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 大冬が近づき、渡りの季節がやってきた。
 夏の半ばに霜が降り、刈り込まれるのを待つばかりだった多年草が萎れたのが前兆である。
 柔らかな南の空気が吹き込む谷間の街。常ならば季節を分ける必要がないほど温暖な土地だが、数年に一度、地面を芯から凍らせる季節がやってくる。庭師たちが慌てふためいて多年草が枯れたと報告すると、領主は全ての植物園を歌で封じ回り、住民に渡りの準備をするように告げた。そして半月が過ぎる頃には、天蓋のように青々と茂っていた葉はすっかり様相を変えていた。
 色とりどりの落葉が降り注ぐ水路を、船頭が棹を操ってゴンドラを進めている。水面にはよく晴れた青空が映っているが、その色合いは曇り硝子を覗き込んだように白っぽい――冬の訪れが近いのだ。
「見て、ワルター。木が泣いてるみたいだわ。なんて綺麗なのかしら!」
 舞い落ちる綺麗な色合いの葉を集めながら、幼い少女が声を上げる。
「こんなに赤い葉っぱ、初めて見たわ。まるでお花みたい」
 少女――エリーザベト・フォン・ヴェッティンは石造りの集落と、それに寄り添うように密集した大樹を見上げた。峻険な山脈を背に築かれたこの街は、まるで空に恋でもしているかのように建物全てが天に向かって高く高く聳えている。その為、空は細切れにされたように縦長に散らばっていた。
 吹き降ろす風が運んでくるのは雨を恵む豊かな雲、そして春になれば無数の綿毛。外敵を拒んで谷間に築かれたその街は、風が運んでくる植物の種も貴重な資源となる。塔のように巨大な広葉樹が乱立する土地には畑を開拓する場所は多くなかったが、代わりに住人は上へ上へと家を積み上げ、土を運んで温室を作った。
 高みから見下ろせば、隙間を縫うように走る青い水路と無数のゴンドラが見えるだろう。乗り込んでいるのは谷の住人たちである。彼らは家紋を縫い付けたケープを羽織り、思い思いの装飾具で旅の始まりに相応しい身なりを整えていた。
 エリーザベトは船縁に片手をかけ、身を乗り出して空を仰ぐ。一年を通して暖かく、冬になっても青々とした葉を茂らせている樹木しか知らなかった彼女には目新しい光景だ。空気も乾いてどこか砂っぽい。確かにこれは「季節の終わり」を感じさせた。興奮のあまり、翼の付け根がふるりと震える。
「おい、はしたない真似は止せ。風切羽が見える」
 兄に鋭く叱責され、エリーザベトは慌ててケープの端から覗いた羽根を隠した。ゴンドラには同じヴィッテン家の雛しか乗っていないが、常よりも着飾った面々にはいつにない緊張感が漂っている。エリーザベトが粗相をしたと気付いたのか、何羽かの視線がじろりとこちらを向いた。彼らの翼を覆う厚手のケープは白地に青糸で紋章を刺繍した正式なもので、皆一様にきちんと羽根を折り畳み、つんと顎を上げている。関心はないが見逃さない。そういう視線だ。
 エリーザベトは顔を赤らめ、しおしおと掌を膝の上に揃えた。居たたまれない気持ちになったが、握り締めた落ち葉の中に親指を隠すと、何故か少しだけ逃げ込めた気持ちになる。
「……お嬢様、そろそろ人目につく頃です。他に上着を」
 見かねたワルターがそっと耳打ちをした。従者である彼は先行する成鳥たちのゴンドラには乗らず、エリーザベトの世話をする為に付き添ってくれている。
「……重いんだもの」
「じきに桟橋に着きます。正装にならねばなりません」
 エリーザベトは唇を噛むと、差し出された重ね着用のケープを二枚羽織り、数珠状になった淡い青色の飾り珠を手に取った。ワルターに手伝ってもらいながら、翼の付け根から山なりになっている小翼羽(しょうよくゆ)に引っ掛ける。こうすると羽根を折りたたんだ時、飾り珠が弧を描きながら垂れて美しいのだと教わっていた。
 正装になると、ずしりと体が沈むような心地がした。雛であるエリーザベトには、紋章の描かれたケープも飾り球も重すぎるのだ。
