■ 第七章:深き謎、深き心。


 あなたに背を向けて 歩き出したのは

 あなたが私を止めてくれると 思ったからだ


 私が涙を 零さなかったのは

 あなたが私を心配すると 思ったからだ


 誇りを 胸に秘めていたのは

 あなたに理解してもらいたくないと  思ったからだ


 砂浜に書いた文字が 波にさらわれてしまったのは

 あなたはそれが消える前に読んでくれると 信じていたからだ







 片手を豪快に袋に手をつっこみ、沢山の「もの」を鷲掴みにして取り出した。それを躊躇無く口の中へと持っていき、丈夫な白い歯でボリボリと噛み砕く。
 そんな彼を見つめて、亞丹(あに)は不満そうに羽を動かす。黒い鱗粉が落ちていく。
「鏡死様……さっきから、言いたいんスけど」
「なんだ」
 食べる手を止めずに答える。
「いや、あの、………何、食べてるんスか?」
「…………」
 ジロリと睨まれて一瞬焦るも、今の状態の彼ではそこまでの威圧感を感じられない。
「見れば分かるでしょーが、亞丹」
 柱の後ろから黒い鱗粉を撒き散らしながら飛んできたのは、濤目だ。
「金平糖だよ。ですよねー、鏡死様ー?」
 そう。先ほどから鏡死が口いっぱいに頬張っているのは金平糖だった。鮮やかな色の砂糖菓子は、この暗い広間の中で異常に明るく見え、美しくもあった。
 不愉快そうにしながらも、鏡死は頷く。
「とり憑いた相手が、悪かったようだ」
 彼のとり憑いた相手―――つまり、今現在の彼の姿は、草鹿やちるだった。……やちる、なのだ。
「俺は欲しくも無いのに、この体が金平糖を食べないとムズムズしてきやがる。全く、めんどくせぇったらない…。大体金平糖って何だよ、麻薬か? そんな摂取してないと落ち着かない、みたいになるのおかしいだろう。美味いけど」
「……美味しいんだから、いいじゃない」
 ユリイが呆れ顔で触角を揺らした。
「ええやん、君らはさ。アタイなんて、今回は戦線に出られへんかったんやもん。尸魂界に奇襲をかけるなんて、そないな楽しいことに参加でけへんとここで待っとってな。ああ、アタイなんて惨めなんやろう思うて、なんや関係あらへんのに亞丹にいけずばっか言うてしもうて大変やったんやで?」
 撫子の言葉に、思わず反応してしまったのは亞丹であった。
「ちょっと待てッス! やっぱあれ、ただのイジメだったんスか!! オイラだって奇襲かけるの、はぶられたんスから、同じ立場じゃないッスか!! なんでオイラはぶって撫子だけ損してる感じになってるんスか!!!」
「あんたはドM、アタイはドS。それだけやで」
「お願いだからガセネタを当たり前のように言わないでくださいッス!!!」
 悲痛な叫びをあげる亞丹と、冷たくしている撫子は放っておき、鏡死は袋の中に残っていた最後の一掴みを口の中に入れると、濤目を見つめた。
「濤目」
「はーい?」
 柱の下に降りて、改めて鏡死を見上げる。
「貴様、奇襲が終わった後、少し外出していただろ? どこに行っていた?」
「なんでもないですよ。死神代行のとこを様子見してきただけです。僕はルキアちゃんと戦ってから、ちょっとだけ余裕があったもんで。黒崎一護の妹にとりついて、うまいことちょっと喋ってきちゃいました。えっへへ、先取りレポート的な???」
 鏡死は肩を竦めた。濤目の自分勝手な行動は、今に始まったことではないのだ。こいつはいつもこうやって、何の指示もないのに勝手に動いて、勝手に調べて、勝手に行動しやすい通路等を探ってくる。ただ、それらは必ず役立つので、彼は濤目の行動を制限しようともしないし、寧ろ信頼すらしていた。
 今回も、きっと何かを掴んできたのだろうな、と思ったが、彼は自分から言わない限り言わないのも分かっていた。だから、答えてくれそうな質問だけをする。これも、彼等が偽地獄蝶として集結した当初のとき以来、当たり前のことであった。
「どうだった? 黒崎一護は」
「どうも何も、ただの腑抜けですよ、あれじゃあ。今、霊力とかも全部失ってるみたいですしねぇ…」
 ほう、と鏡死は頷いた。これは好都合だ。霊力を失っている状態とはいえ、復活する可能性だって無きにしもあらず。この世から滅してしまう以上の片付け方など、どう考えても思いつかない。「腑抜け」と言う今の彼なら、どうということもなくアッサリと殺すことができるだろう。
「………これは、近いうちに滅しに行ったほうがいいかもしれねーな……土産を沢山持って、さ…」
「…………」
 濤目は、無言で鏡死を見つめていた。
 ユリイは羽をはためかせて、宙に浮かび上がる。そして鏡死の近くまで飛んでいくと、
「それは結構ですけどね、あたしたちにも体、用意していただけないかしらね? あたし達は何を言っても、現時点ではとり憑くこと以外できやしない。肉体がなければ、今度は死神と戦うなんてなかなか困難よ?」
「分かっている」
 鏡死は、やちるの口角を不気味に持ち上げる。瞳は怪しい色に光っている。
「その点は心配ない。貴様等全員の体の当ては、もうあるからな………」
 頬杖をついたまま、クックックと笑ってから、金平糖の入っていた袋を放り出す。
 中には何も、入っていなかった。
 その袋は、フワフワと速度をあげずに、床へと落下していく。


