鍋は喜劇を好まれる.3









 外は夜空のままだったが、風が出始めたせいか少しばかり明るくなっていた。教会の鐘が正午を告げる頃には雲が晴れ、ステンドガラスを粉々に砕いたような鮮やかな星々が浮かび上がる。
 草稿を読み終えてあちこちのページをめくっていたメルツは鐘の音で我に返り、強張った背筋を伸ばしながら息を吐いた。
 さて、どうしたものだろう。
 ざっと読んだところで、そう簡単に正解が分かるものではない。数えてみると、完全に残っている童話は三十話ほどだった。途中で欠けていたり、ぼろぼろになって読めなくなっているものも数話ある。聞いたとおり、海を題材にした話は見つけることができなかった。
 ここからどうしていくべきか――。
 まだ教会には誰も戻ってきていない。イドルフリードは地下に篭って姿を見せず、外からも話し声は聞こえなかった。気分転換も兼ねてベンチから立ち上がると、草稿を脇に抱えて外に出る。
 すると、茂みの脇でぽつんと座っているエリーザベトを見つけた。子供達の姿は見当たらない。一人で足元の花を摘んでいる。てっきり一緒にいるのだろうと思っていただけに、メルツは不意を突かれた。極力関わりを避けていたとは言え、さすがに見過ごす訳にはいかない。
「一人でどうしたんだい。皆は?」
 尋ねるとエリーザベトは顔を上げ、真っ直ぐにメルツを見返した。物怖じしない人間の目と言うよりも常に観察を行っている猫のような、どこか事務的な目だった。
「大きい石を探しに行ったの。私は森に入れないから……ここでお留守番」
 ほら、と示されたのは左の手首である。巻かれた長い糸が森へと伸びていた。恐らく昨夜と同じようにグレーテルの服の裾と繋がっているのだろう。
 杭に繋がれた犬でもあるまいし、三人もいるのだから誰か一人くらい彼女の側に残ってもいいだろうに――とメルツは微かに苛立ちを覚えた。だが自分がそれを言える立場でもないと考え直し、足を止めて彼女を見下ろす。
「一人でいるのが不安なら、教会に入っても良かったんだよ」
「でも、あの子達が戻ってきた時に私が待っていないといけないもの」
 エリーザベトはさらりと言いのけて、再び俯いた。よく見れば、小指ほどの小さな花を集めて掌大の束を作っている。彼女は淡々と作業を進め、根元をぐるりと蔓で巻き、花束の形を揃えると、隣に並んでいる墓前に添えた。修道女と母親の墓である。
「昨日のお婆さんと娘さんに」
 呟くエリーザベトの声にやはり感情らしい感情は窺えない。しかし自分が屍揮者であった頃、果たして花を手向けた事などあっただろうか。少し強い風が吹けばあっけなく散ってしまいそうな花だったが、あるとないとでは景色の見え方が違う。
 メルツは隣に腰を下ろそうか迷った末、近くに生えていたイチイの幹に片手をついた。突っ立ったままエリーザベトを眺めているのは決まりが悪く、しかし特に話す内容も見つからない。イチイに体重を預けて身の置き所のない気持ちを誤魔化していると、エリーザベトが右手で井戸を指差した。
「あそこに貴方の名前があったわ。メルツ・フォン・ルードヴィング。あれが貴方のお墓かしら」
「……いいや。今は少し、違うと思う」
「そうなの?」
 エリーザベトの声音が僅かに変わる。単なる観察から相手への興味へ移り変わった声だった。それはやはり幼い子供のような種類のものであったが、メルツは火を浴びたように目頭に熱を帯びるのを感じる。関わるまい関わるまいと思っているのに、彼女に興味を持ってもらえた事が、胸が潰れるほど嬉しかった。
 ――また恋に落ちるのも悪くないと思うがね。
 イドルフリードの声が甦る。
 ――あの名前は君が彫ったものだよ。薔薇も、君が植えてくれた。僕もずっと知らずにいたけれど、昔、君が弔ってくれたものだ。
 そう言いたかった。しかし言うのが怖かった。治りかけた傷口に触れるのを躊躇うような、そんな恐ろしさだった。願掛けのようなものなのかもしれない。エリーザベトの記憶が戻らない事で、彼女の身の安全が保障されるような気がしていたのだ。深く自分と関わってしまったら最後、またエリーザベトが磔にされるような根拠のない恐ろしさがあって。
 恋とは、なんて凶暴な運命を人に与えるものなのだろう。
「あれはもう墓じゃないんだ。あそこに僕の骨はないし、悼む薔薇もまだ咲いていないから」
「でも、名前を彫った人は貴方を弔うつもりだったのでしょう?まだ貴方が天国にいっていないんだと知ったなら、悲しむんじゃないかしら」
「そうだね……きっと、悲しんでくれると思うよ」
 本人を目の前にして、通じない想いを語るのは切ない。だが決して居心地が悪いものではなかった。見返りを求めずとも彼女に優しく接する事ができるのだと思えるからなのかもしれない。かえって上手く笑えたような気がする。メルツが小さく顔をほころばせたので、エリーザベトも分からないなりに表情を緩めた。
「おーい、お二人さーん、どいたどいた!」
 しばらくして、子供達がよたよたと石を抱えて戻ってきた。石の大きさは高が知れているが、何度も森と往復して開けた土の上に転がすと結構な量になる。三人が帰ってくると、俄かに墓地が騒がしくなった。
「こう、ぐるっと半円に重ねるんだ。そうすれば上に鍋を置けるだろ。昼飯はあったかいもんでも食べようぜ!」