 エリーザベトは一族でも珍しい純白の羽の持ち主なので、それを際立たせる為に派手な色味の装飾具は身に付けないようにしている。エリーザベト自身も気に入っている色だが、それでも時には他鳥のように、好きな色に染めた色とりどりの飾り羽をつけてみたいと思う時がある――そちらの方がずっと軽いのだ。それに純白の色を保つ為、日光浴の時間を制限される事もない。
「……五年ぶりの大冬か」
 兄が、横手に並ぶゴンドラを眺めながら渋い顔で呟いた。
「ようやバラムギの根付が上手くいったところだというのに、ここに来て北里を捨てなければならないとは忌々しい。ワルター、果樹の冬仕度に抜かりはあるまいな。戻ってきた時に種が全て死んでいたのでは洒落にならん。せめて一つくらいは生き残って欲しいものだ」
「はっ。仰せの通りに」
 ワルターが頷く。エリーザベトは集めた落ち葉を扇のように広げながら、二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
 大冬の前兆を感じ取ってから半月。慌てて荷造りをし、温暖な南里に渡る用意を始めたのだが、食料源である苗木や薬草類も置いていく為、ワルターを始めとする使用人たちは数日総出で果樹園の木に暖かな藁を巻き、苗床を日陰に移して種を眠らせていた。厳しい大冬を南里で過ごし、春になればまた戻る。その間、誰も手入れする者はいなくなるのだ。
 エリーザベトにとっては二回目の渡りである。しかし、それはずっと幼い頃で記憶には残っていない。その年は特に厳しい冷え込みとなり、歌で施した守りも役に立たず、果樹と花菜の三分の一は駄目になっていたと聞いていた。ヴィッテン家が栽培を独占している紅茶用の薔薇も枯れ果てて、再び咲き返すのが大変だったと言う。
 エリーザベトがこの春から丹精を込めて育てていた花も、戻った時はすっかり枯れているかもしれない。初めて自分ひとりで苗から育てた花だった。雛である彼女は歌声も弱く、詠唱のコツも飲み込めていない。それでも葉艶が良くなる曲を譜面と睨めっこしながら作り、与えすぎないように朝の一時だけ歌って聞かせ、精一杯に世話をした花だった。調整が難しい水遣りの歌だけは母に手伝ってもらえたが、咲いた花びらを収穫すれば、きっと満足いくような香りが出たはずである。
 しかし大冬で谷全体が雪に埋もれてしまえば、あの花も瞬く間に萎れてしまうだろう。自分がいない間にひっそりと枯れていく花を思うと、エリーザベトの顔も自然と曇った。
「お兄様……ご領主様の歌なら、きっとお花も大丈夫よね?」
「さあな。いくら手を施しても大冬には万全と言うものがない。そう家庭教師に習ったはずだろう」
 すがるような言葉も、にべもなく切り捨てられる。同じ父母を持つ兄雛なのだが、彼がまともにエリーザベトの相手をする事はまずなかった。そのもそも公の席だからこそ受け答えしているだけで、私邸だったのならば妹の世話は家庭教師やワルターに任せて一切関わろうとしなかっただろう。干渉される事を避けて横顔ばかりを向けている兄の、その硬質な声音が耳の奥にじわりと沈んでいく。エリーザベトは口を噤み、彼とは反対側を向いた。
(心配なのはお花だけじゃないわ。渡りの時は……猫と一緒になるんだもの)
 肉を抉る鋭い牙と爪、不恰好な耳と尾を持つ種族。神がこの世界を作る際、火と土を扱う知恵を授け、荒野に生きよと定めた狩猟民族だ。
 エリーザベトも絵本の中でしか姿を見た事がない。猫は古くからの天敵であり、かつて神から鳥たちが優雅な翼、そして水と風を操る歌を授かった事を妬んで、幾度も集落を襲ってきたと言う。二百前に停戦条約が結ばれてからも、街は何度か素性の知らない野良猫たちの襲撃にあっており、その度に二種族の緊張は高まっていた。行商と称して時折この街にもやってくる猫もいるが、接触できるのは交易を仕切る一部の者に限られている。鳥たちが各地で群れを作り、歌の力で植物を育てて暮らしているのに対し、同族間でも縄張り意識が強い猫たちはほとんど群れる事はせず、荒野で狩りをしながら暮らしているのだそうだ。その他、彼らの生活様式はほとんど知られていない。
