音の反響から、塚山の中は思った以上に広い事が分かった。
 天井はあまり高くないが、その代わり、かなり奥まで広がっているらしい。
 夕日が差し込む出入り口付近は、いわゆる玄関広間のような空間になっていた。元は絵盤を嵌めていたらしい壁の窪みや、明かりを入れる為の窓、天井を食い破っている月桂樹の根の他はがらんとしており、住人を失くしてから長い年月を経ているのだと無言のうちに物語っている。
 しかし幸運と言うべきか、生え揃った苔や外から吹き込んだ落ち葉のおかげで、床は柔らかく乾いていた。絨毯のような心地よい感触に、歩き疲れていたエリーザベトは内心で大喜びする。外で寝るよりも格段に快適そうだった。
「メル、どこまで入っていい?」
 すっかり彼の先導に頼って振り返ると、メルツは張り詰めた顔で耳を立てている。
「……どうだろう。何だか変わった匂いがするんだ。もしかしたら少し前に誰かいたのかもしれない」
 彼の緊張が伝わり、エリーザベトもケープの下で翼を強張らせた。休憩場所にぴったりだと浮かれていた自分が愚かに思える。夜盗に襲われた時の記憶が蘇り、産毛がざわざわと逆立った。
「でも……あっちからは水の匂いもするよ。少し見てみようか。飲み水があれば助かるものね」
 エリーザベトを必要以上に怯えさせた事に気付いたのか、メルツがすぐに表情を緩め、何でもないように塚山の奥を指差した。明るいその口調は頼もしかったが、わんわんと声を反響させていく空間の広がりには不安を増長させるものがある。
「……大丈夫?」
「少なくとも、今は誰もいないと思うよ。変な匂いって言っても随分薄くなっているからね。でも、用心して行こう」
 足元に気をつけてと言い添えると、彼は先に立って歩き始めた。崩れた天井の隙間から零れた丸い光が、メルツの白い毛並みの上をするすると滑っていく。エリーザベトはそれに励まされ、小走りに彼の後に続いた。
 塚山の内部は枯れた蔓草で覆われていたが、よく見れば、壁は丸い柱を隙間なく並べて作っているのが分かる。まるで丸太を何本も整列させたような作りだ。外壁は確かに四角い切石を積み重ねたものだったが、内側は丸い柱で構成されているらしい。見た事もない建築様式だ。
「……この塚山って、猫の遺跡なの?」
 声を潜めてエリーザベトが尋ねると、メルツが右の耳だけを向けた。
「ううん、きっと《数え足》だよ。猫はこんな建て方をしないもの」
 先史時代の種族の名前を出され、エリーザベトは成る程と頷く。見慣れない建物の様子にメルツが警戒するのも最もだった。《数え足》とは文献にもほとんど残っていない古い種族で、鳥のような翼もなければ猫のような耳と尾もなく、その足だけで世界のありとあらゆる物を数えて回り、数えた物を支配する術を持っていたと言う。荒野のあちこちには《数え足》の遺跡が残っていると聞いていたが、まさか自分がその中に入るとは思っても見なかった。柱が乱立する廊下を歩いていると、まるで獣の体内に入り込んでしまったような気分がする。丸味を帯びた壁が人工物ではなくて、柔らかい生き物の腸のように見えるからだろうか。
 歩き出して間もなく、床は緩やかに傾斜し始めた。どうやら半地下のような空間が存在するらしい。どうして《数え足》は階段じゃなくて長い坂みたいな廊下を作ったのかしら、とエリーザベトは不思議に思った。次第に薄暗くなっていくのが心細く、右手をしっかりと丸い壁に押し当てながら坂を下っていく。やがて足元が闇に飲まれ、前を歩くメルツの白い尾すら見えにくくなった。手を繋いで欲しいと頼もうか悩み始めた時、すとんと両脇の壁がなくなる。
 最初に分かったのは、漂う水の匂いと空気の暖かさ。地下に留まっていた昼間の熱が湿った苔と石の匂いを際立たせ――それから薄いベールを剥いでいように、ぼんやりと周囲の様子が見えてくる。