 ひょろ長い腕で地面を指差しながらトムが言う。グレーテルは「疲れちゃった」と言いながらエリーザベトの横に座り込んだ。兄のハンスも肩で息をしており、すぐには役に立ちそうにもない。結局メルツも手を貸す事になった。
「兄ちゃん力ないなぁ。ほら、そっちもっと持って!」
 トムにせっつかれながら石を積み、それなりの形に仕上がると、今度は鍋を探してこなければならなくなる。教会に戻って棚を漁ると、礼拝か何かの時に水を入れておく鉄の器と、簡素な食器類が見つかった。釜戸の石探しに時間を使ったので食料はほとんどなかったが、道すがらグレーテルがポケットに詰めてきた木の実と、メルツが手近で見つけた野草を煮込んで、間に合わせのスープを作る。今ならば母に教え込まれた野外料理も一通りこなせるが、いかんせん材料が足りない。メルツはそれを残念に思った。
「何だか懐かしい味ね」
「うーん、懐かしいと言うか……」
「あれだ、昔、小麦が取れなかった冬、こんなのばっか食ってたよな」
 ぶつぶつ言うものの、元から空腹にも慣れている子供達は抵抗もなくスープを飲んでいる。食事を必要としないエリーザベトは手持ち無沙汰なのか、柄杓で鍋をかき混ぜるメルツの手元を熱心に眺め始めた。その視線をさり気なく避け、うつむき加減で子供達の会話に混ざる。
「確かに小麦があれば、いくらか食べ応えのあるものが作れるんだけどね。君達には物足りないだろうな」
「いやー、でもジャムよりはいいよなぁ」
「そうそう。そうでなくてもグレーテルと一緒にいると、甘いものばっかり食べさせられるんだし」
「そんな事言って、一番食べるのがお兄ちゃんじゃない!」
 メルツは自分のスープをよそい、そろそろと口に含んだ。久々の熱い料理に驚いたらしく、歯の裏側で舌が跳ねる。しばらくは食事のたびにこんな事が続くのかもしれない。
 メルツが杓子を置いたので、密かにエリーザベトがそれを取り、興味深げに鍋を掻き回し始めた。歩き始めたばかりの子供が大人の真似をしようとしているような光景である。彼女はしばらくそうしていたが、ふと顔を上げて尋ねた。
「そう言えば、あの人はどこ?」
 イドルフリードの事だろう。子供達は教会に入っていないので彼の行動を知らないはずだ。仕方なくスープから口を離して答える。
「さっき地下にいるのを見たよ。彼も君と同じで食べなくても平気だから、まだそこにいると思う」
「あのさ、よく分かんないけど、お兄さん達、これから死んだ人の出てくる劇……みたいなのするんだろ?」
 腹を撫で擦りながら、不意にトムが口を挟んだ。
「ああ。どんな話にするか選ぶのが難しいんだけどね」
「ならさ、そっちのお姉さんがいれば死んだ人が甦るみたいだし、どんな劇がいいのか本人に聞いてみれば。ここ、ちょうど墓地だし」
「いや……その方法だと、自分を死に追いやった人間に復讐を願う可能性が高い。僕は今回、そうしたくないんだ」
「本当にそうかしら?」
 エリーザベトが首を傾げた。
「死者はそれだけを望むかしら。私が屍揮で復讐を勧めても、昨日のお婆さんはこの子達を許したわ。鼠で村を襲わせたけれど、人が死ぬようなところまではいかなかった……娘さんがお婆さんと再会できたせいもあるでしょうけれど、結局、この子達を少しこらしめただけだったもの」
 トムが微かに顔を歪めるのが見えた。グレーテルが何事か勘付かないかと案じたのだろう。実際に屍揮を取っていただけあって、老婆の唄にこめられた複雑な恨みをエリーザベトは汲み取っていたのかもしれない。だからこそ『復讐以外を望むのでは?』と考える事ができるのだ。
 先代の屍揮者であるメルツもまた経験則として知っている事はある。復讐には様々な種類のもの、相手の命を奪うものから、放逐するもの、嘲笑うだけのものなどがあると。確かに死者によっては寛大な結末を選ぶ者もいるだろう。しかし――。
 メルツが返事に窮している間、エリーザベトは杓子を鍋に戻して立ち上がった。からんと木製の柄と陶器がぶつかる音が立つ。思い立ったら吉日と言わんばかりの素早さで、空いた彼女の手が次に握り締めていたのは羽根飾りの付いた棒――指揮棒であった。
 まさか。
「ちょ、ちょっと待って、エリーザベト!」
 泡を食って止めようとしたが既に遅く、それは迷いなく頭上に振りかぶられていた。軽やかに空気を切る音が、物言わぬ墓標から旋律を引きずり出しにかかる。
 反応したのは二つの墓だった。土が盛り上がって棺桶が飛び出てきたかと思うと、次の瞬間、競り合うように扉が開き。
「あーあ、死んだ後も女将さんの隣だなんて、おらも災難だべ」
「煩いわねッ、こっちの台詞よッ!あとアンタ、アタシの裾を踏んでるじゃないの、足を退けなさいよッ!」
 と喚きながら、二人の個性的な死者が這い出てきたのである。田舎訛りの若い娘と、性別さえ超越した宿屋の女将。
「これで本人に希望が聞けるわ」
 珍獣を見るような子供達を余所に、エリーザベトが満足げに指揮棒を下ろす。良い行いをしたのだと信じ切っている彼女にかける言葉も見つからず、メルツは賑やかな死者達を唖然と見上げた。






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