 一般の鳥が彼らの姿を見る事ができるのは、大冬を間近に控えたこの時期である。
 骨を砕くような厳しい冬。特に寒さに弱い鳥は凍える前に南地方に移住する必要があった。退化した翼は空を飛ぶには適しておらず、街を貫く水路も途中から地下水脈となり、船に乗って移動する事はできない。その上、二週間に及ぶ旅は厳しく、道中は獰猛な魔物がうろついている上、大冬の前には決まって病が流行る。普段から荒野で暮らしている猫たちの知恵が必要だった。
 即ち、渡りの護衛として雇うのである。 二種族で停戦が結ばれてから二百年、途切れる事なく続けられている契約とは言え、種族間の溝は深かった。エリーザベトも絵本で呼んだ童話――旅に出た鳥が森で猫に騙されて頭から食べられてしまう話や、荒野の沼には溺れ死んだ猫がいて、通りかかった旅人に謎掛けをする話など――が脳裏を甦る。
(お母様がここにいて、手を繋いでくれればいいのに)
 母のゾフィーは一艘前のゴンドラに乗っていた。心細くなって姿を探そうとすると、どこかのゴンドラで歌っている者がいるらしい。穏やかな独唱が聞こえた。旋律に合わせ、水路の壁に生えていた蔓草の蕾が小さく揺れる。周りの目を盗んでエリーザベトが声を潜めて鼻歌を吹きかけると、ぱちんと内側から弾けるようにして花弁が開けた。大冬の前の最後の花だわ、とエリーザベトは思った。
 一族を乗せたゴンドラは街の中心を過ぎ、城門を目指して下り続けた。水の流れは徐々に速くなり、やがて飛ぶようになる。終点が近付いているのだ。水路の先は崖になり、滝となって地下水脈を潤していく。城門は崖の手前にあり、一向はそこでゴンドラを下りると、後始末を船頭に任せて舗装された道を進んだ。
「お母様!」
 エリーザベトは母の姿を見つけ、はしゃぎすぎないように気をつけながら側に駆け寄る。隣に並んでいたはずの兄がいつの間にか離れた事に気付いたが、それを引き止める事はしない。
 今日の母は薄桃色のケープを纏っており、地羽である水色の翼がほんのり透けて、紫色に滲んでいるのが目を惹いた。
「駄目よ。貴方は雛なのだから、あまり寒い風に当たっては」
 そう言って自分のケープを外し、エリーザベトに巻きつけた。ふ母の匂いと体温が体に移る。
「また重くなっちゃう……」
「我慢なさい。このくらいで羽根は折れないわ」
 母はとろける笑みの中に儀式的な厳しさを織り交ぜて、エリーザベトの衿を正した。決まり事とは言え、娘と別のゴンドラに乗せられた事が気がかりだったようである。列の流れから取り残されるような形の二羽の横に、さりげなくワルターが壁となって佇んだ。腫れ物を相手にするように、鳥の群れが真横を流れていく。
「ゾフィー様、早くしないと家長殿が……」
「分かっているわ。少し待ってちょうだい」
 母はエリーザベトの身支度を整えると、満足そうに頷いた。
 城門を出ると、既に何席もの砂船が集まり始めていた。一族同士が呼び合いながら、いくつもの群れになって渡りの準備を進めている。車輪のついている巨大な船体に成鳥が集まり、幾重にも声を合わせて重さを軽減する歌を歌っていた。ほのかに青白い光が船体を覆っている。
 一般的には渡りの季節になると、二十世帯以上の船が集まって群れになり、まとまって荒野を越えていく事が多い。時には百や二百もの大きな群れになるが、その日エリーザベトが加わったのは五十世帯ほどの集まりで、ほとんどヴェッティン家に連なる者たちだった。
 ヴィッテン家が所有する砂船は十八隻あり、どれも天井の高い優雅な船室と、日光浴ができる硝子の温室がついている。食料は既に積み込まれ、残るは一族を乗せるだけのようだった。
「凄い……。こんな大きな船、今までどこにしまっていたの?」
