3









 目を覚ましたのは、夜空の星が薄れる頃だった。夜明けが近付く気配はしているが、朝日までは程遠い、そんな時刻である。
 背中が痛み、翼もすっかり毛羽立ってぼろぼろになっていたが、どうにか助かったらしい。目が覚めた反動で大きく息を吸うと、それと一緒に、恐怖と記憶がどっと舞い込んできた。
(お母様や、皆は……どうなってしまったのかしら)
 エリーザベトはのろのろと顔を上げ、周囲の様子を窺う。
 川辺に生える潅木の隙間に、エリーザベトは寝かされていた。砂地の地面には下草もほとんど生えておらず、潅木も葉を落とした裸の枝である。かなり流されてしまったのだろう。単にエリーザベトの夜目が利かないせいかもしれないが、飛び越えてきた崖はどこにも見当たらなかった。
 全身が水に濡れて気持ちが悪かったが、着替えの服はおろか、身を清める布も持っていない。情けない気持ちで身を起こし、ごわごわした翼を折り畳む。すると、ぽとりと膝の上に何かが落ちてきた。
(何だろう?)
 小さな布袋である。触ってみると、じんわりと温かい。中に何か発熱性のものが入っているようだ。
「目は覚めた?」
 急に声をかけられ、エリーザベトは慌ててケープを背に巻き付ける。子猫が絞った外套を抱えて川辺から戻ってくるところだった。ぺっとりと湿った尾を大きく振り、水気を飛ばしている。
「服が濡れているから寒いと思うけど、熱はないみたいだね。それ、まだ使っていていいよ」
 彼はエリーザベトが持っている布袋を指差した。
「唐辛子を刻んで、燻したニコの葉と混ぜたやつなんだ。もう少しは利くはずだから。……船から落ちた事、覚えてる?」
 そこまで言って、子猫は気遣わしげに声を潜める。エリーザベトが無反応なので心配になったのだろう。慌てて頷くと、彼は生乾きの外套を着込みながら顔を曇らせた。
「大変な事になったね……皆、無事だといいけれど」
「……ええ」
 何かを言わなければと思うのに、口の中が粘ついて掠れた相槌しか出てこない。忙しなく周囲の音を集めようと動く子猫の耳を凝視しながら、エリーザベトは布袋をぎゅっと握りしめた。
(助けてくれたみたい、だけど……)
 船に乗っていた時はあんなに子猫の姿を目で追っていたのに、こうして自分にはない耳や尾を見ていると、絵本から仕入れた不吉な知識が次々と思い浮かんでくる。そうでなくとも群れから離れて心細いのだ。よく知らない猫と二人きりという状況は、エリーザベトに過度の不安を引き起こす。よく見れば、子猫は腰に大降りのナイフのようなものを差していた。鉈くらいの大きさで、戦う為のものにしては小さいが、それでも十分な脅威である。
 成鳥たちは猫と契約し、彼らと同等の立場になった。しかし自分には彼らを従わせる強い歌もなければ、取引できるような植物の苗も持っていない。彼らに食べられず、見捨てられず、護衛として雇う為には――何か、それ相応のものを差し出さなければいけないのかも。
 必死に頭を働かせ、エリーザベトは恐る恐る右手を差し出した。子猫が不思議そうにこちらを見返し、軽く首を傾げてみせる。
「どうかしたの。袋、いらなかった?」
 ううんとエリーザベトは首を振り、勇気を振り絞った。
「あの……一本くらいなら、私も痛くないと思うの。だから、小指なら、食べてもいいから……皆のところに連れて行って下さい」
 途端、驚きと同時に不満を表すように、子猫の耳がぴんと横を向く。
「食べないよ、君とは言葉が通じるもの!」
「……言葉?」
「言葉が通じる生き物は決して狩らない。そういう掟があるんだ。破るのは良くない事なんだよ。だから君を食べないし、危険な目にも合わせない。そういう約束で渡りに加わったんだもの」
 それにこれもあるし、と子猫は顎を上げ、首についた銀の環を見せる。
「鳥を襲うなんて真似、しない」
 はっきりとした彼の語尾に、エリーザベトは軽く頬を叩かれたような気持ちになった。自分が空回りしている事に気付いたのである。
「ご、ごめんなさい……助けてもらったのに、変な事を言って」
「……ううん、分かってもらえればいいんだ。あんな目に合った後だもの。君が怖がるのも無理はなかったね。たまに、ああいう猫が出るんだ。航路の先に待ち構えて、積荷だけを奪っていく猫が」
 子猫はわざとらしく顔をしかめると、だから気にしないでとでも言いたげに尻尾を揺らす。
