Trojan Horse.1



 己の腰帯に、斬魄刀を通した。
 顔を上げた。彼女と目が合った。
 彼女の腰を見た。斬魄刀があった。
 襖を開けて、外に出た。

*   *   *

 溜息を吐きながら、人目に触れないようベンチの陰に座り込む小さな人形が四つ。
「やっぱ、ねーなぁ、手がかり……」
 零れた呟きには、疲れのようなものも滲んでいた。
 隣りで同じようにしている、小鳥と亀、兎のぬいぐるみも、ライオンのぬいぐるみに負けず劣らずの疲れが露呈している。
「吃驚するほど、何も残ってないわねー……コン、あんた、もしかして一護が事故に遭った場所とか聞き間違えてんじゃないの?」
「んなわけねーだろ!! つかちゃんと花束供えてあったじゃねえか!!!」
「他の人が死んだとこかもしれないじゃない!!」
「知るか!!!」
「まあまあお二人とも!」
 恒例の喧嘩が始まってしまったので、仕方なさそうに蔵人が仲裁に入った。いつもと同じように見えたとしても、自分たちはかなり疲労している。下手したら、止められない大喧嘩に発展する可能性もあった。
「ちゃんと花束に、一護さん宛と書いてあるものもあったから、大丈夫ですよりりん」
「わかってるわよ!!」
 噛みつかんばかりに声を張り上げるりりんに対し、蔵人は思わず顔を顰めた。彼も疲れているので、軽いことにさえ苛立ちを覚えてしまうのだ。勿論、だからといって言い返すようなことはしない。
「……問題ない」
「いやあるだろ。寧ろ問題だらけじゃない? あれ、違う?」
 ボソリと喋った之芭に、コンは久々の突っ込みを浴びせる。
 彼らは、一護が尸魂界から来た死神らやルキア達と共に、必死に記憶を取り戻そうとしている中、独断に動いていたのだ。勿論、それは、黒崎一護という人間の死亡過程を探るためである。今となっては、恋次達もただ一護の記憶を取り戻すことに躍起になっており、どうして彼が死ぬに至ったのか、と言ったことを調べることはすっかり忘れている様子だ。それを見かねたりりんは、同じ改造魂魄同士を集めて探ってみようと提案したのである。
 コン達は決して、そもそもの原因を探らない死神に呆れているわけでも、憤りを覚えているわけでもない。まずは一護の記憶を取り戻すことが最も大切であるのは違いないのだから、このまま彼を支えてあげるべきであると思うのだ。だから、手が回っていない事の発端を探ることを、彼らは自ら進んでやることにしたのである。ところが、それは予想以上に前途多難であった。
「明らかに、おかしいとこはあるのになぁ……」
 腑に落ちない様子でコンが唸る。現世で過ごしてきて、人間たちの感覚をある程度分かるようになっているのであれば、「おかしい」ことが起きていることは明白なのである。通常ならば考えられないことが、起きている。なのに、「誰も気づかない」のだ。その現象に。尸魂界――すなわち、死の世界と通じている彼らにしか分からないようなのだ。しかし、だからといって、そこを糸口にしても一護の死の真相にたどり着けそうにはない。
「いっそ、おかしいとこ自体を、徹底的に探るというのはいかがでしょう?」
 蔵人が言えば、りりんが目を三角にした。
「それが難しいんでしょー!? ねえ、之芭!?」
「……問題ない」
「いやだからあるんだって」
 そのとき、之芭は初めて、彼らの方を向いた。
 何かを言おうとしているのだな、とコン達は口を閉ざす。
「……認識に、問題がある」
「…認識…?」
 三つのぬいぐるみが、ほとんど声を重ねて復唱した。
 カクン、と緑色の頭が縦に揺れる。之芭は続けた。
「現世の者において、黒崎一護の周り以外の認識に、問題がある」
 彼にしてみれば、かなり口数が多い方であろう。亀のぬいぐるみは、改めて視線を前に戻して、それきり黙ってしまった。
 コン、りりん、蔵人は互いの顔を見合わせ、暫しの間首を傾げていた。しかし、やがてりりんが、かすかに表情を変える。これまで調べてきたことを加えて考えてみると――
「………一護の死亡事故を……普通の人間たちは、認識していない―――?」