「渡りに備えて、船頭の一族が保存しているのです。数年に一度の渡りとは言え、手入れをしなければ痛みますからね」
 渡し板の上を歩きながらワルターが答えてくれた。恐らく先に乗り込んで父や重役たちの元に向かったのか、兄はいつの間にか姿が見えなくなっている。エリーザベトは母と従者の間に挟まれ、てくてくと中に乗り込んだ。
 用意されたのは雛鳥用の部屋だった。寝台の他は備え付けの棚くらいしかないが、扉を挟んで母の寝室にも繋がっている。広く取られた丸型の窓から差し込む光は明るく、後で羽根を広げて日光浴をしようとエリーザベトはうっとりした。専用の温室は一番上の階にあると聞いたが、ここの方が気兼ねがない。陽を当てすぎると羽根が黄ばむと言ってくる者はここにはいないのだ。
 現金なもので、すっかりエリーザベトは楽しくなってきた。産毛に軽く陽を当て、水路から纏わりついてきた湿り気を飛ばすと、隣室の扉を開ける。ワルターと共に荷を解いていた母がこちらを振り返った。
「お母様。私、甲板に出てきてもいい?」「今頃は出航の準備で忙しいはずだけれど……」
 難しい顔をした母も、すぐに頬を緩めた。エリーザベトが初めての渡りで興奮している事に気付いたのだろう。
「……そうね、いいでしょう。ワルターに連れて行ってもらいなさい」
「はい!」
「ではお嬢様、お手を」
 ワルターが苦笑しながら手を差し出す。ごつごつした彼の手を取り、搭乗でごった返す船内を掻い潜って甲板に出ると、まだ出航してもいないのに吹き付ける風で視界が霞み、エリーザベトは目を細めた。
(いつもより風が冷たい気がする)
 城門の外だからだろうか。それとも周りを遮る石造りの塔がないせいだろうか。エリーザベトは頬を打つ横髪を片手で抑えながら、首をすくめて踏み出した。
 大冬が近付いているとは言え、天気はすこぶる良い。その空を塗り替えるように、畳まれていた青い帆が船頭の一族によって広げられていた。
 帆は風を掴む為と言うよりも、鳥の歌を広範囲に拾う事を目的に張られている。領主館で育てられている特別な葉で染めた青い帆は、歌の効果を強めると聞いた覚えがあった。
「ワルター。出発したら、船はずっと止まらないの?」
「いえ、暗くなると視界が利かなくなりますし、休憩も必要ですから、夜は止まります。その間も帆に歌を絡めなければいけませんが」
「じゃあ、夜にはどうやって――」
 あれこれと言い募っていた鼻先に、ふと、嗅ぎなれない匂いが漂う。
「しっ……お静かに。猫が来ました」
 ワルターが鋭く忠告した。彼の視線を追い、エリーザベトは息を詰めて木立を見据える。
 最初に見えてきたのは、砂船を牽引する為に猫たちが調教したという六本足の魔物だった。見た目は蜘蛛に似ているが、渡りに用意されただけあってどれも驚くほど巨大である。エリーザベトのような雛ならば一口でぺろりと食べられてしまいそうだった。
 その魔物を取り囲むように、騎馬の黒い影が砂埃の隙間からちらちらと見え隠れする。それも数十、数百という単位だ。巨木の隙間から水が流れ出るように、どんどんこちらに迫ってくる。彼らは巧みに馬を操って魔物を誘導すると、それぞれが雇われた砂船を目指して幾つかの集団に分かれていった。
「ヴィッテン家はこちらか!」
 恐らく一団のリーダーなのだろう。十数匹の騎馬を引き連れ、馬上から声を張り上げたのは黒毛の雄だった。鳥でもないのに凄い声量だ。年の頃は四十代後半と言ったところだろう。顔には刀傷が目立ち、腰には重たげな太刀を下げていた。
「いかにも我らがヴィッテン家!契約の履行を依頼致す!」
 エリーザベトの父が甲板から答えを返すと、二種族の代表の者が下に集まる。その間、他の猫たちは予め決めてあった持ち場に散ったようだった。手綱を使って魔物を砂船に繋いだり、旅の食料を積んだ荷馬車を後列に配置したりと忙しい。エリーザベトは少し顔を引っ込め、手摺りの合間から様子を覗き見た。
(あれが猫?)