 三時間目の授業は、越智による現国だった。相変わらずの元気さで板書をしていき、真剣かついい加減な授業をリズム良く進めて行く。
 しかし、一護はほとんど、それを上の空に聞いていた。外ばかり眺めてしまい、授業など聞いてはいられない。いつもなら、あの辺りで魂魄が歩いているはずなんだ…とか思ってそこに目をやるが、彼の瞳には映らない。
「で、まぁ主人公はこのときこう思ったわけだ…まーあたしもこういう犯罪を起こしてみたいって興味湧いたことはあるけどねー」
 本当に教師なのかと疑いたくなるような授業である。そんな説明の最中、

 ダダダダダダダダダ!!!!!!!!!
 銃撃かと疑うような音。多分、足音だろう。バタバタという音が稀に聞こえる。が、専ら「ダダダダ」と聞こえた。
「んー? 誰だ? 授業中に廊下をダッシュする元気野郎は」
 越智が小首をかしげながら廊下の方に顔を向けた瞬間――――
 バッタ――――ン!!!
 教室の戸をすごい勢いで開けて飛び込んできたのは、織姫・石田・チャドの三人だった。同時に、三人からの第一声。
「黒崎君!」
「黒崎!」
「一護!」
 とうの一護も、吃驚仰天である。
「おいおい、井上に石田に、茶渡まで遅刻かぁ、揃いも揃ってぇ!!?」
 越智の言葉にはまるで耳も貸さず、三人は一護の机に走り寄り………止まれず、結局三人同時に突進した。
「うおおおぉぉッ!!!!???」
 当然、一護は机や椅子ごと倒されたわけで、それでも三人の勢いは止まらない。
「黒崎君、あのね、あたしね、さっき朽木さんに会ってきて!」
「黒崎! 阿散井から全てを聞いてはっきりしたぞ!」
「さっき会ってきたんだが、乱菊さんが言うには、お前の霊力は」

