a man of his word.6



 シャクリ、と腐った林檎を頬張った。
 周りにはボロ布を体に巻き付けた者が、男も女も、子供も大人も問わず転がっていた。むせ返るような死臭は、しない。何故なら彼らはもう霊体だから。時間が経てば、そこから消えていくから。
 汚い箱の上に腰をおろして、地につかない足を無造作に揺らしながら、異常に酸っぱくて、そのくせ臭い林檎の形を、確実に削っていく。
『呼ばれて〜〜〜〜、飛び出て〜〜〜〜、でも堪えて〜〜〜〜!』
 そんな声が聞こえたと思ったら、いきなり目隠しをされた。
 驚いて、非力なのは百も承知で腕を振るった。右手に持っていた腐った林檎が、転がり落ちた。しかし自分の腕を受けたその手は、呆気なく離れた。振り向いた目の前にいたのは金髪の少年。
『挨拶を堪えるなんて、やっぱできない! こんにちはっ!!!』
 満面の笑みを浮かべる少年に、少女は呆けた顔を向ける。
『あれれ? 驚いちゃった?』
 大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、少女を覗き込む。ふと、足元に視線を落とした。転がっている腐った林檎を拾い上げて、首を傾げる。
『こんなの、食べてるのか? 美味しい?』
 美味しいわけがない。少女は黙って、首を横に振る。
 少年は、うーんと考え込む仕草をしてから、
『もしかして、キミ、お腹が空く人?』
 こくり、と小さな頭が動く。
 すると、少年はみるみるうちにまた、笑顔を浮かべた。
『ほんとに!? 俺も! 俺もなんだよね!! やっば、やっと会えた! お腹すく人!』
 勝手に少女の手をとり、ピョンピョンと飛び跳ねんばかりに大喜びする少年は、そのままに感情を出した。
『嬉しいなっ! ほんと、嬉しい! なあ、名前は? 名前は、なんってーの? 俺は』
『……って、何?』
『へ?』
 初めて少女が口を開いてくれたので、嬉しさを滲ませながら聞き返す。
 少女は徐に少年を見上げて、平坦な声で言った。
『……“うれしい”って、何?』