*   *   *

 揺れる中を、焦らずに歩いた。
 首を回した。彼女と目が合った。
 彼女の顔を見た。微笑んでいた。
周りでは、唸り声を上げていた。

*   *   *

 草の鳴る音がする。
 風が、自身の短くなった髪を撫でてゆく。そして、ゆっくりと頭を上へともたげて、美しい大きな瞳に、その姿を映すのだ。
 ……巨大な女性と男性が向かい合い、女性が長い右足で男性の股間を蹴り上げており、その蹴り上げられている足の脹脛の部分に貼り付けられた横長の旗に、でかでかと「志波空鶴」と書かれた、石造りのオブジェを。


 襖を開けた瞬間に見えたものは、斬魄刀を今にも抜きそうな態勢の死神達・京楽春水、朽木白哉、雛森桃の三人と、部屋の奥でふんぞり返って脇息にもたれている、片腕が義腕の女・志波空鶴であった。
「なんだぁ、脅かさないでよ」
 のんびりとした物言いで腰を下ろす春水に、夜一はニンマリと笑って見せる。
「無事にここに来れたようじゃのう」
「………」
 夜一をどことなく迷惑そうに一瞥し、白哉も斬魄刀から手を離した。
 雛森はぺこりと躊躇いがちに頭を下げた。
 視線を空鶴に送れば、彼女は不敵に笑い、脇息から体を起こす。
「遅かったじゃねぇか、夜一」
「まあ良いではないか。儂も衰えたものでの、砕蜂をまくのに苦労したわ」
 瀞霊廷で一騒動あったとき、夜一は砕蜂の相手をしつつ、本当は黒崎一護を救わないという命令に従うことに抵抗があるのではないか、と何度か諭した。しかし、普段から命令に忠実に動いている砕蜂だ。いくら夜一とはいえ、ちょっとやそっとじゃ、その信念を変えることはできなかった。無駄な戦いこそ避けたが、夜一が行方を眩ました白哉達に接触するのではないかと思ったからであろう、砕蜂は執拗に彼女のことを尾行していた。
「しかし、おぬしがここを逃げ場所に選ぶとは思わなかったぞ。白哉坊」
「………」
 呼び方が悪かったのだろう、彼は夜一のことを睨みつけるが、とうの彼女は軽く肩を竦めるだけだ。
 その様子に、空鶴が喉を鳴らしながら笑った。
「騒動起こすちょっと前に、言いに来たんだよ。瀞霊廷の嫌われ者になってくれってさ。なぁ、白哉?」
 余計なことを言うな。そう言いたげに、白哉は今度は空鶴を睨む。
「……朽木隊長、思ってることあるなら言っていいんじゃない」
 先ほどから凄い形相で夜一と空鶴を交互に睨んでいる白哉に、京楽は苦笑した。
 しかし、実際この空鶴邸を逃げ場所に選んだのは正解だ。彼女は定期的に場所を移動する。数日前までは長いこと西流魂街第一地区・潤林安の西方郛外区に住んでいたが、今は既に東流魂街第十二地区の外れなのだから、恐ろしい大移動である。
「ほんと、ある意味いい迷惑だったぜ? 移動すんのはいいけどこんだけ急だとさ、さすがにオブジェもあんな捻りのねえもんしか作れねえよ」
 空鶴からしてみれば、あの「男の股間を蹴り上げた女」のオブジェは捻りのないものらしい。無言で、雛森と京楽は顔を見合わせる。それを見た白哉は落ち着きを払った声を出した。
「言いたいことがあるのなら、口に出すといい」
「いや、遠慮しとこうかな」
「私も……」
 そのとき、襖が再び開いた。湯呑を三つのせたお盆を持つ岩鷲が、姿を現す。来客の人数が増えていたことに気付き、目を丸くした。
「夜一さんじゃねーっすか」
「おお、岩鷲。邪魔しておるぞ」
 軽く頭を下げて、岩鷲は三人の死神の前に湯呑を置いていく。白哉は手を触れようとはせず、京楽は美味しそうに茶を啜り、雛森は申し訳なさそうに岩鷲と一言二言交わしていた。
「で、夜一。一護のことはどうなったんだ?」
「分からぬ。儂も尸魂界に来てからは、一度も現世に戻っておらぬからな」
「だが、日番谷先遣隊が戻ってこないのならば、恐らく黒崎一護はもはや我々と敵対した存在ではないのだろう」
 白哉がはっきりと告げる。どうやら、日番谷とは何かしら約束をしていたようだ。一護が彼ら死神を敵と考えている状態であるにも関わらず、ルキアや恋次が彼を取り戻そうとしているのであれば、二人も連れてここへ戻ってくるように、と。
「それじゃあ、あんたらも現世に?」
 岩鷲の問いかけに、今度は京楽が首を横に振った。
「いんや、僕たちはしばらくはここにいようと思ってるんだけど……」
「また破面の奇襲がないとも限らぬ。もしものときは瀞霊廷へ行くつもりだ」
 初めて、白哉が湯呑に手をつけた。
 隊長二人の科白に頷いている雛森を見て、岩鷲が眉根を寄せる。
「でも、あんたら、そんなことしたら処罰されるんじゃ……」
「それでも」
 雛森が微笑んで、岩鷲に言った。
「私たちは……他の死神達を、ましてや総隊長を、見捨てるなんてできないんです」
 そう。いくら命令に反した行動を起こしたとはいえ、彼らは死神なのである。
 は、と空鶴は鼻で軽く笑った。
「俺は別に構わないぜ。いつまでだってここにいろ。感づかれれば、また場所も移してやる」
 逞しいものである。
 危うく、微かな微笑を零しそうになった白哉は表情を改めて、夜一を見上げた。
「瀞霊廷ではあれから何か起きたか?」
「別にこれといったことは起きていないがの……少々、懐かしい連中が集まっておる」
「懐かしい連中?」
 雛森が、コテンと首を傾げた。
 夜一は腕組みをし、口角を吊り上げる。
「狛村の言い方を借りるのであれば、“仮面の客人”じゃ」
 仮面と聞いて、彼らは一様に目を見開いた。すぐに我に返ったのは京楽で、彼は湯呑を持ち上げると、一言。
「本当に懐かしい面々じゃないの……」
 目を細めて、呟いた。

