夢を見ていた。故郷で暮らしていた頃の夢だ。エリーザベトは手を繋いでワルターと廊下を歩いている。これから兄が七階の植物園で歌を披露すると言うのだ。こっそり覗きましょう、きっとお兄様は私が聞いていると分かったら機嫌を悪くなさるわ、とエリーザベトが言うと、ワルターは重々しく首を振り、いけません、そんな盗人のような事をなさっては天罰が下りますよ、と答える。塔をぐるぐる上って行くと、右手にある部屋の扉が開き、甲高い女の子の声で「そんなところに行くなんて馬鹿よ!」と叫ぶのが聞こえた。見ると、扉の隙間から空に浮かんでいる砂船が見える。制止するワルターに構わず中に入ると、そこはもう断崖だ。たくさんの乗客に埋もれながら、砂船の甲板でメルツが尾を立て「ここからなら歌もよく聞こえるよ!」とエリーザベトを誘う。そんなとこまで飛べないわ、それに人前で翼を見せるのはとっても恥ずかしい事なのよ、と叫ぶと、メルツは驚いた顔で「だけど、もう飛べてるよ」とエリーザベトの背を指差す――。
 背中を見ようとしたところで、実際に体が動いてしまったのだろう。滅多にしない寝返りに、折り畳まれていた翼が床に挟まれて悲鳴を上げた。眠りから覚めたエリーザベトは自分が今どこにいるのか分からず、寝ぼけながら何とか記憶を手繰り寄せる。
(船から落ちて、メルと、塚山に……へんてこな石像もあって……)
 隣を見ると、いつの間にかメルツの寝床が空になっていた。どこに行ってしまったのだろうと姿を探すと、真っ暗闇の中にぼんやりと白い尾が浮かび上がってくる。どうやら出入り口から池の方を眺めているようだ。
「メル……?」
 もう朝なのかと問う前に、静かに、と彼が指を立てる。切迫した眼差しに夢の名残はたちどころに遠ざかり、異常を察してエリーザベトも飛び起きた。
 焚き火は寝入る際に消されたままのようで、魔物避けの香が赤い点となって灯っている他は何も見えない。しかしメルツの輪郭を縁取る出入り口からの淡い光が糸口となり、次第に周囲の様子が分かってきた。
 メルツは周囲の様子を観察しながらしゃがみこみ、地面に耳を押し付けている。何を聞きつけたのか見る見るうちに尾が根元から倍以上に膨らんでいき、エリーザベトはぎこちなく彼の隣まで歩み寄ると壁に手を掛け、そっと外の様子を覗き込んだ。
 明り取りの穴から斜めに差し込む月明かり。壁には相変わらず美しい光が乱反射している。風のない室内でイユキの実が重たげに垂れ、葉はざわめく事なく沈黙し、ぴちゃんと音を立てるのは、夜露で天井に溜まった雫が湖面を叩く音。
 光の量を除けば、昼間とそう変わらない光景。異質なのは、塚山の入り口から通路を下り、何かが――池を目指してやってくる気配がする点。
 石畳の床だというのに、足音らしい足音はしなかった。濡れた袋を引きずるような、べちゃべちゃと形容しがたい音だけが響いている。気配は緩慢に、ゆっくりと、しかし着実に近付きつつあった。メルツの尾が警戒で逆立ち、耳も後ろに引き倒して、今にも千切れてしまいそうに見える。彼はここまで近付くと意味がないと悟ったのか、香炉の上に布を被せて赤い火を覆い隠した。エリーザベトは胸の前でぎゅっと両手を握り締める。
(魔物……でも香が炊いてあったのにどうして……?)