*   *   *

 引き戸を開けると、太陽の光が瞳に入ってきて、思わず顔を顰めた。光はオレンジ色で、もう随分太陽が傾いているがために、正面から直接光を浴びることになる。
「……あたしはどんだけ寝てたの……」
 基本、朝早く起きて業務をこなしていた夜光にとって、一日の大半を布団の中で過ごしたことはとても無駄に思えてしまう。動こうとする度に乱菊の怖い笑顔にねじ伏せられたり、あまりにしつこいとテッサイを呼んで来たりと、なかなか外に出ることを許可されなかったのだ。幸い、夕方になって漸く、麻痺した体も普通に動くようになり、痛みもほとんどなくなったので、少しだけ外の空気を吸おうと考えたわけである。
「あんたは頑張りすぎなんだから、たまにはこれくらい寝てもいいんじゃない?」
 乱菊が続いて出てくる。彼女も久しぶりの現世であるし、尸魂界から苦労して現世にやってきた身だ。自分の看病などせず、自由に空座町を見てくれば良いものをと思う。
「生活習慣が崩れて逆に具合悪くなりそうだよ」
「どこまでも真面目ねぇ」
 肩を竦めて見せると、乱菊は少々あきれ顔になった。
 僅かな沈黙が訪れ、徐に彼女は口を開く。
「……恋次に滅茶苦茶な言葉浴びせたわよね、夜光」
 ピクリ。肩が揺れる。
「でも正直、あのときはあんたが悪いと思うわよ。恋次はあんたのこと心配してるんだから」
「……分かってるよ」
 背中の傷。余命。そんなことを聞けば、あのお節介な三番隊隊長が黙っているわけがないのだ。
「……気遣われるのが、嫌なだけ」
「気遣ってもらえない人だって、世界には沢山いるのよ。その点、ちょっと贅沢なんじゃない?」
 顔を背け、かすかに俯く。
 ポツリ、と。
「……優しくしてもらう資格、ないんだよ。ほんとに」
「……夜光?」
 彼女が自分を大事にしないのは、今に始まったことではない。しかし、あまりにいつも以上の重みのある声音に、乱菊が眉を寄せた。
 ところが、くるりとこちらを改めて振り向いた夜光の顔は、いつも通りスッキリとしたものである。
「ね、みんなどこ行ったのかな? あたしも現世、ちょっと見て回りたいよ」
 夜光が疑問に思うのも当然で、一護が意識を取り戻してからは浦原商店に残っていたのは乱菊ただ一人であり、石田や織姫、チャドも、ルキアも恋次も、皆思い思いの場所へ散っていった。勿論、彼らは夜光の看病もするつもりだったのだが、そこは乱菊が拒否したのだ。夜光が再び起きたときに人が多いと、「迷惑をかけた」と自己嫌悪に走るであろうことは容易に想像することができたためである。
 気のせいかしら。
 長い髪を掻き上げながら、少し渋い顔をした。
「大丈夫なの? ひょこひょこ出歩いて……」
「平気平気! それにあたしだって息抜きしたいよ。砕蜂隊長と戦うの、正直滅茶苦茶怖かったし」
「でしょうねぇ……」
 任務においては完璧に遂行しようとする砕蜂である。彼女と戦うことを得意とする人は、強いて言うなれば夜一くらいのものであろう。
「じゃ、私は織姫のとこ行こうかしらねー」
「織姫……あ、あたしの背中、治療してくれた…」
「そうそう! あの子が作るご飯、美味しいのよねーっ! あ、そうだ。瑠璃谷隊長も、どうですか? 一緒に来ません?」
 呼び方が突然「瑠璃谷隊長」とすることで、怪我の心配はもうやめたことを示す。
 それに気づいた夜光は、多少居心地の悪さが消えたことに安堵する。次いで、少し考える仕草をしてから、軽く顎を引いた。
「お礼も言ってないし……じゃあ、あとで行く。その前にやっぱり、本屋行くけど」
「じゃー夕飯は瑠璃谷隊長も一緒って、織姫には伝えておきますね! あ、そーだ。浦原商店の裏に置いてある義骸、好きに使っていいそうですよ!」
 夜光は、瞳を瞬かせる。
「は? 義骸? なんで現世の商店にそんなの置いてあるの?」
 今度は乱菊の方がきょとんとしたが、成程、と一人頷いた。
 夜光が死神になったのは、まだつい最近のことである(それで隊長の座にまで上りつめているのだから、末恐ろしい娘だ)。この店の事情であるとか、元十二番隊隊長のこともあまり知らないのだろう。
「ほら、十三番隊隊長に就任した、浦原喜助って死神、いるじゃない?」
「ああ……たしか、なんらかの事件以降行方をくらました上、尸魂界を追放されたとかなんとか……」
「そうそう。その浦原隊長がずっと暮らしてたのが、この浦原商店ってわけ!」
 やっと、夜光は納得した様子で頷いた。
 元々、どうしてこのような駄菓子を置いてある店が死神らの集合場所になっているのだろうと、気になってはいたのだ。しばしば様子を見に来てくれた二人の少年と少女や、部屋を提供してくれた大男等は自分たちの姿が見えているようであったので、霊力を持っているという繋がりだけで、この商店を借りているのかと考えていたのだが、それ以上に深い繋がりがあったらしい。
「私も義骸に入って、織姫の家行こっと♪」
 乱菊はスキップをしながら、浦原商店の中へと戻っていく。
 軽やかに跳ねる彼女の背中を見届け、
「義骸に入るのなんて、久しぶりだなぁー……」
 夜光もまた、浦原商店の中に入っていった。

