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 太陽が一巡りする頃になると、金の草原を抜け、乾いた岩場に差し掛かった。平らだった地面は途端に見通しが悪くなり、神が気紛れにナイフを刺し入れたような断層を描いている。道幅が狭まると、横に広がっていた群れは再び縦の隊列を取り、そのまま五日間進み続けた。
 旅の間、鳥たちは船室で各々自由に過ごしている。帆に歌を絡ませる為に一族でも腕の立つ者が交代で甲板に出ていたが、それ以外は特に決まり事もない。
 エリーザベトもまた、自室でくつろいでいた。今日も飾り珠を外し、ケープを脱ぐと、心置きなく羽根を伸ばす。一回二回と羽ばたかせ、凝っていた筋肉をほぐすと、翼の表面を覆っている硬い上羽に指を差し入れ、ふわふわとした柔毛を丁寧に空気へ晒す。十分に光を当てた後、好きな香りの香油を塗る。この香油もヴィッテン家が作ったもので、たっぷりと水を弾く上、体温を保つ働きを助けてくれる。
 エリーザベトは両手で右の翼をつくろいながら、ふと窓から外の様子を窺った。
 今日も猫たちが船腹に隊列を敷き、手馴れた様子で馬を走らせている。彼らは夜になると荷馬車から道具を出して即席の釜戸を作り、煮炊きをして腹を満たすと、簡単な天幕を作って眠った。元から単独行動を好む種族と言うこともあり、天幕は親しい者たちとの間で作る、ごく少人数のものだった。護衛とは言うものの、こちらとはほとんど接触がない。
 あの母子を見つけるのは簡単だった。魔物避けの香を炊く為、風上に陣取って馬を走らせているからである。無骨な他の猫と違い、華奢な体格にも関わらず二匹とも綺麗に背筋が通っているので、何となく目で追ってしまった。今では立ち振る舞いから子猫が雄だと言う事も分かっている。今日の彼らは昼時になっても馬から下りず、手掴みで食事を取っていた。
(いつも何を食べているんだろう?)
 鳥は主に穀物や果物、植物から精製した蜜や樹の皮、砕いた貝殻などを食べる。猫たちが食べている硬い板切れのようなものが何なのか、エリーザベトには見当が付かなかった。御伽噺によれば、彼らは昔、鳥すら狩って食べていたと言うが――。
 そんな事を考えていた時、ずしんと重い音を立てて砂船が止まった。夜でもないのに船が止まるのは初めてだ。
「どうしたのかしら?」 
 隣室から、母が訝しげに立ち上がる音がする。エリーザベトは慌ててケープを羽織ると、寝室の扉を開けた。お茶の準備をしていたようだが、先程の振動で僅かに床が濡れている。外の様子を窺っていたワルターが「甲板を見てきます」と身を翻すと、エリーザベトは母にくっついた。
「……お母様、もしかしたら魔物が来たのかも」
「滅多な事を言うものじゃありません。大丈夫、またすぐに動くわ」
 怯えて待っていると、時間をかけずしてワルターが戻ってきた。
「どうやら秋の長雨で地盤が緩み、前方で落石があったようです。道を塞いでいるので、それを退けてからでないと前へ進めないと……。今、ご領主様方が外に出られて撤去作業に当たるご様子でした」
「まあ、歌を歌える者は手伝った方がいいのかしら?」
 思ったよりも深刻な事態ではないと分かったからか、大変だと言う割りに、母の声は緩んでいる。エリーザベトもほっとして、引き続き様子を見に行くと言うワルターについていった。
 甲板に出て見物すると、確かに行く手を土砂が塞いでいた。右手が背の高い岩棚になっており、左手が切り込むような断層になっている。その下に流れる川はあの地下水脈が表に出てきたものなのか、あるいは全く別の支流なのかエリーザベトには分からなかったが、湿った水の匂いが懐かしかった。
 落石の撤去作業は二、三日かかる見込みだった。鳥が重さを軽減する歌を歌い、猫が馬を使って岩を崖下の川へと投げ込む。薬師の雌猫が地面に粉末を撒き、そこに火種を放り込むと、雷のような音を立てて大岩を砕いた。
「猫らしい野蛮な技だな」
 兄はそう評したが、それが作業を捗らせるのに一役買っていたのは間違いない。エリーザベトは大きな音に身を縮めながらも、一連の作業を興味深く見守った。
 作業が始まって二日目の事である。日課の羽繕い済ませ、寝台に潜り込んだエリーザベトは、ふと夜中に目を覚ました。南に向かっているので油断していたが、昨夜より一枚上掛けを取り払ったせいか、すっかり肩が冷えてしまっている。そのせいで目が覚めたのだろう。
(……もしかして、今夜はお兄様の番だったかしら?)
