1








 湿地帯を睥睨する岸壁に、その城は佇んでいた。
 エリーザベトの故郷と大差ない、一般的な石造りの城である。しかし近づくにつれ、岸壁の上に大きな川が走っている事が明らかになった。川が滝となって湿地へ流れ落ちる、その境目に城が建てられているのである。
「……川の中だなんて、凄い場所にあるのね」
「麦を脱穀するには、水車があった方が便利だから。もう少ししたら皆で刈りに行くんじゃないかな」
 言われてみれば、一階部分は橋のように水を逃がす構造で組まれており、そのあちこちに水車が備え付けられていた。集会場の『呼び柱』と同じように大樹の化石を利用しているようで、丸太のような石材も多く目に入ってくる。
 麦の収穫を目的に建てられている為、他の季節では無人になるのかもしれない。城には目覚めたばかりの慌ただしい空気が流れていた。近隣から呼び集められた猫たちが水車の修理をしたり、壁に張り付いた厄介な蔓植物を払ったりしている。
 隊商と別れて城に向かう道すがら、メルツがあれこれと青髭公との思い出を語ってくれた。随分と可愛がってもらったらしく「僕、おじさまが母上のつがいになってくれたらいいなと思ってるんだ」とまで打ち明けてくれる。そんな彼の様子にエリーザベトもすっかり安心し、何となく彼に似た、優しげな風貌の猫を想像した。だからこそ城の扉が開き、問題の青髭公と対面した際には、すっかり怯んでしまったのである。
(大きい……)
 出迎えたのは肩幅のある、がっしりとした体格の猫だった。『青髭』の名の通り豊かな顎髭を持ち、猫にしては珍しく色味の鮮やかなガウンを羽織っている。髪色と同じ三角の耳は齧られたように先っぽがぎざぎざになっており、いかめしい顔つきと相まって、いかにも恐ろしげに見えた。彫りの深い顔立ちのせいで眼窩に暗い影が落ち、まるで隈のようにみえる。
「おじ様!ご無沙汰しておりました!」
「メル」
 しかしメルツが明るい声で駆け寄ると、公の眉間の皺はすっと薄れ、古い鐘のような重々しく響く声で名を呼んだ。彼は同じ高さまで腰を下ろすとメルツの手を取り、祈るように目を閉じて額を押し当てる。その動作からも彼がいかにメルツと親しいか察せられた。
「突然どうしたんだ。テレーゼは?」
 公の目が、ちら、とエリーザベトを見る。怖くて仕方なかったが澄ました顔で視線を受け止めていると、メルツがこれまでの経緯を説明してくれた。エリーザベトが雛鳥だと聞くと、青髭公は微かに顔をしかめた。
「僕も初めての渡りで土地勘がなくて、おじ様の縄張りが近いと気付きませんでした。もしかして、最初に見かけた東の狼煙はおじ様のものでしたか?」
「いや、恐らくそれは組合の猫たちだろう。こちらでも船が襲われた事は騒ぎになっていたのだ。様子を窺う為に近辺に集まっていたに違いない」
「そうでしたか。宜しかったらお力添えを願いたいのですが――」
「分かっている。こちらでも情報は集めている最中だから、安心なさい。知らせが入ったら城まで使いを送るよう、各縄張りに言っておいたのだ。しかし君たち親子が渡りに加わっていたとは……いや、私に言えば止められると思って、テレーゼはわざと知らせなかったのだろう。らしい事だ」
 青髭公は苦く溜め息を吐くと、片手でこめかみを擦った。メルツは母の事を言われ、居心地が悪そうに無言で尾を揺らす。
「……では、そちらがヴィッテン家のご息女か」
 青髭公はようやく真正面からエリーザベトを見た。眼光の鋭さに押されながら、エリーザベトは頭巾を下ろして猫の耳がない事を示すと、ドレスを摘み上げて礼をする。うなじのあたりにぴりぴりと相手の視線を感じた。
「はい。エリーザベトと申します」
「……慣れぬ旅で疲れただろう。ひとまず二人とも中で休むといい。ついてきなさい」
 青髭公は手短に労いの言葉を述べると、先に立って城の中へ戻っていく。エリーザベトの事をどう思ったのか彼の態度からは読み取れなかったが、客人としてもてなす意志はあるらしく、案内するのは二階の客間のようだった。広間の中央に据えられた大階段を上がっていくと、使用人や滞在客が忙しそうに歩いているのが目に入ってくる。かなりの人数が城に滞在しているようで、エリーザベトとメルツを見ると不思議そうな顔をしながらも足早に通り過ぎていった。青髭公は途中で侍女の一人を引き止めてエリーザベトの側付きになるように言いつけると、階段を上がって左手の部屋を指し示す。
「この部屋を使いなさい。場内には猫ばかりだが、私が皆に話しておく。鳥である事を隠す必要はないだろう」
 侍女が扉を開け、中に入るように促した。メルツは別の部屋を宛がわれるらしく、じゃあね、と言うように片手を上げて目配せする。
 初めての場所で彼と離れ離れにされるのは不安だったが、野営とは違うのだ。雄の子と同室になりたいと言うのは、さすがにはしたなく思われるだろう。エリーザベトは戸惑いながらも扉を潜り、客間へと踏み込んだ。二人の足音が後ろで遠ざかっていく。