 護衛として雇われた猫たちは、いずれも屈強な雄だった。頭の上に大きな三角の耳がついている。その毛並みの色は様々で、黒や茶、金や赤など色味の渋いものが多く、まるで大地に隠れようとしているようだった。鳥のように鮮やかな色を持つ者はいない。代わりに縞や斑などの模様があった。いずれも頭巾のついた紺の外套を羽織っている。剣を佩いたベルトの下からは、しゅるりと伸びた細長い尾が覗いているのが見えた。
 持ち場を確認する為なのか、騎馬のまま左舷に数匹の猫が集まってくる。その中の一匹がエリーザベトの視線に気付くと、牙を出してにやりと笑い、こちらに向けて尻尾を揺らした。
「まあ、なんて野蛮な……」
 背後で侍女が目を背ける。鳥であれば、生まれた時に生活に邪魔な尾羽を切る上、翼を露わにする事すら恥ずかしいことだとされていた。雌鳥も雄鳥も翼にはケープを巻いて宝石を飾り、それぞれの趣向を凝らして美醜を競う。翼を見せ合うのは親子や恋人のような親しい者に限られた。猫たちのように獣時代の名残である耳や尾をありのままに晒しているのは見苦しいとされている。
 エリーザベトも思わず顔を赤らめた。他鳥の裸を見てしまったような恥ずかしさがこみ上げてくる。猫はどうして耳も尾も隠さないのかしら、と不思議に思った。目を丸くしているエリーザベトの前で、再び挑発するように雄猫の尾がゆるりと揺れる。こちらの反応を楽しんでいる様子だ。
(……意地悪な種族みたい)
 エリーザベトは頭を引っ込め、赤くなった頬を押さえながら反対の舷側に向かった。普段の彼女ならば船室に戻っただろうが、本でしか見たことのない種族が物珍しかったのである。もう少し観察してみたかった。
 今度は猫に見つからないように用心し、下を覗き込む。船の前方では二種族の代表が契約印を交わす段になっていた。鳥が提供する薬草や干ばつに強い苗木を目当てに、猫たちは渡りの護衛となる。しかし約束を破って荷だけを強奪する性質の悪い猫もいる為、予め彼らにまじないを施す事になっているのだ。エリーザベトの位置からはよく見えないが、裏切ったと長が判断した際に発動する呪い歌の首輪を手渡し、全員につけるよう指示しているはずである。実際に発動すればどうなるのか、そこまではエリーザベトも聞いていない。
「大冬さえ来なければ、猫どもの手を借りずに済んだものを……」
 背後で、忌々しげに誰かが囁く声がした。
 契約が済んで首輪が行き渡ると、遂に出航となる。歌声が大きくなり、帆が青い光を帯びると、車輪がぎしりと軋んで船体が僅かに浮かんだ。先頭の猫が鞭を入れると、魔物は鳴き声も上げずに前進を始める。
 ずずん、と甲板が揺れた。
「おっと。大丈夫ですか、お嬢様」
「え、ええ……」
 一瞬、誰かに後ろへ引っ張られたような感覚があった。ワルターに背を支えられ、エリーザベトは危うく転倒を免れる。せっかく出発の瞬間を見届けようと思ったのに、なかなか上手くいかない。遅れを取り戻すように再び手摺から景色を見下ろした。
 城門の周りは街の中と然程変わらず、寄り添うように大樹が森となって立ち並んでいた。砂船は正面に設けられた大きな道を一列になって進んでいく。魔物が地面を蹴るたび、年長者の歌う青白い旋律が帆に絡んで揺れるのが見えた。
「あの歌はずっと誰かが歌っているの?」
「ええ。交代で」
 舞い上がった砂埃に気を取られているのか、ワルターが口元を拭いながら言葉少なに答えた。街を出てしばらく隣を併走していた水路も舗装されない荒々しいものに変わり、やがて船の進路から離れていく。きっとあちらで滝になるのだろう。行方が気になってエリーザベトがそちらを眺めていると、すとんと断ち切るようにして森が終わり、鼻先に冷たい砂の匂いが吹き付けてきた。急に視界が開け、思わず息を飲む。
 見渡す限り一面に、金色の野が広がっていた。風が吹くと、まるで地面が命を持っているように表面が波打っていく。長い茎を持つ群生の草が大冬に備えて穂を茂らせているのだ。騎馬が半身を埋めるようにして穂の海を進んでいく様子は、広間に飾られていた波間に浮かぶ魚の絵を思い起こさせる。穂が船腹を撫でるさらさらと言う音が聞こえてきた。