*   *   *

 日が完全に落ちて、空に星が瞬き始めた頃。一護は、クロサキ医院の前まで来ていた。
 インターホンを鳴らすと、少しの時間を置いてからクロサキ医院のドアが開いた。出てきた夏梨は、自分のことを見上げると当然のように、「おかえり」と言ってきた。
「……?」
 対して、一護はきょとんとした顔で少女を見下ろした。
 記憶を取り戻すためか、敢えて窓から入ったりなどせずに玄関から入ろうとしたのだが、出てきた妹に違和感を覚えたからだ。
「…? 一兄? ……どうかした?」
 首を傾げる夏梨をよく見ようと、少ししゃがんだ。
 そっと、妹の目許に指を触れる。
「…腫れてるぞ、お前……」
「そんなことないよ」
 一瞬であったが、夏梨の瞳が揺れた。すぐに手を振り払われてしまったが、気のせいでなければ彼女の目は軽く赤くもなっていた。

 ――――お前の家族は、お前にしか救えない

 先ほど、日番谷に言われた言葉が頭の中で響いた。
 嗚呼、と思う。そういうことかと。必死に、自分の記憶を取り戻すために普段通りに接してくれているこの少女も、本当は傷ついているのだ。他でもない、自分のために。
 パタパタとスリッパの音を立ててリビングへと消えていく夏梨の背中を追いながら、ボソリと呟く。
「……情けねぇなあ……」
 もう少し、何かを思い出せたら変わるのかもしれないのに。


