Trojan Horse.3



 上空には、二体の破面――ティファニー・リック・コムと、ガレット・スミザーハースの姿。二人は一護の姿を認めると同時に、ホッとした様子で顔を見合わせた。
 ガレットが、穏やかな表情で呼びかける。
「……ナリア……」
 つ、と伝うのは、嫌な汗。心臓の脈の、妙な打ち方。
 甚だ信じ難かったが、一護は悟。自分は彼らが来てくれたことに、喜びどころか恐怖を感じていることを。
「………ガレット……ティファニー………」
 ティファニーが、瞳を細める。
 その眼は、一護の前に、彼を庇うようにして、下から急いで上がってきたルキアと恋次に向けられていた。
 ガレットも同じく、表情を幾分険しくし、斬魄刀を抜く。
「ルキア、恋次……」
 震え声で一護は、目の前の二人の死神の名を呼ぶ。それは、まるで縋るかのようだ。
「間に合って良かった。大丈夫か?」
「初めてのご対面なわけだけどよ、すっげぇ霊圧だなぁ」
 言いながら、ルキアと恋次はそれぞれ斬魄刀を抜き、構えた。
 三人の様子を見て、ティファニーは無意識のうちに溜息を吐く。
「バートンの言ってたこと、大当たりみたいね」

『情報によると、複数の死神が今、現世に来ているらしい』
『ナリアは奴らに洗脳か何かされている』

 女は肩を竦めた。それに首肯し、男が斬魄刀の柄を握りしめる。
「待ってろ、ナリア。すぐ助けてやるからな」
 霊圧が、上がる。彼は、虚閃を撃つ気だ。――否、ティファニーの霊圧も急速に上昇している。彼女も虚閃だ。
 心臓の鼓動が早まる。ガレットだけならまだしも――それでもこの死神二人で防ぎきれるかは怪しいところであったが――そこに彼女の力加わるなら、最早結果は見えている。一護は、知っている。ガレットとティファニーの強大な力、その度合いが、常識外れであることを。ナリアとして過ごしていた時期は、自分は二人よりも強大な力を持っていたわけで、しかし和気藹々としていたわけで、恐怖を覚えることはまずなかった。だが、立場が対立すると、こんなにも、違う。
 ――――だめだ。朽木。阿散井。
 声が、出ない。汗ばかりが流れ落ちる。虚閃の力が集結されていくのが、分かる。
 ――――俺が、俺が。俺なら、撃ち返せる。俺なら、二人を、撃てる……

 ……友達を?

「っ………!」
 ギリッ、と歯を食いしばる。汗が顎を伝って滴り落ちる。
 何を迷う。思い出せ。こいつらは俺の敵なんだ。俺は、死神だったんだ。俺は破面なんかじゃない。俺は、こいつらに騙されてた。こんなやつら、友達じゃない。俺と、ガレットとティファニーの間にあった絆は偽物。躊躇うな。迷うな。このままじゃ、本当の仲間の、朽木と阿散井が、傷つくことになる。死ぬことになる。撃てよ。撃て。撃て…

 『ナーリア! ユウがまたぐずってたよ?』
 『ナリア、大丈夫か? あんまり無理すんなよー』

 『ねえねえナリア! 僕、ちょっと女の子っぽくなったと思わない?』
 『ナリア、頼むぜ…俺お前みたいに、ユウをあやせる自信ねぇんだよぉ…』

 『ナリア!』『ナリア?』『ナリア』『ナリアー!』『ナリアっ』

 体が、震える。眩暈がする。俺は。……俺、は……、
 我に返り、顔を上げた。キュゥン、という音がする。虚閃が、もう間もなく、放たれようとしている。
 …ダメだ、俺には………俺には……っ……せめて……!
 ――――逃げてくれ
 口を開く。声にならない。
 ――――逃げてくれよ
 脳裏に、血まみれの二人の死神が浮かぶ。二人の、破面が浮かぶ。
 動揺した。恐くて、たまらない。―――今の、自分が。
 そこで、ガレットが拳を突き出す。ティファニーが、刀を振りかぶる。
「――――っ……!! 朽木! 阿散井!!」
「「虚閃」」
 一護の叫びに、無機質な二人の声が被さり、赤黒い閃光が空を駆ける。
 一瞬だけこちらに目をやった二人も、すぐに切り替えて刀を振るう。
「“蛇尾丸”!!!」
「“袖白雪”!!!」
 だめなんだよ、そんな程度じゃあ……!
「      」
 やめろ、とも。うわあ、という、悲鳴さえ。音にならない。一護が目を見開く。
 その目の前で、二人の死神が、閃光に飲み込まれた。