 瞳に納まらないほどの地平線。地の果てる先があると言うことを、エリーザベトは初めて知った。
「凄いわ、目が横に広がってしまいそう!こんな景色がずっと続くの?」
「いえ、このような草原になっているのは街の付近だけです。地形が変われば景色も変わります。いずれ緑の少ない岩場に変わりますよ」
 左手を見れば、水をたっぷり含んだ絵筆で描いたように、山脈が淡い水色の輪郭を描いて連なっている。城門から少し離れただけでこれほど景色が変わるのだから、南里に着いたら一体どうなってしまうのだろう。
(まるで世界の終わりに行くみたい)
 期待と不安が、胸の中で居場所を取り合うようにせめぎ合った。
 二週間の渡り。拠り所のない寂寥とした大地。ここから先、自分の知るものはほとんどない。空の色や形さえ、生まれ育った街とは違うのだ。
「……あ。見てワルター、一匹、雌までいるわ」
 落ち着かずに向けた視線の先に、意外なものを見つける。目深に頭巾を被っているので分かりにくいが、船の前方で葦毛の馬に乗っている柔らかな体付きはまごう事なく子を産む性の者だった。右手で手綱を握り、左手に何か丸い物をぶら下げている。ワルターはエリーザベトがそれ以上身を乗り出さないようにさり気なく手で制しながら、ああ、と答えた。
「香炉を持っているので薬師でしょう。我々は自然の力を引き出すのに歌を用いますが、彼らは香りを使います。渡りの際には他の魔物が寄り付かないよう調合した香を焚き染めて、道の安全を図るのですよ。しかし雌とは、確かに珍しい」
 ワルターの言う通り、その猫が持っているのは吊り下げ式の香炉のようだった。鳥は猫ほど嗅覚が鋭くないが、それでもふんふんと鼻を動かせば、どこかニガヨモギに似た匂いが船全体を包み込んでいるのが分かる。これが魔物に効くのだろうか。
(どんなお顔なのかしら?)
 興味があったが、頭巾から覗く白い顎しか確認できない。よく見ようとエリーザベトが身を屈めると、更に一回り小柄な騎馬が隣にいる事に気付いた。
(雛まで……いいえ、違う、子猫までいる)
 体格からして、その子猫はエリーザベトと同じくらいの年頃に見えた。やはり頭巾を被っているので顔や耳は隠れているが、真っ白な尾が馬の背に乗ってすんなりと伸びている。まるでそこだけ色を切り取ったような白だ。子猫も初めての渡りなのか、きょろきょろと興味深そうに周囲を見渡しては、傍らの雌猫に何事か話しかけている。親しげな様子から母子なのだと分かった。私とお母様みたい、とエリーザベトは微笑ましくなる。
(雄なのかな、雌なのかな)
 じっと二匹を見つめていると、まるで視線に気付いたように子猫がこちらを振り返った。
 抜けるような白い肌、苺のような赤い瞳。気配に敏感な猫特有の行動なのか、それとも単なる偶然なのかはっきりとしない。けれど確かに子猫はエリーザベトを見つけると、一瞬不思議そうな顔をして、小さく首を傾げて見せた。それから白い尾を帆のようにぴんと立てると、先端をゆっくりと振ったのだ。
「……!」
 反射的にエリーザベトは甲板にしゃがみこむ。
(また、からかわれたんだわ)
 まるで火を吹いたように顔が熱くなっていた。先程のような粗野な雄ならともかく、同年代の子猫から剥き出しになった獣時代の名残を見せられて、エリーザベトは堪らなく恥ずかしくなる。翼の付け根がきゅうと縮こまった。意地悪な表情こそしていなかったが、子猫の動作は、こちらの常識では少し馴れ馴れしすぎる。
「お嬢様、どうしましたか?」
「……ううん。何でもないの!」
 突然しゃがみこんだエリーザベトをワルターが気遣ったが、まともに返事ができなかった。これ以上長居をしても羞恥心に苛まれるだけだと思い、母のいる船室に戻る事に決める。結局、子猫が雄なのか雌なのか、顔を見ただけではよく分からなかった。エリーザベトはスカートの裾を捌きながら、猫って怖い、と口をへの字に結んだ。


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