 向かいの壁が見えないほど広い空間に、青々とした水が湛えられていた。薄闇を追い払う浮世離れした美しさだ。明り取りの穴が天井近くに等間隔でくり抜かれ、そこから差し込む光が湖面に乱反射し、ゆらゆらと壁一面に鱗のような複雑な模様を描き出す。床は水際を境に剥き出しの土に変わり、すり鉢状に広がる池の周りを石畳が縁取るように取り囲んでいた。
「凄いわ!どうして建物の中に池があるのかしら?」
 エリーザベトは感嘆の声を上げ、ひたひたと音を立てる水際へ近付いた。手前は浅く、底に沈んでいる岩が透き通って見えたが、進むにつれて濃い碧色になり、奥は境界が分からないほど宵闇の中へと溶け込んでいる。
「きっと地底湖だよ。元は《数え足》の神殿だったのかもしれないね。とても凝った作りだから」
 メルツは壁に目を向けた。エリーザベトにはよく見えなかったが、丸い柱は上部に彫刻を施された豪奢なものに変わっている。神殿でなくとも、何かしら重要な意味を持つ空間に違いなかった。
「……何だ、さっきの匂いはこれだったんだ」
 メルツが気の抜けたように池の端に歩み寄る。石床の隙間からは灰色の茂みが群生しており、その中に背の低い樹木が混じっていた。葉の落ちた枝に、明り取りの穴から零れ落ちる僅かな光を拾って育った黄色い実をぶら下げている。
「メルが変な匂いがするって言ってたのは、これなの?」
「うん、イユキの実。水と茂みの匂いと混じってたせいかな。いつもより鋭くて、ちくちくした感じがしたんだ」
 メルツはそれを二つもぎ取ると、今夜の夕飯にしようと言って池の水に浸した。表面についた砂を洗い流すと、一つを自分で齧った後、エリーザベトにも一つ差し出す。
(歯を立てて果物を齧るなんて、はしたなくはないかしら?)
 故郷にいた頃は決して許されなかった事だ。エリーザベトは戸惑ったが、皮を剥くような小刀も持っていない。きっと猫はこうした作法も気にしないのだろう。メルツの好意を無駄にする訳にもいかない。見よう見まねでイユキの実を唇に寄せ、目を瞑って噛り付く。
 歯を沈めた途端、柔らかい肉厚な実はじゅるりと果汁を溢れさせた。零れないように慌てて吸い上げたエリーザベトは次の瞬間、目を白黒させる。
 甘い。甘いが、口の中に違和感が。
「……美味しいけれど、何だか、いがいがするわ……」
「ふふ、ちょっと怖いよね。柔らかい針があるみたいで。でも体にいいんだよ。種になるまでは、そうして刺激を出して実を動物に食べられないようにしてるんだって。口ざわりはあまり良くないけど、結構お腹にたまるんだ」
 果汁を零さないよう器用に実を回しながらメルツが目を細めた。口の中が変な感じだが、エリーザベトもドレスを汚さないよう気をつけながら慎重に齧りつく。一つ食べ終えるとすっかり手がべとべとになってしまった。エリーザベトが池の水で手を洗っている間、匂いの正体が分かって安堵したらしいメルツが尾を軽く揺らしながら機嫌よくイユキの実を収穫し、軽々と両手に抱え込む。
 次に二人は池の周りを調べてみる事にした。湖面は鏡のように滑らかで、水際を歩く二人の姿を逆さに写し取っている。天井から滴る水滴が波紋を作り、光と交じり合って静謐な空気に控えめな揺れを生み出した。
「魚はいるのかしら?」
「いるんじゃないかな。でも随分深いみたいだから、隠れて出てこないかもしれない」
 ぐるりと一回りすると、池の大きさは砂船の甲板と同じくらいだと分かった。かなり大きい。東側には扉のなくなった小部屋があり、丸みを帯びた円柱状の石像がみっしりと並べられていた。ここが神殿だとすれば祭具室か何かなのかもしれない。石像がやや滑稽だと言う事を除けば何の変哲もない部屋だった。遺跡のものは不用意に触らない方がいいとメルツは言ったが、調べ終えて何の異常もないと分かると、ここを今夜の寝床にできないかな、と考え出す。