 部屋の中はよく整えられていた。天井はやや低く、どこからともなく城の足元を流れる水のせせらぎが聞こえてくる。窓は城の中庭に面しており、雑多な茂みに覆われた果樹の木立や石造りのベンチなどが見えた。部屋の左手には天蓋のついた寝台があり、反対側の壁には化粧台が置かれている。
 猫の好みなのか天井がやや低めだが、それを除けばごく普通の客間だった。旅で汚れた外套を脱いで埃を払おうとすると、侍女が「こちらで洗濯しますよ」と親切に請け負ってくれる。灰色の縞猫で、笑顔になると八重歯が零れる愛嬌のある娘だった。
「良かったら今のお召し物も洗いますよ。お風呂の準備もありますから、そちらで脱いでもらって、少しさっぱりされては?」
 ありがたい提案にエリーザベトの心は弾んだ。浴室は一階にあり、背中を流すという侍女の申し出を断って――いくら貴族で身の回りを世話されるのに慣れているとはいえ、翼を見せるのがタブーである以上、浴室に他人を入れる風習はない――脱いだドレスだけを扉の隙間から手渡すと、エリーザベトは白い石で組まれたタイルの上を裸足で歩いた。湯加減を確かめてから身を沈めると、心地よさに全身がとろけてしまう気がする。
(気持ちいい……水浴びだってできなかったもの……)
 備え付けの棚には石鹸や香油の壜が並べられていたが、どれを使えばいいのか分からず、いちいちラベルを見て内容を確かめなければならなかったが、エリーザベトにはそれも楽しかった。埃まみれの髪を洗い、様々な角度で羽根を広げ、隙間まで汚れを洗い流す。
 ほかほかのタオルで水気を拭い、脱衣所に出ると、着替えが籠に入って置いてあるのを見つけた。羽根を通す服がなかったのか、用意されているのは肩紐で吊り下げる夏用の黄色いドレスだったが、剥き出しの肩を温める為に厚手の肩掛けも添えられている。柔らかな白綿が編みこまれたもので、襟を留めるための大きな貝釦が三つ縫い止められていた。ドレスのお尻のところには尻尾を通す為の切り込みが取られていたが、今はエリーザベトの為に縫い付けられている。
「まあ、丈が合って良かったわ。雌の子猫の服は行商用に買い置きしていたものしかないって、随分慌てたものですから」
 侍女はそう言って喜んだが、翼が気になっているようで、時折ちらちらと背中に視線を感じた。
「あの、猫は群れを作らないと聞きました。それなのにどうして伯爵様のお城には他の猫が集まって、彼にお仕えしているのですか?」
「それはですね、彼が並外れて広い縄張りをお持ちになっているからですわ。集会場を収める立場上、様々な猫が城へやってきて、彼から助言を貰います。だからこそ皆に敬われているのです。それに今は水麦の収穫に人手が必要ですし、手伝いに参加すればそのぶんの報酬が約束されていますから、出稼ぎとして集まっている猫も多いですね。私たちのような使用人は元は彼の親族で、独り立ちした後も一族の土地に関わる手伝いをしようと、こうして自分に合った仕事を受け持っているんですよ。雌の雛鳥のお世話をするなんていう、他では経験できないような仕事もできますし」
 彼女はエリーザベトのずれた肩掛けの位置を直すと、再び二階の客間に戻る付き添いをしてくれた。入浴を楽しんでいる間に部屋へ手を入れたようで、テーブルには水差しの他、花瓶などの調度品が増えている。
「お食事は私が部屋まで運びますから、しばらく自由に過ごして下さって結構ですよ。先程お預かりした服は明日にでも乾くでしょうから、その時にお持ちしますね」
「あ、そうだわ、メルの部屋はどこですか?」
「何か御用が?」
「……改めてお礼を言おうと思って」
「まあ、そうでしたか。メルツ様のお部屋は更に奥の間になりますが、先程のご様子を見ると、今は城主様とお話されている最中でしょうから……しばらくは休まれた方が良いと思いますよ」
 念を押すように微笑むと、侍女は部屋を出て行った。エリーザベトがそっと扉を開け、隙間から廊下を伺うと、立ち去る侍女の後姿とは別に、扉のすぐ側に他の侍女が立っているのが見えた。
(……なんだか見張られてるみたい)
 警戒されているのだろうか。それとも、単に不便がないように取り計らってくれているのだろうか。どちらにせよ軽々と外に出るのは難しい雰囲気だ。
 エリーザベトは扉を閉め、ぽすんと寝台に腰掛ける。身奇麗になってさっぱりしたせいで眠くなっていた。久々に人目のないところで日光浴をしたい気持ちもあったが、風呂に入って身体をほぐしたせいで疲れが出てきたのだろう。特に他にする事もなかったので、侍女の勧めに従い、少し昼寝する事にした。
 柔らかい布団は素晴らしかった。あっという間に瞼が重くなる。泥のような疲れが手足から抜け出して、ふわふかとした敷布団に吸い込まれていくようだった。
(今度は伯爵様が、南里まで馬車を出して下さるのかしら……)
 そうなると、いつまた寝台で眠れるのは分からない。エリーザベトは枕に頬擦りをし、至福の時を過ごした。


前 |




TopMainMarchen




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -