春が過ぎて夏が終わろうとしても、北とは特に何の進展もなければ後退もなかった。
いつも通り時間が合えば仕事終わりに飲みに行って、休みが合えばどこかに行ったり私の家に来たりする。それでもお互い何もしないし、何も言わない。
相変わらず歩く時に手は繋ぐけれど、それ以上のとこはしてこないし、しない。2人で部屋にいたって変な空気にもならない。程よい時間になったら北も帰っていく。
成人してから数年たっている男女では珍しいことなのではないかとも思うが、北は私のことをずっと待ち続けてくれているのだと解る。北に申し訳ない気持ちがない訳では無い。それでも今の付かず離れずの距離感がとても心地良い。
私は自分が思っていた以上に、どうやらあの事件とも言える結婚破棄がトラウマになっていたらしいということをここ最近やっと自覚した。
北のことはたぶんもうだいぶ好きだ。高校の時のような好きなのかはわからない。あそこまで純粋に恋ができる年齢はとうにすぎてしまった。大人の恋はずるくて、損得だって考える。
北と一緒になれば、私は幸せになれる。
きっと、いや絶対。北は私を裏切らない。そんなことは分かりきっているのに一歩踏み出す勇気が出ないのだ。北のことは百パーセント信頼しているはずなのに。
いつか北が誰かのところに行ってしまったらどうしよう。私じゃない誰かを選んでしまったら。知らないうちにもう一人の女の人と関係を持っていたら。愛されていると思っていたのに嘘だったら。
ありえない。ありえないのだ。北がそんなことをするはずなんてない。彼を知っている人たちを仮に百人集めて聞いてみれば、百人全員がそんな事はしないと口にするはずなのだ。
それでも心に深く刻まれてしまった傷は私を阻む。
仮にこの気持ちを無視して北の気持ちを受け入れたとしても、私は脅えながら北に接することになるのだ。友達以上恋人未満の今の関係なら、裏切られても少し悲しくなるだけで終われる。そんな狡いことを考えながら、北の側に居続けている今の私を誰かに叱って欲しい。
ちゃんと好きになりたいのに。好きになれそうなのに。好きにさせてくれようとしているのに。自分で自分の気持ちを受け止められない。
「すえさんのその気持ちは仕方ないんとちゃう、それくらいの出来事やん。あんま自分責めすぎんのも体に悪いで」
「でも、北に申し訳ない」
仕事帰りに寄ったおにぎり宮で治くんに弱音を吐き出す。体も精神も高校の時よりもうんと大人になった治くんは、時々私を茶化しながらも親身に話を聞いてくれる良い相談相手だ。
「本当は、決断できないならハッキリ断らなきゃいけないっていうのもわかってるんだよ」
「ん〜、まぁなぁ〜」
「ぐずぐずしてたら北にも悪いし」
ハァと全身の疲れを溜め込んだような重いため息を吐き出すと、「美味いもん食べて今だけは忘れよ」と新作だというおにぎりを出される。ホカホカのおにぎりにパクリとかじりつくと、フワフワのお米が口いっぱいに広がって、先程までの落ち込んでいた気持ちがスっと軽くなった。
「おいひい〜」
「せやろ!」
一瞬で幸せになった頭をふわふわとさせながら、二口、三口とおにぎりを頬張っていく。治くんの握るおにぎりはとても美味しい。そして、このおにぎりの重要な役割を果たす主役、北が作るお米もとても美味しいのだ。
「もしかして、これ新米?」
「お、わかったか。今年は少し早めに出来たんや」
「最近北が忙しそうにしてるのはそれもあるのか〜。なんか、ほんとにみんなすごいな……」
美味しいおにぎりを頬張りながら、そのおにぎりに一番合うからと治くんかセレクトしてくれた日本酒を嗜む。
目の前でニコニコと私がおにぎりを頬張るのを眺めていた治くんは、私の言葉を聞いて少し目を大きくさせながら口を開いた。
「すごいって、なにが?」
「北も、治くんも、自分がやりたいことちゃんとやれてるじゃない?しっかり目標もあって、実現させててさぁ。ブレずに生きれるって、凄いなぁって」
私は今までずっと流されて生きていたから。就職先を兵庫じゃなく東京にしたのは、今までのそんな自分をリセットしたかったから。それなのに結局土地が変わっただけで私自身は何も変わることは出来なかった。
せっかく東京へ行くのにやりたいことも特になくて、ありふれた事務職を選んだ。流れで付き合った人と結婚を考えて、言われたままに仕事をやめて引っ越して、そして言われるままに終わった。
こんなに真剣に向き合ってくれてる北には、なぁなぁな態度を取り続けて、肝心な一歩が踏み出せない。
自分がやりたいことを実現するためにはとても力がいる。まず、そのやりたいことを見つけなければならない。見つけて、目標を立てて、それに向けて行動をする。その中でやりたくない事も、上手くいかないことも沢山出てくるはずだ。それに逆らいながらも一個一個乗り越えて、自らの手で掴んでゆく。
稲荷崎バレー部はまさにそうだった。目標に向かって努力して、自ら掴みに行く。道のりは激しい。近道なんてない崖っぷちをひたすら登って行くしかない。そんなみんなを見ながら、ここにいれば私にも何か出来るかもしれないと、あの時は思っていたのだ。
「結局、私には何も残らなかった」
何も残ってない、何も出来なかった私が、あの北の隣になんて立てるわけがなかったのだ。高校生の時に抱いていた幻想は幻想でしかない。スカスカな自分を思うと、あの人の横に立ちたがっていたことすら馬鹿馬鹿しく思える。
「こんなん嫌や、ダメダメや、私は」
思い詰めて泣くのは私の悪い癖だ。キャパオーバーした頭を自分自身で押さえつけることが出来なくて、涙となって溢れてしまう。ホロホロと涙を流す私を見た治くんは、驚くことも慌てることもせず、カウンター越しに手を伸ばして私の頭を撫でた。
「俺らのバレーは、すえさんが居ったからあんなに伸び伸び出来とったんやで」
グシャグシャと頭を撫でる少し力の強い手のひらは、北のそれよりも大きくて暖かい。
「卑下しすぎや。世界中のみんなが自分の目標持ってそんなしっかり生きとるわけないやん。すえさんはすえさんとして、ちゃんとしとるよ」
「ほんまやろか」
「ほんまやわ。自信持ち。持てないんやったら、俺が何遍でも言ったる」
「えらい良え男になったなぁ治くん」
目尻に溜まった涙を親指で掬われる。「しのぶちゃんに言ったろ」と茶化せば、むしろ泣いとるすえさんに何もせんかったらその方が怒られますわと笑われてしまった。
「ツムなんて見てくださいよ、あいつ少し前にスキャンダルまで撮られてんのに結局何も無かったらしいで」
「何も無かったんならそれは偉いんとちゃうの?」
「撮られること自体があかんやろ」
ほんまダサいわ〜と言いながら呆れる治くんを見て、少しだけ元気になる。私はまだ自分を完全に認められないし、トラウマを克服するのにももう少し時間が必要だ。
それでも、今までよりは前向きに、進んで行けるんじゃないかと思った。