*   *   *

 少年は面食らったような顔をしていた。
 当然といえば、当然だろう。今目の前にいる少女は、“嬉しい”とは何かと尋ねてきたのだから。それは、人間であるなら必ず持っている感情の一つであるはずなのにも関わらず、だ。
『えっと……? 嬉しいって、それは、悲しいの反対だよ?』
 当然のように、答える。この治安の悪い地域で、自分のような者に声をかけられること自体が稀なのであろう。そのせいでただ混乱しているだけかと思ったのだ。しかし、今度は少女は、このように返す。
『“かなしい”って、何?』
『えええええ………』
『そもそも……』
 ただこちらに向けられていただけの虚ろな瞳に、昏い光が見える。
 眉を顰めていた。
『……お前、何?』
 漸く、答えようのある問いが飛んできた。
 少年は、口許に笑みを浮かべてから口を開いた。
『俺は紅(べに)! 藤宮(ふじみや)紅! キミと同じ、お腹がすく人だよ!』
『……べに……』
 ぼんやりと復唱する少女に笑顔で頷き、問いかける。
『な、こんなとこで何してんの? っていうか、コレなんか、腐ってるし…』
 差し出された林檎をゆっくり見下ろして、また、平坦な声を出した。
『腐っていようとなかろうと……お腹いっぱいになれば何でもいいから……』
 紅は、少女の林檎を齧った跡を見つめる。次に、周囲に倒れ伏す何人もの死体に目を向けた。早い者は、もう何人かが霊子に分解され始めている。
『この人たちは……?』
『知らない。勝手に殺し合ってて、勝手に全員死んだ。こいつらの持ってた食料漁ってたら、林檎出てきたから食べた。それだけのこと』
『死人から漁るか〜……なかなか、だね……』
『それがここでは普通だから』
 ここ――――北流魂街第八十地区・“更木”は、いる者全員の目が、獣のようであった。女子供問わず、ただただ殺戮を繰り返す血の気の多い男がほとんどである。地面はほとんどが妙な黒に染まっている。それらは全て、ここに暮らす人々の体内から溢れた血によってのものだろう。死ぬ人間が、殺される人間がいない日は、ない。
 この少女がまだ無事であることすら、奇跡的だった。子供の衣服を奪って売る者もいれば、子供を捕まえて売ろうとする者もいれば、ただ目障りだからと切り捨てる者もいるのだから。
『大変だったね』
 紅は、そっと少女の頬に手をやった。肌は酷く乾燥していた。
『そんなことない』
 また、少女は平坦な声で返した。無感情な瞳は、果たして少年のことを映しているのか。
『これが普通』
 少女にとって、“更木”での生活が基準となっている。だから、“更木”における苦しさであるとか、悲しさ、大変さはあまり感じていないのだろう。その代わり、嬉しいや楽しいといった感情とも無縁だったのだろう。ほとんどの子供は、そんな状態に陥る前には斬られている。だから、ある意味運の良かった少女においては、感情が欠落した状態になってしまったのかもしれない。
『ねえ、俺の家に来ない?』
『……?』
 紅が、無邪気に笑う。まるで、向日葵のように。
『俺、“更木”じゃなくて、“錆面”! 西流魂街第六十四地区の! あっちの方が、まだ話も分かる人いるし、行こうよ! まーちょっと遠いけど……』
 他の地区に移動する、などとは考えたことがなかった。
 気付いた時には自分はもうこの八十地区に振り分けられて、毎日目の前で人殺しが起き、時にはこちらに包丁が飛んでくる。そんな日常が広がっていたのだ。
『少しだけど、米、あった気がするし! 何人かで寄り添って暮らしてるんだ。キミのことも絶対受け入れてくれるって! つか、俺が受け入れてるんだから大丈夫!』
 一方的に話し続ける少年に、少女はぽかんと口を開けていることしかできない。
 紅が、少女の目の前にまで手を差し出してくる。人に手を差し出されたのは初めてだったので、狼狽した様子で視線を泳がせた。
『勿論、やっぱり治安は悪いから絶対安全とは言い難いけど、ここより絶対マシだし、俺が護ってあげるからさっ。ね、行こう! ええっと……キミの名前は?』
 暫く、無言でただ俯いたり、少し顔をあげたりを繰り返していた少女は、漸く静かに、微かに、小さな口を動かした。
『…………夜光……』