 高い金属音をあげて、日番谷が後方に跳ね、着地する。右肩からしぶく血を止めようと、気休め程度に左手で抑える。
小さな隊長を気遣うように、並び立つ副隊長の女性。しかし乱菊もまた、額から血が大目に流れており、顔色がかすかに白かった。
丁度二人が近くにいるのを見て、すかさず織姫が舜桜とあやめをヘアピンから呼び出し、二人の死神をラグビーボール状の光で覆う。一瞬でも、傷を修復できる時間があればしておくことに越したことはない。
しかし、三人が同時に、天を仰ぎ、慌てて振り向く。赤黒い閃光が走っているのが、見えた。
「朽木さん! 恋次くん!」
 思わず、織姫が絶叫する。あの虚閃の威力は、空気の震えが物語っていた。
「隊長……!」
「……」
 乱菊の言いたいことは、分かる。しかし、日番谷は眉間の皺を深めたが、改めて前にいる従獣を見据える。
「……俺たちはコイツを倒すことに専念する」


「それそれそれそれぇ!!!!」
 斬魄刀・鬼灯丸を滅茶苦茶に振り回して従獣の頭部を叩く。暫しの間は怯んだようにして動かなかったが、化け物はしびれを切らしたように巨体を素早く回転させ、尻尾をすさまじい勢いのまま一角に向けて振るう。
「おぉっとお!」
 従獣の目を足で蹴り、そのまま跳ねて従獣と距離をとる。
「どう、一角?」
「いまひとつ面白くねぇなぁ!」
「そうは見えないけどね。そろそろ僕もやっちゃダメかい?」
 嬉々とした様子である一角に、弓親は大して不満な顔はしていないが、不満そうに尋ねた。
「へっ、ま、たしかにちょっと一人だと歯ごたえありすぎるかもな。手伝えよぉ弓親!」
 ぎゅん、と音がするほどのスピードで鬼灯丸を回転させながら叫ぶ。そんな相棒に、弓親は軽く肩を竦めた。とうの昔から、自身の斬魄刀・藤孔雀は始解済みだ。
「言われなくても手伝うさ。もっと早く言ってくれても良かったよ?」
 従獣の赤くぎらついた瞳が、こちらに向く。しかし二人が感じたのは、その殺意以外にはない瞳の光に対する好奇心と歓喜。
「行くぜぇ、ゆみ……」
 そのとき、大気の震えを感じた二人が、振り向く。赤黒い閃光が見えた。
「……凄い霊圧だね」
 弓親は、驚いた素振りも見せずにサラリと言った。その言葉に、一角が頷く。
「恋次の野郎、いいもんとりやがって……! こいつ片付けて横取りしてやるかぁ! 行くぜぇ、弓親!」
「分かってるさ!」
 楽しさを体中からにじませた更木隊の死神が、再び跳ねた。


 何度も深呼吸を繰り返し、斬魄刀を下に突き立てて、目を閉じていた。じわじわと、傍目では分からない程度に、しかしたしかに霊圧を上げていく。あとから駆け付けてきた恋次に頼まれたことであり、どちらかというと真っ向勝負より、夜光はこちらの方が得意だ。すぐに意見を飲んで、彼女は大人しくルキアと恋次に、一護のもとへ向かわせた。
 大気が酷く震えたことに気付いた。しかし、目は開かない。
 大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、霊圧を上げていくことに集中する。やったことはないけれど、寧ろこんなことをして負担がないわけではない。だが、一番これが効果的なのだと思う。霊圧の上昇に伴って、突き立てている斬魄刀が光を帯びていき、かすかに、変形を始める。同時に、斬魄刀から光の波紋が零れ、周りへと広がっていく。
「………行くよ……“星陰冠”……」
 己の斬魄刀に声をかければ、帯びている光と波紋の大きさがいっそう、強くなった。