 砂船が止まってからも、歌の効果を持続させる為に毎晩誰かが見張りにつく。親しい兄弟仲ではなかったからこそ、エリーザベトは遠目で兄の様子を探る事が多かった。
 エリーザベトは衣服を整えると、足音を忍ばせて母の寝室を抜け、甲板へ出る。風は止んでいたが、帆は僅かに青白い光を帯びていた。兄が船首にいると見当をつけたエリーザベトは右舷にある樽の側で身を潜め、そっと耳を澄ませる。
 子供心にも盗み聞きなど誉められた事ではないと分かっていたが、教えを請う事が出来ないならば、こうして泥棒のように隠れている方がいい。
 兄の歌は楽譜に正確だが、ひどく無機質だ。その淡々とした歌い方が樹木の育成には効果があると言う。
(……お兄様のケチ)
 抱えた膝の中でそんな言葉を呟きながら、エリーザベトは目を瞑り、じっと旋律を追い始めた。


*****


 耳を傾けているうちに眠ってしまったらしい。うつらうつらしていたエリーザベトは、ぱっと異変を感じて飛び起きた。
 いつの間にか周囲が騒がしくなっている。船の下で天幕を張っていた猫たちが次々に起き出し、何事か怒鳴りながら慌しく篝火を炊き始めていた。殺気立った空気に肌が粟立つ。
 まさか、今度こそ魔物が来るのだろうか。
 エリーザベトは目を凝らしたが、夜になると視界がほとんど利かなくなる。しかし魔物避けの香りは確かに嗅ぎ分けられた。猫たちは腰から刃を抜き、右手の岩棚を睨み付けている。
「おい、どうした、何があった!」
 船首で兄が怒鳴っていた。しかし返ってくる言葉までは聞き取れない。猫たちは今や耳を伏せ、尾を太く毛羽立たせながら威嚇の唸りを上げている。
 やがて右手の岩棚から、続々と何かが這い出てきた。
「夜盗だ!狩られるなー!」
 叫びながら護衛の猫たちが跳躍し、岩棚へと向かっていく。刃物をぶつけ合う耳障りな音が響いた。エリーザベトは両手で耳を塞ぐ事も忘れ、ぱっと手摺から離れる。
(夜盗?何……?)
 混乱しながら船室に戻ろうと後ずさるが、恐怖で体が上手く動かない上、闇の中では足元もおぼつかない。生まれたての雛鳥のようによたよた壁に捕まりながら進む。
 早く安全なところに隠れなければ!
 しかし船室に飛び込むよりも早く、夜盗たちが第一陣を突破して船に乗り込み始めた。猫の跳躍力は凄まじく、本気を出せば船腹など数歩で飛び越える。それを追い、護衛の猫たちも甲板に駆けつけ、両者がぶつかり合う音が響いた。兄は無事だろうかと気にかかったが、確認する余裕はない。混戦が始まった。
 ひたすらエリーザベトが船室を目指していると、突然、ぐらりと船体が斜めに傾ぐ。砂船を曳いていた六本足の魔物が眠りから覚め、周囲の騒ぎに興奮し、滅茶苦茶に暴れ始めたのだ。いくら調教してあると言っても、パニックに陥った魔物を止める術はない。尻餅をついたエリーザベトのすぐ側で、一組の猫が剣を交えながら威嚇の声を上げているのが見える。
 このままでは剣の届く距離に近付いてしまう――と思った瞬間、横手から誰かに引っ張り込まれた。
「きゃああ!」
「駄目だ、暴れないで!」
 短く叱責される。聞き覚えのない声だったが、視線を上げた先に真っ白な三角の耳が見えた。
(あの子猫だ!)