「寝泊りするなら池の近くがいいけど、吹きさらしの場所じゃ落ち着かないでしょう?ここなら一応、部屋の中だから壁もあるし……」
 でもこれが気になるよね、と彼はぎこちなく背後に並ぶ石像を振り仰いだ。エリーザベトも自分の身長の倍はありそうなそれを見上げる。上部には目や鼻のような穴が掘り込まれているが、磨耗して磨り減ったそれは周囲の壁を構成していた柱とそう変わらない。それどころか雨の翌朝に生えてきたキノコの群生のような、どことなくユーモラスな眺めだった。
「ううん、そんなに不気味じゃないわ。座る時に寄りかかれて便利かも。それにしても何の像なのかしら。上の方に目みたいな穴があるけれど、もしかしてこれが《数え足》?」
「どうなのかなぁ。だとしたら、ずいぶん寸胴な種族だったんだね」
 二人は首を捻ったが、すっかり安全を確認した後とあっては石像もどことなく親しげなものに思えてくる。出入り口の扉が失われている事が残念だったが、それを除けば寝泊りするにはちょうど良い空間だった。池から近いので水汲みに適している上、夜になって立ち上る湖面の冷気からも壁で仕切られている。
 二人は玄関広間に戻り、乾いた落ち葉を掻き集めて石像の小部屋まで運ぶと、足を丸めて全身が収まる程度のこじんまりとした寝床を二つ作った。更に香炉を床に置いて固定すると、小さな焚き火を作る。メルツは相変わらず手際が良かったが、歩き疲れていたエリーザベトは落ち葉を掻き集めるのが精一杯で、ろくに手伝えなかった。気がついたらすっかり用意が終わっていて、私とメルでは時間の進み具合が違うんじゃないかしら、と本気で疑ったほどだ。
「ごめんね。私、全然役に立っていないわ……」
 ふくらはぎが熱を持ったようにじんじんしている。石像に背中を預け、膝を抱える腕に力を込めながら謝ると、メルツは小枝で焚き木をいじりながら首を振った。
「気にしないで。たまたま僕の方が得意だっただけじゃないか」
「でも……」
「それなら何か歌ってみて欲しいな。船でだって、いつも誰か歌っていたでしょ?」
 気になってたんだとメルツは声を弾ませた。エリーザベトは船首で淡々と歌っていた兄の姿を思い出す。ふと、随分遠くに来てしまったな、と感じた。感傷を振り払うように軽く首を振る。
「でも、あれは帆に歌を絡ませる為に一族の中でも位の高い人がやるの……だから私、あの歌は無理だわ」
「勿論、別のものでもいいんだよ。君の歌が聞きたいだけだから」
 メルツは重ねて言った。求められるのは嬉しいが、人前で歌う事に慣れていないエリーザベトにはそれも容易い事ではない。頬に熱が集まる。せっかくメルに頼まれたのだから、途中で噛んだりしないよう、歌い慣れているものがいい。悩んだ末、エリーザベトは初めて自分で譜面を書いた曲を選び、唇に乗せた。
 初めはそっと、それから徐々に大きく。
 緊張で喉が震えたが、それも最初の二小節を過ぎる頃にはすっかり直り、部屋に木霊する自分の声と、ちょっと目を丸くして感心しているようなメルツの表情と、寝床の為に重ねた落ち葉が足の下でかさかさ気持ちの良い音を立てている事しか気にならなくなった。故郷で歌った時よりも上手く歌えている気がする。軽く左右に体を揺らしてみると、自分が振り子になって旋律と一緒に音を刻んでいるように感じた。メルツの大きな耳が動き、エリーザベトの声をなぞるように尻尾を揺らすたびに腹の底が熱くなって、泉の底から空を覗くように、頭のてっぺんから歌が抜け出ていく感覚がある。
 ところが歌の終わりで、メルツがぎょっと目を剥いた。彼にしては珍しく子猫らしい仕草だったので、エリーザベトの集中力も途切れ、歌の結びが中途半端になってしまう。
(何かあったのかしら?)