「皆のところに戻りたいのは僕も同じだよ。だから、一緒に行こう。僕はメルツ。呼ぶ時はメルでいいよ」
「私はエリーザベト――」
 彼に真似て愛称を名乗ろうとしたところで、がさりと川面で不審な音がなった。何か大きなものが流れ着き、下草を揺らしたらしい。メルツの耳が警戒心で後ろに倒れる。
 君は動かないでと釘を刺し、彼は音も立てずに潅木の間を縫いながら川面に近付いた。落ち窪んだところに川がある為、エリーザベトからはメルツの足元は見えない。しばらくしてから、そっと尋ねた。
「……何かあったの?」
 メルツはそれに答えなかったが、足の間に力なく垂れた白い尾から落胆が窺える。気になってエリーザベトが近寄ろうとすると、それを制すように、彼は一足先にこちらに戻ってきた。
「砂船の残骸だよ。……行こう、早く皆と合流しないと」
 促されて川岸から離れる。彼が背で庇った視界の先に、もしかしたら昨夜の争いで亡くなった死体が流れ着いていたのかもしれないとエリーザベトが思い当たったのは、随分と経ってからの事だった。



 * * * * *



 猫の外套は裏側にいくつも袋を縫い付けた作りで、そこに細々とした道具類を入れている。貴重な物は水や油を弾く紙で包み、メルツはそこから干した薬草と火打石を取り出すと、掌ほどの小さな焚き火を作った。
「それは何?」
「合図だよ。母上が見つけてくれるといいんだけど」
 軽く両手で揉んだ薬草に火種を飛ばすと、濃い黄色の煙が昇り始めた。自然の火ではない事を表すように、細く長く伸びる煙だ。二人はしばらく待ったが、程なくして諦めた。
「誰からの反応もないから、きっと近くにいないんだと思う。僕たちが流されすぎたのか、それとも取り残されたのか……ちょっと分からないけど」
「じゃあ、どうすればいいのかしら。向かう方向も分からないなんて」
 エリーザベトが言うと、メルツは少し考え込んだ。
「……もしかしたら、空が暗いせいもあるのかもしれない。見晴らしのいい場所に行って、朝になったらもう一度試してみよう」
 里育ちのエリーザベトには野外の知識もなかったので、素直にメルツの提案に従った。猫と言うだけあって彼は旅慣れているようで、手早く狼煙の火を利用して魔物避けの香炉を準備していく。手持ち無沙汰な事も手伝って、エリーザベトはつい尋ねた。
「……その香炉、猫なら誰でも持っているの?」
「うん。僕は母上から譲ってもらえるけれど、普通の猫は買ってこなくちゃいけないんだ。たまに自分で調香する猫もいるみたいだけど、それだと効き目に保障はできないから、大概は薬師に頼むよ」
 メルツは膝の泥を払うと、香炉を片手に吊り下げたまま、先に立って歩き始めた。エリーザベトも後に続く。砂地を歩くのは初めてで、靴裏に吸い付く地面が一歩一歩を重くしていた。湿った服も手伝って、羽繕いをしたくて堪らない。
 ひとまず二人は川の上流に向かって進む事に決めた。砂船が横転したのなら、すぐには出航できないだろうから同じ場所にいるのではないかと判断したのである。夜盗を追い払えず、そのまま占拠されている可能性もあったが、二人はその事について口に出さなかった。
 川はエリーザベトの故郷にある水路の二倍はあり、緩く蛇行しながら流れていたが、ほとんど水の音はしなかった。時折、砂地に何かが流れ着く音がするとメルツが何なのか確認しにいったが、戻ってくると彼は一様に「砂船の残骸だった、砕けた横木の一部だった」と報告した。その頃にはエリーザベトも大体の事情は察せられていたが、本当の事を知るのが恐ろしくて、ただ黙って頷く事しかできない。その短いやり取りを除けば、二人はほとんど無言で、ひたすら上流を目指して歩き続けた。
 裸の潅木が生えた変化の乏しい風景に、次第にエリーザベトの心も沈んでいく。川辺を縁取るように蝶の形をした小さな草が生えていたが、あまりにも小さく、名前をつける気すら起こらないような草だ。ヴィッテン家が所有していた鮮やかな植物園を思い出し、故郷が恋しくなる。あそこではいつでも競うように花が咲き、歌声が満ちていた。大冬の前でさえ、木々は赤や黄に色づいて美しかった。こんな夜更けに、こんな寂しい場所を歩くのは心細かった。
 皆、無事だろうか。
 暗い思考を遮るように、ふっと視界に白い尾が入る。エリーザベトは足元から顔を上げ、闇の道しるべのように揺れている子猫の尾を見つめた。