 助けにきてくれたのだと、直感で分かった。子猫は腰を抱くようにしてエリーザベトを引き寄せると、船首方向に向かって彼女を押し出そうとする。
「あっちから逃げられるから、走って!」
 しかし、再び船体が大きく揺れた。滅茶苦茶に暴れ出した魔物に引きずられ、がりがりと音を立てながら船体が前進し始めたのである。足元の傾斜は一気に酷くなった。船は横滑りしながら岩場を移動し、崩れた土石に突っかかると、つんのめるようにして急激に停止する。エリーザベトは子猫と一緒に左舷に叩きつけられた。
「捕まって!」
 背後から押し付けられるようにして手摺に捕まったが、今や船は横転する寸前である。しがみつけたのは数秒ほどで、二人は瞬く間に甲板から弾き飛ばされた。
「きゃあ!」
「……っ」
 歯を食いしばった子猫がエリーザベトを抱き込み、頭を庇いながら、くるんと体勢を整える。逆さになっていた頭が上に持ち上がり、夜空が反転した。ちょうど雲間が切れ、月明かりが地上を照らすと、エリーザベトの目にも周囲の状況がありありと分かる。
 暴れた魔物に引きずられ、土埃を上げながら船は横転した。弾き飛ばされた二人は崖の際を飛び越えて、真っ暗な谷底の真上にまで飛ばされている――。
 エリーザベトは恐怖で訳が分からなくなった。景色が遮られ、岩肌が目まぐるしく真横を流れていく。
 落ちる――!
 その時、重力に抗うように、たんと子猫が崖を蹴った。岩肌に体が叩きつけられないよう、なるべく距離を取ったのだ。真横に迫っていた崖の圧迫感が薄れる。
 しかし、それでも谷底は待ち構えるようにして二人の下に口を広げていた。このまま落ちれば、いずれにせよ岩にぶつかってしまうだろう。
 咄嗟にエリーザベトは背中へ力を入れ、精一杯に翼を広げた。先祖のように空を飛ぶ筋肉は残っていないが、空中を滑る構造は備えている。不自然にケープがめくれ上がって絡まり、翼の付け根もびりびりと痛んだが、いくらか落下の速度を緩める効果はあった。子猫が驚いたようにエリーザベトを見る。何か言ったようだが、びょうびょうと鳴る風に紛れて聞こえない。
 よく見れば、彼が片腕を上げて必死に後ろを指差しているのが分かった。首を巡らせると、少し離れたところに川がある。あそこを目指せ、と言う事らしい。
 エリーザベトは泣きたくなった。そもそも、この翼は飾りものなのに!
 それでも、やるしか道はないのだ。エリーザベトは四苦八苦しながら翼の傾斜を変え、切り込むように空中を滑空する。風は厚い壁になったように全身にぶつかり、何度も進路を捻じ曲げようとした。その度に翼をもがれるような痛みが走ったが、奥歯を食いしばってそれに耐える。こめかみから冷や汗が滲んだが、それも落下の勢いで弾き飛ばされていった。
 不恰好に風の斜面を横切ると、やがて目指す川幅が大きくなる。夜の闇の中、それは粘度の高い黒い蜜のように見えた。飛び込むのは恐ろしかったが、地面に叩きつけられるよりはいい。エリーザベトは目を瞑り、翼が身を運ぶのに任せた。
 着水の瞬間、身を切られるような冷たさと、激しい衝撃に意識が飛びかける。沈み込みそうになると、手首を引っ張り上げられるのが分かった。エリーザベトは目を瞑ったまま相手にすがったが、水に流されながら川面に出て息を吸い込んだ途端、くらくらと強い眩暈が襲ってくる。
 気を失う直前、軽く頬を叩かれて、何事か呼ぶ声を聞いたが、それもすぐに分からなくなった。






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