 彼の目線を辿ると、そこには二人の胃に収まるべく、水際からメルツが採ってきた黄色い実が六つ並んでいた。その丸い輪郭の中で唯一落ち窪んでいる部分――茶色い芯の部分が歌の効果を受け、にょろりと二倍ほど太くなっている。それはエリーザベトの歌に合わせて身を悶えさせ、にょこにょこと不思議な動きで伸びていき、意地悪な子供がタイミングよく舌を突き出すように、最後に申し訳程度の芽をぱかりと開かせたのだ。
 そのなんとも間抜けな光景に、メルツは咄嗟に口元を押さえたものの、堪えきれずに吹き出す。
「――あははっ、すごい、何だろう、ふふっ、ごめん、凄いんだけど、何だかおもしろくて!」
 ぱっと花が咲いたような、開けっぴろげな笑い方だった。エリーザベトは変な効果が出てしまって恥ずかしかったが、小刻みに肩を震えさせているメルツを前に不機嫌な顔を保つもの難しく、結局は一緒に笑ってしまう。
「やだ、ひどいわ、そんなに笑うなんて!」
「ごめんごめん、でも、君だって笑ってるじゃないか。鳥の歌って、自分で何も考えなくてもこんなふうに効果が出るの?」
 ひとしきり笑うと、水浴びをした後のように晴れ晴れとした気持ちになった。屋根のあるところで休めるという安心感や、焚き火がもたらす橙色の温もりが、突然二人の上に振ってきたかのように。
「これ、育たないうちに食べちゃおう。種にまでなったら、硬くて歯が立たなくなるもの」
 目尻を拭いながらメルツが言い、二人は引き続きくすくす笑いながら食事を取った。芽吹いてしまった果実は確かに少し硬くなっていたものの、いがいがした触感が薄れてかえって食べやすくなっており、エリーザベトは我ながら上手く歌えて良かったと嬉しくなる。肉厚なイユキの実を三つと、メルツが外套から出してくれた堅パンを食べる頃には満腹になり、二人はそれぞれの寝床に入って手足を丸めた。
 横になりながら、明日も狼煙の方角に進もうとだけ相談する。砂船の行く末も話題に上がったが、笑い合って満腹になり、気分が良かったせいもあって悲観的な考えは浮かばず、早く皆のところに帰りたいと想像を巡らせる程度で済んだ。メルツは食料の残量を気にしているらしく、明日も採れるだけイユキの実を収穫していこうと言って、寝転がりながら外套の中身を整理をしている。
 もう少し相談したかったが、歩き詰めで疲れていた事もあり、次第に眠気が忍び込んできた。会話もぽつぽつと途切れがちになり、瞼がお互いを恋い慕うようにくっつこうとする。エリーザベトが襲いくる睡魔と闘っていると、ふとメルツが思い出したように寝床から這い出す気配がした。何だろうとぼんやり目を開けると、石像に背中を預けて座り込み、ゆっくりと毛繕いしている様子が目に入ってくる。
 渡りの最中でも猫たちは夜になると天幕に入ってしまうので、エリーザベトが毛繕いというものを見るのは初めてだ。鳥は手を使って毛羽立ちを撫でつけ、翼を開いて陽に晒し、保温と香り付けの香油を塗るが、驚いた事に猫はもっと原始的な方法らしい。
 メルツはちろりと舌を出し、丁寧に右手を舐めている。ほとんど見えないが、そこには耳や尾と同じような柔らかい産毛が生えているようだ。舐める動作は一定で、目を瞑ったまま巧みに毛並みを辿っている。手の甲、指の背、裏返して掌と指の間。それから舌は手首に移り、最後に腕全体へ。右手が終われば次は左手。そのまま湿らせた指で耳の裏を撫で付け、最後に尻尾を指先で梳き、毛玉になっている部分は舌で舐めてほぐしている。
 ざりざりと、小さな音がしていた。
「…………」
 エリーザベトは目のやり場に困り、眠ったふりをして目を瞑る。何だか見てはいけないもののような気がしたのだ。すっかりくつろいでいるメルツの様子を盗み見ている罪悪感や、舌で舐めるという行為が見慣れないせいかもしれない。しかし瞼の裏には舐めるたびに上下するメルツの白い前髪や襟元が残像のように居座っているし、ざりざりという音も絶えず耳に入ってくるので、なかなか意識から追い出せなかった。
(でもあんなふうにして、舌が痺れたりしないのかしら)
 素朴な疑問が沸いて出たが、それを口に出す勇気はなく、エリーザベトはそのまま目を瞑り続けた。


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