*   *   *

 紙袋を持って、店を出た。ふー、と漏れるのは、久しぶりの満足の吐息だ。
 空を見上げて、随分綺麗にオレンジ色に染まっているななどと考えながら、足を進め始める。脇を、少年少女たちがワイワイと賑やかに騒ぎながら通り抜けていく。それを見ていると、今現在自分たちが成さなければならない役割であるとか戦いであるとかが、全て本来はないのではないかという錯覚さえ覚えた。
(そういえば、この後は井上織姫って子の家に行くんだっけ…行き方聞いてない…ま、霊圧たどればいっか)
 歩きつつ、懐かしそうに目を細める。
 誰かの手料理を食べに行く、なんて久しぶり……かも……。
(…!?)
 ふと気配を感じ、慌てて彼女は振り向いた。後ろには交差点しかない。しかし、今たしかに、何かの気配を感じた。
 訝し気に眉を顰めつつ、紙袋を持ち直すと、ゆるゆると来た道を戻っていく。道の角に差し掛かって、足を止める。勢いよく、角から自らの姿を晒した。が、そこには誰もいない。
(……気のせい……かな?)
 肩から力を抜き、改めて道を戻ろうとする。
 しかし、急激に体が重くなったように感じた彼女は、肩からすぐそこのブロック塀によりかかる。紙袋を足元におろし、目を閉じて、深呼吸した。
「…ふー……ふー……」
 落ち着かせるように深呼吸を繰り返し、やがて、目を開ける。
「………っ……?」
 そこで、最初に視界に入ったのは、予想をしていなかったしわくちゃの悪趣味なTシャツ。徐に、顔を上げた。
「大丈夫か?」
 普通の人間に極端に警戒されるのを防ぐためか、眉から額へと彫られた刺青をバンダナで覆い隠した、赤髪の男。
 ファッション雑誌で学んだのか、手首には怪しげな髑髏をモチーフにした、シルバーのブレスレットをつけていた。
「……何が? 義骸に慣れてなくて、疲れただけだよ?」
 何でもないように笑って見せる夜光に、恋次は呆れた様子で肩を竦める。
「なら、いいけどよ……」
「そーそ! 心配しすぎ!」
 得意げな笑みを漏らす夜光。
 迷惑とは思うが、彼が自分の容体を案じてくれていることは分かっているし、今は昼間よりは幾分落ち着いている。怒鳴る気はなかった。
「で、何持ってんだ?」
「コレ?」
 足元の紙袋を持ち上げた矢先に言われたので、その中に手を突っ込み、取り出す。分厚い本が三冊、恋次の前に現れた。
「本?」
「そ。現世の本屋、前からちょっと興味あってさ、桃にもと思って。黒崎一護のことが片付いたら、桃と図書館行く約束してるしさ。丁度いいっしょ?」
「お前ら、本好きだよなー……」
 休暇をとって五番隊の隊長と副隊長がいないときは、大抵図書館に行けば会うことができたものだ。勿論、そのために休暇でも仕事を持ってこられたりすることも多々あったようで、そのことに関しては雛森も夜光も愚痴をこぼしていた。
「まあね。そーゆー恋次こそ、それ、何?」
 恋次も恋次で、片腕に紙袋を抱えていた。しかも、仄かに良い香りがする。
「俺か? 俺は……」
 紙袋の中をあさり、彼が取り出したのは、甘い香りを纏っている鯛焼きであった。
「……好きだねぇ」
「うるせぇ」
 たった今取り出した鯛焼きを口にくわえる。くわえたまま、再び袋に手を突っ込んで新たに鯛焼きを取り出し、それを夜光の前に差し出した。
「ん」
「お、ありがと」
 夜光は鯛焼きを受け取ると齧りつき、「うまっ」と頬を綻ばせた。
「でもあたし、あんまんの方が好きだよ」
「うるせえな。文句言うなら食うな」
「やだ。食べる」
 二人はブロック塀によりかかったまま、鯛焼きを齧っていた。
 夜光は、あと一口で終わる程度にまで鯛焼きを減らしてから、口を開いた。
「あれから黒崎一護、どう?」
「さてな。今頃一人で町をうろちょろしてるだろうけど、あんま変わんねーよ、多分。しばしば記憶の断片みたいなもんは見えるみてーだけど」
 早々と二個目の鯛焼きを取り出し、かぶりつく。
「もうちょい、かかるな」
 そっか、と相槌をうち、最後の一口を口の中に放り込んだ。
 餡子の甘味を堪能していると、今度は恋次が口を開く。
「怒んねえで、聞いてくれるか」
「内容によります」
 内容は、今の一言でもう分かっているけれど、敢えてそう言うことで牽制した。これで引き下がるのなら、今後彼が、自分の領域に踏み込んでくることは許さない。しかし、夜光は知っている。恋次ならば、きっと―――
「……不快なのは、分かるんだけどよ。確認はしたくてな」
 目だけ、恋次に向ける。
「夜光。お前、このまま死んでもいい、なんて……諦めてる気持ちは、ねぇよな?」
 彼女は眉間に皺を寄せ、鯛焼きをゴクリと飲み込んだ。しかし、何も答えない。
「オメーに、俺たちほど時間がねぇのは分かってる」
 いつもほど、恋次が言葉を矢継ぎ早には発してこない。彼は、言葉を必死に選んでくれているのだ。夜光が傷つかないように、細心の注意を払ってくれているのだ。
「でも……精一杯生きよう、とか、それ以外に……どうしたら助かるだろう、とか、考えんのもアリじゃねぇか?」
 ある漏れそうになった一言を、喉を鳴らすことで堪えた。
「こんだけ仲間がいりゃ、どうにかなる気、しねーか?」
 夜光が俯く。彼は、言った。
「広めたくねえって、心配させたくねえって、一人で頑張って……それで誰が喜ぶんだよ?」
「ねえ恋次」
 ふいに声を出した彼女が、ゆっくりと顔を上げる。そこに浮かんでいたのは、辛そうな笑顔だった。
「……やめよ。その話」
「……夜光」
「ごちそーさま。いいね、鯛焼きも」
 へへ、と笑う夜光に、恋次はやるせない思いで口を閉ざす。
「あ、そーだ! 恋次、井上織姫の家知ってる?」
 いきなり、知っている現世の人間の名前が出てきたので、恋次はきょとんとした。
「知ってるけど……なんだ? 井上になんか用か?」
「うん。治療してくれたお礼と、ご飯一緒させてもらう」
 あーなるほど。と恋次は何度も頷き、暫く考え込む仕草をする。
 今、夜光が言った科白を頭の中で反芻し、
「…………………え?」
 彼の顔から、血の気が引いたのであった。




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