 赤黒い閃光に包み込まれ、舞い上がる爆炎。
「あ………あ………」
 一護はカチカチと奥歯を鳴らす。震えているのだ。目の前で、ルキアと、恋次が……。
 煙で何も見えない。もう、何もいないのかもしれない。ガレットとティファニーの虚閃を受けたら、肉片も残らないかもしれない。
「……朽、木………阿散井………」
 呆然と、呟く。
 何が、正解だったのだろうか。やはり二人を助けるべきだったのではないだろうか。しかし、一護にはできなかった。一瞬でも、仲間であった瞬間があった者に虚閃を放つことなど、できなかった。だが、後ろめたい気持ちも大きく、つい、歯噛みする。深く俯いた。視界には爆発による煙と、白煙がちらちらと映っている。
(……白…?)
 本来爆発によって発生した煙にしてはおかしいものが混ざっていることに気付き、顔を上げた。
 前方に巻き起こっていた灰色が、どんどん白に浸食されていく。それは、紛れもない、冷気。
「「卍解」」
 女にしては低い声と、荒っぽい男の声が、重なる。
 その声が耳に届き、ガレットとティファニーの表情が強張った。一護が、煙の中を凝視する。
そこから現れ出たのは、
「“狒々王蛇尾丸”!」
白骨化したような大蛇を従えた、恋次。そして、
「“白雪乱舞天(しらゆきらんぶてん)”…!」
 両手にはいつの間にか白い手袋のようなものがついており、その手に握られる斬魄刀の姿は、純白であったものに微かな紅色と微かな水色の線が輝き、刀身が波打っている。また、波打った刀身からは抑えきれないように、終始冷気と思われる白煙を零す。柄頭から伸びていた布はそのまま残っており、藍色で古代文字か何かのような謎の文様が描かれていた。風によってふわりと揺れる、半透明の羽衣が扇情的で美しい。そんな見違えた姿をしている、ルキア。
「思ったより、虚閃って、弱いんだな」
 挑発めいたことを言う恋次に、ガレットがピクリと眉を持ち上げる。
「たわけ。貴様、卍解する直前、少し焦っていたろう? 私は見たぞ」
 腰に手をあてて笑うルキアを見て、ああ、本人たちだとやっと一護は納得する。
 二人はこちらを振り向いて、にんまりと口の端を持ち上げた。
「なんだ、その顔は。我々がやられたとでも思ったのか?」
「おいおい、俺たちもナメられたもんだな。冗談じゃねえぞ?」
 軽口をたたくルキアと恋次に、一護は表情を改めてわざと、渋い顔を作った。
「うるせぇな、ちょっと驚いただけだよ! なんだよ、その恰好!」
「知らなくて当然であろう? 私は、貴様と別れてから血のにじむような努力の末、手に入れたのだからなっ」
「その血のにじむような努力に、俺が巻き込まれたってのも忘れるなよ」
 そう苦笑する恋次。本当は、元々の一護の記憶にもないルキアの卍解を見せることは憚られた。しかし、先日従獣と戦ってみて、今の虚圏における戦闘能力の向上は目を見張るものがあることが分かった。こんなところで足を止めるわけにはいかないのだ。もしかしたら、記憶を取り戻すためという点では、一護には悪影響かもしれない。しかし、この程度の障害は乗り越えるだろうと考えて、こうして使うことに決めたのだった。
「そんなにナリアを捕まえておきたいんだ、君たち」
 冷え冷えとした女の声に、三人は一斉に上を見上げた。
 面白くない、といった感情が露骨であるティファニーが言った。
「あなたたちほどの霊圧じゃ、現世の魂魄に悪影響だよ。現世と尸魂界の調整者・死神が聞いて呆れる」
「忠告ありがとな。でも俺たちはあくまで調整者だ。その点は抜かりねえから心配するな」
「? どういう……」
 恋次の余裕ともとれる返事にティファニーが首を傾げたが、すぐに目を見開いた。
 大気が、震えたのだ。しかしそれは彼ら自身の霊圧によるものでも、ルキアや恋次、一護の霊圧によるものでもない。もっと別のところからだ。

【五番隊隊長・瑠璃谷夜光です】

 大気の震えにのって、声が響き渡る。きょとんとしているガレットの隣りで、ティファニーが息を呑んだ。そして、ルキアと恋次はそろって口角を吊り上げる。
 これは、鬼道だ。霊圧を網状に張り巡らせて、複数人の対象の位置を捜索、補足し、電信する。縛道の七十七、“天挺空羅”。

【たった今、私の斬魄刀の能力と鬼道の掛け合わせで、空座町全体を結界で覆いました。霊圧を完全に解放したい場合、あるいは卍解を用いたい場合は、町中の魂魄に悪影響を及ぼさないために、結界の外で戦ってください。以上】

