちろんとっくに過ぎている。何か言われるんだろうなと思っていたけれどまさかの返答がきた。目を開きながらクロを見上げると、楽しそうにニヤニヤと笑いながら「研磨くんもちゃんとああいうこと出来るんだね」とおれの肩に手を乗せた。最悪。笑い事じゃないんだけどイラつきながら答えると「俺が出ていかなくても大丈夫そうだったから見守ってたんです〜」とさらに絡んできたその手をガッと力強く払った。

それから夏休み中に彼女の姿を見ることは無かった。水やりはたまに先生たちが交代でしているのを見かけた。新学期になって、廊下で彼女がいつか見たもう一人の仲間を含めた数人で騒いでるのを見かけて、良かったと少しだけ安心した。

楽しそうに騒ぐその笑顔は明るくて、あの最後に見た優しく微笑んでいた顔とは全然違った。弾けるような元気な姿を取り戻したことに安心する一方で、やっぱりおれとは真逆の人で、わかりあえることはないなと思いながらすれ違った。恋愛ゲームのような展開なんて夢のまた夢。だからみんなああいうゲームにハマるのか。そんなことを、それから廊下で彼女を見かける度に考えるようになってしまったのがちょっとだけ悔しかった。

だから、二年生に進級したクラス替えで彼女と同じクラスになった時はすごく驚いた。少ししてすぐに行われた席替えで隣の席に座った彼女を見て息が止まった。何も言えずにゆっくりと席に座った途端に「こ、孤爪くん!」と少し硬い声で話しかけられて勝手にちょっと気まずくなった。


「……………なに」


正反対の人。何を言い出すか分からないし、何をしでかすかわからない。おれとはきっと相性が良くない。


「今日からよろしくね」


廊下で見たイメージ通りの笑顔とは違う、見た目からはあまり想像できないあの時一度だけ見たふわりと笑う優しい笑顔に息が詰まった。少しだけ彼女の顔が赤らんでいるように見えるのはおれの勝手な脳内補正なのか。上手く言葉にできない、モヤモヤとした気持ち悪いのに心地良い不思議な感覚に支配された。


「私、館ひそかっていうの」


差し出された手に戸惑いながら恐る恐る触れた。今時いきなり握手を求める人とかいるんだ。やっぱり陽キャの考えることはわからないな。と思いながら、キュッと優しく握り返されたその感覚があの日の記憶と重なって少しだけ頭がくらくらした。

こういう空気も、こういう考えも、おれは慣れてないんだって。実現することがほとんどない展開だからこそみんな恋愛ゲームにハマるんでしょ。だけどたまにいるんだよな、ゲームや漫画みたいな展開を実現させる人達が。それがおれだなんて思わないけど。やったこともない恋愛ゲームの勝手なストーリーを想像してしまって何だか無性に恥ずかしくなった。


「………孤爪研磨。よろしく」


触れた指先を嬉しそうに見つめていたおれとは正反対の彼女がそっと視線を上げてぱちりと目が合う。気まずくって手を離して、視線も一瞬で逸らした。

自分でも気がつかないうちに、ゲームみたいなシナリオを歩き始めてしまっていたみたいだ。


 / 

- ナノ -