 まさか、メルツが調香を誤ったのだろうか。
 べちょべちょとした音は廊下の半ばを過ぎた頃、小休止というように一度立ち止まり、再び歩き出した。その物音からも素早い生き物ではない事が察せられる。逃げるのなら今のうちかもしれない――しかし小部屋から出て塚山から脱出するとなると、どちらにせよ同じ通路を通らなければならなくなる。じっと耳をそば立てているメルツの様子からも、鉢合わせするくらいなら隠れてやり過ごすべきだと判断している事が伺えた。
 じりじりと火に炙られるように時間が進む。ようやく通路から姿を現したものを見て、エリーザベトはその場で凍りついた。
 それは大型の――足の生えた蛇に見えた。
 大樹ほどの太さがある細長い胴体、樹液を思わせる粘膜に覆われた鱗、しゅうしゅうと聞こえる呼吸音。しかし平べったい顔や、首周りには大きなエラが突き出している部分は魚に近い。四本の足は鱗に覆われていたが鋭い鉤爪を持っているらしく、床を蹴る耳障りな音も聞こえてきた。しかし足は補助的な役割のようで、前進する為には身をくねらせながら腹を擦るようにするしかないらしい。
 魔物はぎこちなく床を這い進んでいたが、池の畔に立つと鎌首を下げ、滑るように湖面へ潜っていった。水面が泡立ち、一瞬だけ夜の静寂が戻ってくる。しかし間を置かずして再び水面が割れ、魔物は平べったい頭を突き出すと、優雅に池の中央へ泳ぎ始めた。
「水の魔物だ……僕も初めて見る」
 メルツが小声で囁く。
「普段は水中に住んでいるから鼻が退化して、香が効かないんだ。その代わり目も耳も悪いし、動きも鈍いはずだから、そう危険はないけれど……まさかここが巣だなんて」
 メルツは唇を引き結びながら語尾を掠れさせた。自分の見立てが甘かった事を悔やむように、石の床に浅く爪を立てる。彼は用心深く腰からナイフを抜き取ると、身を屈めて魔物の動きを追い始めた。エリーザベトは胸元を抑えながら尋ねる。
「……見つかったら、やっぱり食べられちゃうの?」
 メルツは答えなかったが、その沈黙が何よりも雄弁だった。エリーザベトを怖がらせたくはないが、嘘も言えない。そんな誠実な沈黙。
「……じっと隠れていれば、大丈夫。でも何かあったら走り出せるように準備だけしておいて」
 それだけ言って身を屈めるよう手振りで示すと、自分も壁を背にして座り込む。それでも耳を後ろに向け、絶えず横目で魔物の姿を確認していた。
(どうしよう、怖い……)
 エリーザベトは物音を立てないよう身を硬くさせ、ぎゅっと膝を抱え込む。早くなる心臓の音が小部屋の外に漏れ出ていないか心配になった。翼がケープに擦れるかさかさとした乾いた音も、魔物をおびき寄せはしないかと。
 小部屋の扉がなくなっている事が惜しまれる。もし扉があったなら、全てを締め出して眠っていられたのに。
 水の魔物は湖面の中央まで泳ぎ切ると、身を捩じらせて己の胴体を啄ばみ始めていた。塚山の外で地面を這いずってきたらしく、時折ばしゃりと大きく波を起こし、泥にまみれた全身を洗い流している。
 あれも、魔物なりの身繕いなのだろうか。このまま自分の事に夢中になって、私たちに気付かないといいのに――。
 ふとエリーザベトは故郷で習った歌を思い出し、悔しげに唇を噛んだ。簡単な目くらましの歌があったではないか、と思い出したからである。結界と呼べるほど強力な歌ではなく、僅かばかり人目につく事を避ける雛向けの歌だが、少なくとも気休め程度の効果はあったはずだ。今となっては意味がない。メルに頼りっきりになってこんな大切な事を忘れていただなんて、翼を見られたり果物に直接噛り付いたりするよりもずっと恥ずかしい事だとエリーザベトは顔を歪めた。
 その表情を見て、怖がっていると思ったのだろう。隣に座っているメルツが励ますように白い尾でエリーザベトの腕をふんわりと撫でた。視線を向けると、大丈夫だよと言うように目配せしてくれる。
 彼だって香の効かない魔物が相手で恐ろしいだろうに。尻尾だって、まだぶわぶわに膨らんだままなのに。
(メル、違うの。怖いのは勿論だけど、私、自分が情けないのよ)
 声を出していいのなら、そう言いたかった。自分はこんなに役立たずなのだと打ち明けたかった。誤解を解く事もできず、唇を噛んだまま手の甲に触れる白い尾をそっと握り返すと、それでいいと言うようにメルツが優しく頷いたのが見えて、エリーザベトはますます惨めになる。
 魔物の水浴びは長く、優雅ですらあった。不格好に床を這っていたのが嘘のように動作が素早い。もし池に近付けば、瞬く間に捕らえられて水の中に引きずり込まれてしまうだろうと容易に想像できる。しばらくすると魔物は身繕いに満足したのか笛のような鳴き声を上げ、首を池の畔へと乗り上げさせた。ぐううう、と唸り――次いで、何かを吐き出す。
 エリーザベトには見えなかったが、夜目に強いメルツの目には、それが魔物が胃袋に溜めていた獲物の骨を吐き出したのだと分かった。魔物は吐き出したものを前足で払いのけるような仕草をしながらも――おそらく自分の巣を汚したくないのだろう――食べられる部分がないかと未練がましく頭部を残飯の山に突っ込んでいる。まだ腹が減っているのだ。