(……触ったら、どんな感じなのかしら)
 骨があるのかどうかさえ疑わしい、しなやかな動きだ。最初に感じた強烈な恥ずかしさはほとんど消えていたが、やはり目で追うのは抵抗がある。だが目の前で揺れていれば、どうしても気になってしまった。
(そういえば私、助けてもらったのにお礼を言ってない)
 今更ありがとうと言い出すのもおかしな気がして、エリーザベトは人知れず眉を下げた。この夜の沈黙の中で、安易に声を出すのも躊躇われたのだ。メルツからもらった布袋を両手で握り締め、内側から感じる仄かな熱へ思いを託す。
 そうしてどのくらい歩いただろう。砂地にめり込む踵がじんじんと痛むようになってきたところで、前を進むメルツが出し抜けに言った。
「夜が明けてきたね」
 確かに潅木の隙間から見える空が徐々に白み、うっすらと朝霧がたち始めている。周りを見る余裕をなくしていたエリーザベトは顔を上げ、ぼんやり色彩を取り戻していく世界を見守った。葉を落とした寂しい木々の隙間を満たすように、光と霧とが混ざり合いながら、ゆっくりと金色に染まっていく。
「……綺麗」
「君の里よりも?」
 ぽつりと零すと、メルツが意外そうにこちらを見た。大きな三角の耳が動く。
「鳥たちは高い塔に住んでるでしょう?だったら夜明けも、地面から見るよりも綺麗なのかなって思ってたんだ」
「ええっと、確かに……塔の上の方が見晴らしがいいわ。でも私、朝はあまり早く起きれないから、見慣れていないの」
 恥ずかしかったが他の言い方も見つからないので素直に告白すると、メルツはにっこりした。
「そっか。僕も、朝はゆっくり寝ている方が好きだな」
 柔らかな同意を得て、エリーザベトもほっとした。すると先程まで躊躇っていたのが嘘のように、つらつらと数珠つなぎに言葉が湧き出る。
「メルのお家って、やっぱり地面に近い場所にあるの?」
「うん。大概の猫はそうするよ。たまに木の上に建てる猫もいるみたいだけど。ただ縄張りの関係で、天幕を持って移動する猫も多いんだ。僕の家も『春の家』と『冬の家』があって、君たちみたいに渡り歩くよ」
「夏と秋のお家はないの?」
「どちらも移動しやすい季節だから、馬に荷物を積んで、天幕で暮らすな。母上の仕事の依頼も増えるから、集会場でお香を売る時もある」
 エリーザベトに対しても気兼ねない話し方をする。それに釣られ、彼女の口調も次第に砕けたものになった。
「何だか移動ばかりで忙しそう。私、五年ぶりの渡りだって、あんなに凄いと思ったのに」
「そりゃそうだよ。君たちの移動って、とても大掛かりだもの」
 くすくすと笑うメルツの後ろで、静かに朝焼けが広がり始めていた。輪郭を光に縁取られ、真っ白な髪や耳が金色に輝く。初めて彼を見た時は尻尾を立てられてからかわれたと思ったけれど、それは誤解で、きっと彼なりの挨拶だったのだろうな、とエリーザベトは思った。この気の良さそうな猫が、嫌みったらしくそんな事をするはずがない。
「……メル。あの時、助けてくれてありがとう」
 エリーザベトはぼろぼろになったドレスを持ち上げ、精一杯、正式な礼をしてみせた。
「急にどうしたの?」
「……ずっと言いたかったから。布袋も、とても助かったわ。ありがとう」
 もう一度言うと、メルツはくすぐったそうに目を瞬かせた。
「どういたしまして。でも僕も君に助けてもらったから、おあいこだと思うよ」
 そして彼はエリーザベトに向かって、両手を出して、と言った。言われた通りにすると、メルツに指先を取られ、掌を下に向けられる。そのまま軽く両手を持ち上げられると、メルツが軽く頭を下げ、エリーザベトの手の甲に額を押し当てる動作をした。彼の前髪がさらりと皮膚を撫でる。
「……これが猫のお辞儀?」
「うん。ありがとうと、よろしくと、後は挨拶の意味かな」
「ふふ、いっぱいね」
 少し恥ずかしかったが、嫌な気はしない。お兄様たちがここにいたら、はしたないと怒るかしら。エリーザベトは離れ離れになった親族を思い出して胸を切なくさせたが、美しい夜明けの中では暗い考えも長くは続かず、皆と合流できるまではメルツと共に頑張っていこうと、人知れず決意した。





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