「ッッだ――――――――!!!!!! うるせぇ!!!!! 三人同時に喋んなああぁぁッ!!!!!」

 一護の怒鳴り声が、教室に響く。無論、周りの生徒達はただ唖然とするばかりである。


 黙って聞いていたが、いかにもルキアが考えそうなことである。ちなみに現在は昼休みで、お決まりの屋上で、四人は購買部でそれぞれ買ってきたパンに齧りついていた。
「黒崎。その、異常に強い虚が来たっていうのは、事実なのか?」
 頷き、焼きそばパンから口を離す。
「ああ。アイツはたしかに、異常だった。サイズは普通のくせしてさ、何で攻撃しても全部弾かれんだ。卍解の状態でもダメだった。そんで虚化して、やっと斃せたって感じだな」
 織姫は一度カレーパンに大口で齧り付くと、それから口を開く。
「そのとき、黒崎君大怪我しちゃったって聞いたの。朽木さん、すごく申し訳なさそうにしてたよ…」
 一護は考え込むように手元に視線を落とした。
 たしかにあの後の記憶はほとんどない。痛みも途中からどういうわけか感じなくなっていたし、多分死のギリギリのラインを踏んでいたのだろうと思う。そして、目が覚めた場所は四番隊救護詰所だった。一体どういう経路で四番隊に救われたのか、自分がどうして助かったのかは一切分からない。先ほどから織姫たちから聞いている話を考えると、ルキアは動きがとれずに助けも呼べず、ただ彼の名を叫んでいただけであるとして、誰がどう自分を救ってくれたのか。
「………朽木は、そのことがあってからずっと、尸魂界で悩んでいたらしい」
 一言言い、ホットドッグを口に運ぶ。
「それで出した決断だったと、乱菊さんから聞いた。一護と尸魂界の関係を断つ、という計画だ」
 チャドの言葉に、一護は納得するしかなかった。その言葉の通り、現在彼は、尸魂界と関係が断たれているのだから。道理で何もかもが自分の身の回りからなくなっているはずである。……が、しかし。
「納得いかねぇ」
 仏頂面で言う一護に、石田はコッペパンを銜えたまま、眉間に皺を寄せた。
「俺の意見も聞かずにかよ。勝手にも程があんだろ」
 自棄になって、残りの焼きそばパンを全て強引に、口の中に押し込んだ。ちょっと大きすぎたな、と一護は心の中で後悔する。
「でも、黒崎はわかってるだろう。朽木さんはそういう人だ。お前のためにやってるんだ」
 ただ、と石田は続ける。
「………今回は、ミスもあったかもしれない」
「そうだよね…。さっき、黒崎君も言ってたけど、やっぱり偽地獄蝶≠チていうのが今大変みたい。それに黒崎君のところにも来たとすると……」
「狙われてるだろうな」
 織姫の言葉を先取って、一護は片手で自分の頭を掻いた。そして立ち上がり、歩き始める。
「どこに行くんだ? 一護」
 チャドに尋ねられ、一護は一言、
「せんせーに、早退したこと言っといてくれ」
 そう返して、屋上からいなくなった。


 屋根の上を飛び越えて、ふと一つの大きな木のところで足を止める。
「…………」
 木の幹に触れ、訝しげに眉を顰める。
「……ここか………」
 一心は斬魄刀を抜き、頬を緩める。
「ったく、こんな大事なところ、無防備にするもんじゃあねえな」
 瞬間、彼の姿は消え、巨木を真っ二つにした。
 するとその巨木は倒れるはずが、黒い粉を空に舞い上がらせながら、その場から、元々なかったかのように綺麗に消えうせる。
 ふー、と息をつき、斬魄刀を鞘におさめると、空座町を見渡した。
「やっと一本か………」
 ふと、下を見下ろす。
 そこには、滅却師嫌いの、自分と同じ父親の立場にある男の姿が見られた。こちらを見上げているので、さしずめ霊圧を感じ取ってやってきたのだろうと思う。
 再び一心はニヤリと笑い、ポツリと言う。
「………丁度いいぜ。手伝ってもらうかぁ…!」
 瞬歩で、下へと降りていった。