 一護は、リビングに貼ってある巨大遺影を眺めていた。たしか、この女性が自分の母親であると聞いた覚えがある。しかし、いくら見ても思い出せはしない。夏梨には聞こえないように、舌打ちした。
「一兄、お茶置いとくよ」
「ん? ああ……」
 麦茶の入ったコップをテーブルの上に置いて、夏梨はソファの上に座った。スクールバッグの中から教科書とノートを取り出し、小テーブルに置いてあるもう一冊のノートをぺらぺらと捲る。ここ数日、一護の件で落ち着くことができなかったため、学校は風邪と偽って休んでいる。友達が家のポストにまで、授業のノートを届けてくれていたので、写せるときに写しておかないと申し訳なかった。
「なあ、遊子は?」
 コップに手を伸ばしかけて、一護は尋ねた。この時間帯ならば夕飯を作っている頃であろうに、遊子の姿がどこにも見られないのだ。
「織姫ちゃんの家」
「井上…? なんで」
「それは、」
 瞬間、夏梨が口を噤んだ。言ってはいけない、と思った。
 一護が戻ってきたことで多少改善されたとはいえ、遊子は未だに鬱病の状態から完全に回復したわけではない。悪化したとは思えないが、兄の記憶がないという時点で精神的負担はかなり大きいはずだ。そのことを彼に話せば、きっとまた自責の念に駆られるだろう。だがこの破面は、既に多くのことに対して自責の念に駆られている。これ以上負担を増やして、記憶の回復に遅れを来すことの方が夏梨は嫌だった。
「……織姫ちゃん、頭いいから。勉強教えてもらいに行ってるんだ。多分、もうすぐ帰ってくると思うよ」
「へえー……井上って、頭いいのか……」
 幸い、疑った様子もあまりない。
 一見大変な天然である井上織姫が賢いと聞いて、一護は驚いたように何度も頷いてみているだけだ。
「あ、そうだ。なあ、夏梨、訊いてもいいか?」
 ふいに、彼は家族の中で最も疑問に思っていることを思い出した。
 あまりに突然で、しかもごく自然に尋ねてきたので、夏梨も少し驚いた様子である。彼女は、首を傾げた。
「何?」
「あのさ、ずっと思ってたんだけど、俺たちの親父って」
 刹那。
 空気が、震えた。上から何かが覆いかぶさり、そのままのしかかってくるような圧力を感じた。一護が目を見開いて、天井を見上げる。
 紛れもない、霊圧だったのだ。
「あ……あ……う……」
 うめき声が聞こえ、一護は視線を戻した。ソファに座っていた夏梨が床に崩れ落ちて、体中を痙攣させていた。全身から噴き出した汗が、早くもフローリングの床を濡らし始めている。
「夏梨!」
 駆け寄り、抱き起こしてやる。まだ泡を吹くほどではないが、最早瞳に光はなく、喘ぎながら呼吸をするだけだ。
(霊圧にアテられてるのか……!)
 部屋に連れて行こうかと思ったが、霊圧の発生源は上空だ。二階に連れて行ったところで大差ないだろうが、それでもできるだけ、霊圧に触れさせたくはなかった。
 それならば、方法は一つ。霊圧の発生源を絶つことが、最も単純で最も良い方法である。
 夏梨をソファの上にしっかり寝かせてやると、足早に外に出ようとした。
「………一兄……!」
 かすれた声が、呼び止める。
 一護が振り返ると、妹は焦点の定まらない瞳をこちらに向けていた。
「………帰って、きて、よ……絶、対………」
 このままどこかへ行ってしまうのではないか。そんな不安に駆られているらしい。
 一護は、安心をさせるように微笑んで見せる。
「分かってる。心配すんな」
 知っている霊圧だった。なじみ深い、霊圧だった。これに対抗できる者など、自分以外にはいない。それに、自分にしか護れないのだ。自分の家族は。
 彼は響転(ソニード)で姿を消した。
「一兄………」
 夏梨はうわごとのように再び呟き、そして、意識を手放した。




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