 二人はじっと時間が過ぎるのを待つ。しかし無言の中でもエリーザベトはメルツの尾を両手で握り締めながら、今からでも小声で目くらましの歌が歌えないか必死に譜面を思い出している最中だったし、メルツもメルツで初めて見る魔物の様子を観察する事に忙しかった。魔物はがさがさと食い残しを漁っており、気味の悪い咀嚼音が周囲の物音を掻き消すように満たしている。
 その為、空気の匂いが変わった事に二人が気付いたのは、しばらく経ってから。池から立ち上る冷気が単なる寒さだけではなく、目に見えるほど白く濁ってからだった。
 メルツは鼻先をくんと動かし、訝しげに腰を上げる。彼は片膝をついて上方の空気を嗅いだ途端、びくっと肩を跳ねさせて右腕で鼻先を覆った。その仕草に釣られ、エリーザベトも顔を上げる。
(……何かしら、この匂い)
 先程までにはなかった、甘い匂いがしていた。不快なものではなく、香り袋を一斉に開いたような渾然とした匂いである。しかし肺まで吸い込んで正体を探ろうとすると塩気を含んだ生臭さが芽生え、鼻の奥にぴりぴりと刺激が走る。
「エリーザベト、あまり嗅いじゃ駄目だ。どこかに他の猫がいる」
 小声で鋭く警告し、メルツが立ち上がる。両手から尾が抜け、代わりに手首を引っ張られた。匂いを避けるように小部屋の奥へと招かれる。
「他の猫?」
「ああ、やっぱり誰かの縄張りだったんだ。この匂い、普通の魔物除けの香じゃない。あまり嗅いだらよくない気がする。もしかしたら、あの魔物を巣から炙り出すつもりなのかもしれない。きっと僕らにも気付いていないんだ」
「まさか……毒なの?」
 メルツはすぐには答えず、険しい顔で押し黙った。
「いや……毒、ではないと思う。毒にしては香に塩気が多いから。でも、あまり浴びない方がいい。鼻を押さえて、できるだけ体を低くしていよう」
 魔物は鼻が効かないせいか、全く意に介さず残飯を漁り続けている。その間にも匂いは塚山の中に充満し、煙のように目に映るものへと変化していった。低い方へと流れてくるせいで、池の周囲は霧が立ち込めたように白く霞み始めている。最初こそ果樹の甘い香りがしていたが、それは濃さを増すと臭気と呼べるほど不快なものに様変わりしていた。二人は部屋の奥まで後退し、石像の隙間に身を潜めたが、やがてそれも耐え難いほど強烈なものになり、息苦しさで頭痛がしてくる。嗅覚の鋭いメルツは辛そうに口元を押さえ、すっかり青ざめていた。
(……大丈夫かしら)
 幸い、エリーザベトには顕著な効果は現れていない。少し頭が痛み、何となく手足がだるいような気がしたが、その程度だ。
 このまま隠れていれば魔物には見つからないだろう。メルツが毒ではないと判断した以上、死に至るような悪質なものではないはずだ。しかし青ざめて今にも倒れそうになっている彼に、このまま耐えろと言うのは酷な話である。魔物に見つかる危険を犯しても、ここから出ないといけないのかもしれない。
 しかし例え小部屋を飛び出したとしても、煙は既に湖面を覆っている。臭気はここの倍以上はあるだろう。そんな中、突っ切って走れるものだろうか。
(そうだ、風呼びの歌!)
 閃いた考えに、エリーザベトは目の前が明るくなった。急いでメルツの袖を引き、振り向いた彼に耳打ちする。
「メル、塚山から出ましょう」
「え?」
「魔物はまだ池の中だもの。今なら煙で私たちの姿も隠せるし、あの魔物は水から上がると遅くなるから、壁沿いに走っていけば見つかってもすぐには追いつかれないわ。このままここに隠れていたら、きっと匂いでやられちゃう。私、少しだけれど歌で風を呼べるの。それで匂いごと空気を吹き払うから、その間に真っ直ぐ走ればいいわ」
 メルツは内容を理解すると不安そうに目を瞬かせ、どちらが危険か天秤にかけているようだった。臭気が強烈だといっても大事に至らないと分かっているせいか、そこまで危機感はないらしい。自分ひとりが鼻を押さえて堪えていればいいのだと彼の目が語っていた。
 互いを探りあうような沈黙。出会った時ですら、こんなふうに見つめられた事はなかったのに。
「……自信はあるね?」
 メルツは念を押すように尋ねた。優しげな風貌なのに、荒野で生き抜く猫の性質なのか、物静かな口調が一時の感情に流されて勝算のない事に賭けはしないのだと示している。もし歌への過信とメルツへの同情だけで提案したのなら褒められた事ではない、身を危険に晒してまで遣り遂げる自信があっての事だろうか、と彼は問いたいのだった。
 その思いがけない鋭さにエリーザベトは一瞬怯んだが、もう一度よく考えてから、深く頷き返す。
「大丈夫。風呼びの歌は発動が早いし、何度もやった事があるから失敗しないわ。私たちが途中で転んだりしない限り、魔物に見つかっても追いつかれないと思うの」
「……分かった。君に任せるよ」
 メルツは柔らかく息を吐くと、慎重に香炉の火を消して肩に提げた。早くも行動に移るのが潔い。エリーザベトはぶるりと翼の付け根を武者震いさせ、彼の信頼に応えようと表情を引き締めた。





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