 うんざりしたように眼鏡を少し押し上げて、やはりうんざりしたように溜息を吐いた。
「んだよ、そんな嫌そうにしなくてもいいじゃんかよ。俺とお前の仲だろう?」
「五月蝿い。黙れ。勝手に仲と言うな。私はお前が嫌いだ」
「なのに来てくれたってか? 優しいじゃねぇか」
 ニヤニヤする一心を一瞥して、石田雨竜の父親・石田竜弦は踵を返す。が、歩き出さない。それを見て、一心はまた笑う。竜弦は目を閉じて、何も言わない。
「まあ、いい。頼みがあるんだが聞いてくれるか?」
「なんだ。黒崎隊長」
 ただの嫌味のつもりだったのだが、少し度が過ぎたらしい。一心は眉間に皺をよせ、真剣みの帯びた声で言った。
「やめろよ。その呼び方」
 竜弦は呆れた様子で振り向き、一心を見据えた。
「…それで?」
 一心は肩を竦めた。
「分かってんだろ。死神が何人かこっちに来てる。だが、あいつらはまだ、『気付いていない』らしい。総隊長が現世に来ればすぐ気付くだろうが、さすがに発してる霊力が微弱すぎる。俺もさっきやっと一本壊したところでな。俺一人じゃとてもじゃねぇが間に合わねえ。手伝ってくれねぇか?」
 竜弦は空を見上げた。晴れている。雨の降る気配など欠片も無い。
 少し体中の神経を研ぎ澄ましてみれば、なるほどほんのわずかな霊力だが、空座町の方々から感じられる。とはいえ、あまりにもそれは弱すぎて、どこに発生源があるのかまでは分からない。
 新しい煙草を取り出して、口に銜える。ライターで火を点け、フーと煙を吐き出す。
「……何本ある?」
「さぁな。何せ感じるのはこんな霊力だ……今んとこ、浦原に適当な情報貰って、俺自身で感じて確認できてるのは十五本だ」
「…………」
 煙草を銜えたまま歩き始め、指の間で煙草を挟んで口から離し、また煙を吐き出すと、ボソリと一言。
「面倒ごとを持ってくるのが好きだな」
「俺じゃねぇよ。元々一護が悪りぃんだ」
 ふんと顔を背けた瞬間、風が強く吹いた。
 二人は同時にある一点を見つめると、そこには長い髪を結った色黒の女――――夜一が立っていた。何かをたすきがけにして背負っている。
「ほほぉ、相変わらず仲がいいのう、おぬしらは」
「………」
 竜弦は答えず、足も止めない。
 一心が片手で自分の頭を軽く掻いていると、夜一は言った。
「分かったぞ。数」
「!」
 一心は驚いたように夜一を見つめ、そして竜弦も振り向きはしないが、とりあえずその場に留まった。
「数は合計二十三本。そのうち十本は空座町を囲うように立っておる。残りの十三本はこの空座町のどこかに乱立させられておるようじゃ。先ほど一心が一本壊したとはいえ、あと残りの二十二本を早急に壊さねばならん。少なくとも五本以上残ったら…」
 夜一は目を細めた。
「取り返しがつかんようになる」
「…………チッ、あと二十二本か。思ってたより多いな…。ま、やるしかねぇか。なぁ、石田?」
 一心が同意を求めるが、竜弦は何も答えずに、瞬間的にその場から消え去った。恐らく飛廉脚を使ったのだろう。
「あんにゃろう……」
「ふはは、本当、相変わらずじゃのう。まぁ良い。この件は二人に任せるぞ。儂はこれから尸魂界に戻って、残っていることを済ましてくるからのう」
「なんだよ。まだ終わってなかったのか?」
 意外そうな顔で言う一心を、夜一は睨みつけた。
「んん? なんじゃ? 儂の行動が遅いとでも言いたいのか?」
「誰もそんなこと言ってねぇだろうが!!」
 夜一はやれやれと一心に背をむけ、「あとは頼んだ」と言い残して、瞬歩でその場から消え去った。
 一心は面倒臭そうに自分の首を掻いて、また溜息を吐く。
「仕方ねぇな……俺も行くか………」
 二本目を目指して、彼もまた、瞬歩でその場から消えた。


 瞬神≠フ名に恥じない、恐ろしく速い瞬歩を繰り返す。たすきがけにしていた袋がモゾモゾと動き、中から水色の熊のぬいぐるみが姿を見せた。
「ぷはーっ、ちょっ、キツ!!」
「なんじゃ。まだおぬしの出番ではないぞ、コン」
 そのぬいぐるみの中は、あのコンであった。
「んなこと言ってもよー、こん中狭いっすよー。ていうか、この連れて行き方でさえ納得いかねえのによぉ」
 走りながらも夜一は小首をかしげる。
「連れて行き方?」
「ああ!! 俺様としちゃあ、夜一さんのその膨らみと膨らみの間という禁断の場所に入れてもらえれば、どんなに狭くても文句言わなかったッスよ!! それで窒息死できるなら本望―――」
「ほう…そこまで言うなら、その本望とやらの死に方を試してみるかのう?」
「あ、やっぱ遠慮しときます。はい。すみません……」
 水色のぬいぐるみであるのに、さらに真っ青になっているコンである。
 暫くの沈黙があってから、コンはぽつりと言った。
「……一護は、死なねえか?」
 髪が激しく揺れ動き、バサバサという服の風にうたれる音ばかりが響く。
 目を閉じてから、スピードを緩めずに、静かに答える。
「………心配はいらん」
 コンは、再び袋の中に潜り込む。
「…戻ってくるじゃろう。すぐにの」


 あるビルの屋上で、ルキアは座っていた。
 高い場所が好きだ。全てを見渡せる広い世界、そんな高いところが、昔から好きだ。昔から木に登って、昔から高い位置から色々なものを見てきた。
 高い場所では、風も心地よく吹く。
 ルキアの前髪が風に揺られ、ほどよい温かさの光が空から降ってきている。
 何気なく下の道路を見下ろして、目を見開く。
 オレンジ色の頭の高校生が、道路を走っているのだ。まだ学校の時間のはずなのに。あわてて立ち上がって、その場からいなくなろうとする。彼からはもう自分の姿が見えないことは分かっているが、ルキアの方が見ていたくなかった。そして、自分自身に「もう黒崎一護に迷惑をかけない」と誓っていたので、会わないようにしなければならなかったのだ。
「っ…ルキア―――――――!!!!!」
 頭に響く、一護の声。振り向いて、改めて見下ろしてみると、彼はただがむしゃらに走りながら叫んでいるだけだった。やはり霊圧も感じ取れていないし、ルキアも見えないようだ。だが、彼はやはり、彼女の名を呼んでいた。
「恋次!! 乱菊さん!! ルキア!! どっかいんだろ!? 出てこいこの野郎!!!」
 たとえ出て行ったところで見えないのに、あの莫迦は何を言っているのか。
 だが、ルキアは分かっていた。これが、一護なのだ。ダメだと分かっているのに、できやしないと心の底では思っているくせに、弱音を吐かずにやってみる。そして、「無駄だ」などと他人から言われたら、「無駄じゃない」と言い張る。「信じてる」と言い張る。
 傍から見ていて、それはただの頑固者としか思えないが、そうではない。
 一護は、全てを願うようにではなくて、誓うように言うのだ。「必ず勝つ」という言葉も、自分自身に「絶対勝てよ」と言っている。「絶対死なない」も、自分自身に「絶対に死ぬな」と言っている。それが、彼なのだ。
 ルキアは瞬歩で、その場からいなくなった。
 
 後悔していた。

 現世に来るべきではなかった。尸魂界に残るべきだった。恋次の言葉を素直に聞いていればよかった。彼女の瞳からは、大粒の涙が零れ始めていた。
 堪えていた涙だ。今まで流さないように、「これが最善策なのだ」と、「これしかない」と言い聞かせて、「仕方の無いことだから泣くな」と考えていた。しかしそれでも、涙は零れた。
 死覇装の袖で、涙を拭う。自分のこの涙が、どんな涙なのか知っている。
 
 志波海燕を、自らの手で殺めてしまった時に流したのと同じ涙。

 大切な人を失いたくない。そう願う涙なのである。
 先ほど一護が叫んでいるのを見て、改めて思った。

 ……一護は、まだ、死ぬべきではない――――。



 がむしゃらに走っていたが、結局一護は誰にも会えなかった。実際のところ、彼の前に誰も現れてくれなかったのだが、どちらにしたって一護には見えないのだ。現れていても同じことだった。
 諦めた一護は、ルキアたちと再び会話ができる手段をさがそうと、バスに乗って帰路につく。そして、クロサキ医院に帰り着いた。戸を開けて、誰もいないことを確認する。まだ小学校は終わっていないので、夏梨と遊子もいない。一心もいないというのは意外だったので、一護は驚いていた。
 自室へ入ると、スクールバッグを机の上におく。周りを見て、椅子の近くにライオンのぬいぐるみが転がっていることに気付き、わざと踏みつけてみた。「ぐえ」といった言葉が一切聞こえないのが、虚しい。
 ベッドに腰掛けると、そのまま体を後ろに倒した。左手を天井に向けて伸ばしてみる。包帯がまだ巻かれたままだ。あのときより痛みはひいたが、僅かな痛みが残っている。妹を傷つけたのだ。この程度は我慢しなければ…。
(…手段って……考えてみりゃ、今はもう浦原さんとかいねーのに、どうしろってんだよ、俺…)
 いや、何かを考えなければ、と一護は自分に言って聞かせた。
 眠くもないが、どうしたらいのか分からなくなって、瞼を閉じてみる――――。

 突如、体が宙に浮くような、若しくは沈んでいくような、妙な感覚が一護を襲った。
「っ!!??」
 目を開けて、驚愕した。周りが、真っ暗闇である。
「なっ………!?」
 足が地につかない。そもそも上も下もないような世界が、彼を包んでいたのだ。
 そして、一護を包むようにして、ある声が覆いかぶさってくる。
《久しぶりだなぁ………王よ》
「てめぇは……………!!」
 一護の視界が、真っ白に塗りつぶされた。

   *   *   *

 ん、と日番谷は訝しげに眉を顰めた。今は七緒は八番隊の仕事でいない代わりに、雛森が資料を探すのを手伝っていた。
「どうしたの、日番谷くん?」
「いや……虚圏≠ニは、関係ねぇけど…」
 日番谷が見つけた資料は、誰かの日記であった。一体何故そんなものが図書館の本の中に混じっていたのかは分からない。


Y年△月×日----

○現世にて虚が大量発生した。総隊長は隊首会を開かれた。初めは十二番隊の曳舟隊長がいらっしゃらなかったようであったが、隊首会の途中で転がり込んできたらしい。尸魂界でも虚が大量発生していることが明らかになったと。
私は隊長直々の命により、その大量発生した虚退治に奔走した。

○今回の虚は例外なく優れている。瞬歩に近い素早さを持つのがほとんどで苦戦を強いられたが、幾度か朽木隊長に助けていただいた。貴族だから緊張はしたものの、思いのほか優しかったので安心できた。そして強い。六番隊が専ら虚退治にまわされているというのは心強いものだ。ただ、そのあまりの強さに嫉妬したというのも、否定はできない。

○夜、総隊長が我々席官の死神を召集なさった。今度は現世の方の虚退治もしてこいという。私はその団体の指揮を担うこととなった。これで全ての虚の殲滅に成功すれば、隊長・副隊長になるのも夢ではないかもしれない。


Y年△月■日----

○現世へ発った。各々に退治の範囲内を設定した紙を配っていたので、皆現世へつくなり散ってくれた。最近は頭のいいやつが多くて助かる。何人かを組にしているので、恐らく怪我人も少なくて済むのではないかと思う。

○私の近くで虚を退治していたのは、八番隊第三席の矢胴丸リサであった。彼女はそれなりに腕もたつので役に立った。それに私と同じ席なので多少のコンビネーションもくむことができた。そういえばこちらに派遣されたメンバーは三席が多い気がする。副隊長一人くらい送ってくれればいいものを、というのは我儘にしかならないだろうか。

○とりあえず今日は四十匹を退治した。いくらなんでも多すぎる。だが明日になればきっと沢山の虚が再び出現しているだろう。これでは、出現の原点を叩かない限り、体力や時間を浪費しているだけではないのか?

Y年×月●日----

○やっと現世の駐在任務が終わりを告げた。我々は尸魂界へと戻った。久々の尸魂界は以前と全く変わっていなくて心底ほっとした。どうやらこちらの虚も六番隊と九番隊、十一番隊の活躍によって全て退治されたようだ。その後虚の出現は本来の量に減って、事件はこれにて幕を閉じた。宴会をやっている隊もあったし、私の隊もやっていたが、私はそういうのは苦手だ。そもそも酒を飲めない。自室に入って、一人、体を休めることにした。