「とまぁ、こういうわけだ」
 嗜虐的な笑みを浮かべる恋次に、ティファニーは顔を顰めた。
「…どういうわけだ?」
 訳が分からない、と言いたげにガレットが首を傾げるので、女は眉根を寄せたまま尋ねる。
「あんた、聞こえなかった?」
「あ、ああ……悪い……」
 気が立ってるなぁ、とガレットはまるで他人事のように思う。しかし、ティファニーが気分を害する時点で、こちら側には不利な情報が流れたということだけは察した。
 ガレットの耳には届かなかったのも無理のない話で、彼は一度も夜光と接触しておらず、互いの霊圧を感知したことがない。お互いの波長が上手くあわず、聞きそびれたのだろう。
「簡単に言うと、死神が卍解しようが何しようが、町中の魂魄には悪影響がないんだってさ」
「おお、そりゃすごい。だからこんなに余裕ぶってるんだ、面白眉毛」
「おいそこの破面、誰が面白眉毛だコラ」
 そのとき、方々から霊圧を感じ、彼らは視線を周りに向けた。上空に従獣と共に飛び出してきたのは、日番谷と乱菊、一角と弓親。しっかり夜光の伝達を受け取ったのだろう、飛び出して来るやいなや霊圧を急上昇させている。
 だが、チラリとティファニーの方に視線をやる死神らは、目を細めた。
 あのとき、尸魂界で戦い、そして訳も分からないうちにやられた。あんなものの、せいで。ティファニーを不可解な、また気に食わない破面という形で認識させるには充分な事件であった。
 しかし、周りに日番谷らがいるのを見て、さらに怪訝そうな顔をしたのはティファニーもだった。
(………殺したと思ったのに、どうして…?)
 最早戦力にはならないであろう、死んだだろう。そう思っていた死神が、周りにいた。勿論全員というわけではないが。
「さあて、ここから本番だぜ、破面。一護に何をしたのか、全部吐いてもらおうじゃねぇか」
 狒々王蛇尾丸が、大口を開けて雄叫びをあげる。
 その隣に一歩前に歩み出れば、ふわりと揺れ、光の粒が溢れる羽衣。
「私は、……」
 チラリ、と後ろでただただ呆然としている一護を、見やる。
「……十三番隊・朽木ルキアだ」
 名乗るルキアを見て、恋次は一瞬不意打ちを受けたような顔をしていたが、すぐに表情を改めた。そして、彼も名乗る。
「…俺ぁ、六番隊副隊長・阿散井恋次だ。ま、覚えなくていいぜ」

 ――――俺の顔を覚えてるか?
 ――――私は、“死神”だ

 一護の目の奥で、何かが、映された。即座に現実に引き戻されて、消えたが。
 名乗る二人の死神を前にして、二人の破面は微かな溜息を吐く。
「……破面No.132……ガレット・スミザーハース」
「破面No.251……ティファニー・リック・コム」
 
戦いの本番が、始まろうとしていた。それは、今の一護にとっては辛すぎるものであることも、皆は理解している上で。


 空座町を走り抜けていく。上空を見上げれば、死神と破面がいるのが見える。何かして、加勢できないだろうか。そう考えながら走る。そのとき、路地裏から見覚えのある人間が姿を現したことに気付いて、啓吾は叫んだ。
「有沢!! ………と……ルキアちゃん?」
「浅野!?」
 たつきが驚いた表情で啓吾を見て、その後ろからひょっこりとルキアが顔を出す。
「あ、あれ、ルキアちゃんは今、上で……」
「私は、ルキア様じゃないぴょん!」
 姿は明らかにルキアであるが、声と妙な語尾から全くの別人であることを悟る。恐らく、コンと同じ類なのだろう、と啓吾は納得した。
「良かった。大丈夫か?」
「平気。なんでか知らないけど、急に楽になったから」
「ああ。俺もなんだよな」
 首を傾げる二人の間にルキア―――チャッピーが割って入った。
「それは、死神の一人が町の魂魄を護るために、結界を張ったからだぴょん!」
 姿自体はルキアそのものであるので、あまりに不釣合いな口調と、らしくない話の入り方にたつきと啓吾は思わず苦笑したが、同時に表情を曇らせた。
 町の魂魄を護るため。それは、霊力を持つ彼らのことも指しているように思われた。また護れることに対する無力感が、彼らを包む。
「有沢さん、啓吾!」
 突然の声に二人は顔を上げた。商店街の方から走ってくるのは、水色だ。
「水色! よかった、無事だったんだな!」
「まあね。コンビニでいきなり立てなくなったときはどうしようかと思ったけど」
 空を見上げれば、激しい攻防を繰り広げる死神と破面、それに巨大な化け物が見える。
「くそっ……俺たち、何かできないのか…!?」
 拳を震わせて歯噛みする啓吾を、たつきと水色は眉を下げて見つめた。二人も、無力感ばかりを覚えて、悔しくてたまらないのだ。
「あなたたちにできることは、無事でいることだと思うわっ」
 聞き慣れない声に暫し三人はきょとんとしたが、後ろを向いてみると、大人の男が二人と幼女、ぬいぐるみという不思議な組み合わせを目の当たりにすることとなった。
 一人は、まるでマジシャンのような出で立ちをした中年の男。一人は、忍者そのものの姿ともいえ、顔を完全に覆面で隠した年齢不詳の男。そして、金髪の御河童頭に、大きな瞳を持つ、幼女。その足元には、見慣れたライオンのぬいぐるみが立っていた。




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