Y年×月◇日----

○なんだか体がおかしい。ちょっと重い。心配になって卯ノ花隊長に診てもらったが、とくに悪いところはないと言われた。疲れか、はたまた虚との闘いによる傷が痛んでいるのか。隊長に伝えたら、今日は非番でいいと仰ってくださった。隊士思いの隊長でよかったと思う。感謝の念でいっぱいだ。

○昼、飯を食べたら気持ち悪くなって吐いた。そのときに、そういえば自分は席官から副隊長に上がれなかったなと思った。やはりそう簡単にはいかないらしい。そこで、矢胴丸が副隊長に就任したことを思い出した。私の方が力があるのに、一体これはどういうわけだ。納得がいかない。そう思った後、また吐いた。

○気分転換に、と縁側で桜を見つめていたら、志波先輩がいらっしゃった。彼は時々この隊舎に遊びにいらっしゃる。そして恐れ多いことに、いつも私に「体にいいと言われる何か」を持って来てくださる。おかげで、体の調子がよくなることも多々あった。ありがとうございました。

○志波先輩と少し言葉を交わして別れた後、私は再び寝床についた。そのとき、斬魄刀が突然折れてしまった。私は動揺してばかりいた。何故私がこのような目に遭うのだ。


X年◎月▼日----

○最近幾分体の調子がいい。ただ、斬魄刀はどうしたって元に戻らなかった。私の死神としての生活も、終わりか。


X年◎月○日----

○隊長に呼び出され、流魂街のはずれに出現した虚を倒してきてくれと頼まれた。現世からこちらに逃げてきたという特殊な虚だという。本来なら斬魄刀も折れている私には荷が重過ぎるはずなのだが、総隊長の直々のご命令とのことだったらしい。そういえば斬魄刀が折れたこと、総隊長に言うことを忘れていた。席官くらいでは滅多に顔を合わせられないので、「忘れていた」というと語弊があるか。「いえなかった」だろうか。

○何度か隊長が私を心配してくださったが、私にはまだとても得意な鬼道が残っている。身体も現在は健康そのものだし、今度こそ席官脱と思い、私は虚退治に出かけた。久々の瞬歩は新鮮だった。


X年◎月□日----

○どういうことか、虚が見つからない。テントを張って待っているのだが何処にもいない。霊圧も感じない。地獄蝶でそのことを隊長に伝えたが、返答は待機せよ、だった。一体どういうことなのだろうか。

○斬魄刀は現在浅打としている。ないよりはマシだろう。先ほど、鬼道も試しに使ってみた。今までどおり好調だ。さっさと虚を退治して、隊舎へ戻りたいものだ。


X年◎月×日----

○地獄蝶で伝達された内容は、三番隊に新しく鳳橋楼十郎(おおとりばしろうじゅうろう)が隊長として就任したというものだった。この頃隊長副隊長の入れ替わりが激しい気がする。護廷十三隊はこんなことで大丈夫なのだろうか。

○ところで虚は一向に姿を見せない。私はいつまでここにいるのだろう。あと一日様子をみて、それから隊長にまた連絡をさせていただこう。


X年◎月△日----

○死にたくない。



 日記はこれで終わっている。
 年は今より百五十年程前となっている。何より、最後のページが気になった。震えた文字で書かれた「死にたくない」だけで、あとは血だったと思われる黒い汚れが頁のべったりとついていた。
「なんか、不吉だね…」
 雛森は覗き込んで、自分の体を両手で抱きしめる。
 日番谷はそれを机の上に放った。
「これ、どうするの?」
「念のために出しとく。なんか気になるしな」
 頷いて、雛森も再び本棚に向かい合う。
「……日番谷くん」
 一冊本を取り出してパラパラと頁を捲り、同じ場所にしまいなおす。
 そんな彼女を見て、日番谷は「なんだ」と返す。
「今回のこと……藍染隊長と関係してるの?」
 沈黙。
 日番谷はかぶりを振る。
「まだ……何も分からねぇ」
「………そっか」
 日が既に大きく傾いている。もう何時間、この作業を続けているだろう。日番谷は振り返って机に歩み寄り、日記を手に取る。また最後の頁を捲って、少し考え込む。
 夕日が、図書館の中を照らした。
 その光が黒ずんだ汚れをも照らす。するとその汚れが、少し赤みを帯びているようにも見えた。


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