鍋は喜劇を好まれる.2









 翌朝、人の物音で目が覚めた。壁越しにエリーザベトと子供達の話し声が聞こえる。
 寝ぼける経験も久々の為、メルツはしばらく寝床でぼんやりと横たわっていた。意識の浮き沈みに合わせ、手足が重くなったり軽くなったりするのが新鮮である。二度寝の誘惑がどれほど手強いものなのかも実感した。目覚めると言う事は、まさしく夜の深みから再び世界に生まれ出る事なのだ。産道は険しく、身を切られる。
 結果的に彼が起き出したのはかなりの時間が過ぎてからだった。隣に寝ていたイドルフリードの姿はとっくに消えており、壁際に寄せられた寝具だけが目に入ってくる。畳まれた布団から彼の意外な生活観が滲み出ていた。メルツは何度か目を擦りながら身支度を済ませ、扉を開けて祭具室を出る。
 がらんとした信徒席のベンチと祭壇。宵闇の森に朝は来ない。窓から見える空は真っ暗だった。しかし部屋の中央には五人が揃って集まっており、蝋燭の光で何事か顔をつき合わせていた。
「あ、起きてきた!」
「本当だ」
「遅ぇよー、先にご飯食べちゃったからな」
「よく眠れたようだな。おはよう」
「……おはよう」
 子供達から、続いてイドルフリードから声が掛かる。挨拶を返しながら昨夜の事が気にかかり、何気なくハンスに視線を向けたが、子供は切り替えが早く、けろりとしている。まるで彼の悩みを丸ごと自分が請け負ったようだと苦笑するしかない。
 エリーザベトもまたベンチに座っていた。無言でこちらを眺めている白い頬は滑らかな大理石を思わせる。メルツに向けられる他人行儀な視線に、もしやまた顔を忘れられたのではと危ぶんだが、その後「おはようございます」と声を掛けられた。単に言葉を選んでいただけらしい。敬語だった事が気に掛かったが、メルツはその違和感を喉元に押し込んだ。
「見てよ、倉庫に保存食があったんだ。豪華な朝飯になっただろ?」
 近寄るメルツに目配せし、トムが苦々しげに肩を竦める。ベンチの上には色とりどりの瓶が十本近く並べられていた。蓋が取られた瓶口から中身が見て取れる。
「ええとね、こっちが杏、こっちが苺。あっちが林檎で……」
 グレーテルが得意げに一つ一つを指差した。メルツは眉を曇らせる。
「……ジャムだけ?」
「ジャムだけ」
「ジャムのみ」
「残念ながらジャムしかない」
 トム、ハンス、イドルフリードの順で肯定される。朝食と称されて並べられているのは見事に甘いものばかりだった。贅沢と言えば贅沢だが、いくら種類があれどジャムばかりでは辛い。げっそりとした男性陣に対し、やはり女の子なのだろう、グレーテルは反対に浮かれていた。エリーザベトも綺麗な色の瓶に惹かれているようで心なしか機嫌がよさそうに見える。
「私やエリーザベト嬢は食べなくても平気だが、君や子供達はそうもいくまい。メニューがメニューだが、観念して食べたまえ」
 イドルフリードが木匙を差し出す。言われてみれば確かに腹が減っていた。メルツは木匙を受け取り、恐る恐る赤い色の瓶を選び取る。中身は苺のようだった。久々の食事がジャムだけと言うのは切ないところだったが、一掬いして舐めてみると、忘れていた味覚が甦り、予想以上に美味しく感じられる。食欲を刺激されて夢中で食べ始めると、男性陣から白けた視線が向けられ、メルツは少し気まずくなった。
「あーあ、せめて釜戸があればなあ。パンでも焼けるのに」
「君達はこれから暇だろう。外にある石でも拾って作ってみればどうだ。私もいつまでも子守をやっているつもりはないからね、勝手に遊んでいたまえ」
「遊びでパン焼き釜とか、レベル高ぇなー。あ、でも料理用のちっちゃい釜戸なら俺達にもできるかも?」
「ならば作れ。鍋も祭具室で見かけたからな、簡単な煮炊きができるようになるぞ」
 トムとイドルフリードが話している。意外にもこの二人が実用的な面に秀でているようだ。ハンスとグレーテル兄妹も乗る気のようで、ジャムの食事を終えると、子供達はエリーザベトを連れて石拾いに出かけていく事になった。たった一晩しか過ごしていないのに、まるで当たり前のように自分たちが今日の予定を話し合っている。その事がメルツに不思議な感慨を呼び起こした。
(家族、か)
 昨夜イドルフリードが冗談交じりに自分達をそう例えたが、案外悪くないかもしれない。朝の集まりは和やかで、配役はともかく、どこかしら心を和ませるものがある。
「じゃあ俺らは外に行ってるから」
「何かあったら呼んでくれよ」
「お昼頃には戻ってくるね!」
 グレーテルがエリーザベトの手を引いた。自分たちを家族に例えるなら、この二人は年の離れた姉妹に当たるだろう。グレーテルの方がお姉さん風を吹かせて相手の世話を焼いているのが微笑ましい。
 二人と擦れ違う間際、メルツは艶やかなエリーザベトの結い髪が歩調に合わせて揺れ動き、ランプの明かりを受けて金粉をちりばめているように光っているのを見た。無遠慮に視線を注ぎそうになり、意識して顔を背ける。
(……駄目だ)
 万が一彼女が振り返って目が合った時、冷静に笑い返せるほどの余裕が自分にあるだろうか。耳だけは未練がましく彼女の靴音とドレスの裾が石造りの床に滑っていく音を拾い上げている。何か――いってらっしゃい、気を付けてなどの――声をかけるべきかと思ったが、軽々しく声をかけるのも憚られた。結局、何も言わずに外への扉が開くのを聞く。
「昨日はああ言っていたが、また恋に落ちるのも悪くないと思うがね」
 四人が教会から出て行ったのを見計らい、イドルフリードが目敏く言った。彼は量の少なくなった瓶をためつすがめつしながらベンチに腰掛けているが、こちらへ意識を向けているのが感じられる。メルツはただ苦笑を零した。
「……イド。すまないが、まだ草稿を最後まで読み終えていないんだ。もう少し借りていてもいいだろうか?」
 否定するにせよ肯定するにせよ、今は上手く言葉にできそうにない。あからさまに話題を変えたメルツを、イドルフリードはちらりと横目で窺った。
「まあ、私は構わんよ。見たところ君の身体もしばらく持ちそうだしな。即席とは言え、エリーゼ嬢もよくやったものだ。無理をしない限りは急に倒れると言う事もあるまい。今日はゆっくりとそれを読んでいるといい」
 流されてくれるつもりになったらしい。イドルフリードは先程の話題には触れず事務的に言い添えると、瓶を持って祭具室に戻っていった。開いたままの扉から、彼が地下倉庫へ向かっているのが分かる。他に保存食がないのか探しにいったのかもしれない。
 それぞれが散会すると、周囲は急に静かになった。メルツはベンチの背もたれに寄りかかり、天井を見上げる。少し拍子抜けした気分だった。静寂こそ教会の本来の姿なのに、賑わいだ朝食の後だと誰の声もしないのは少し物足りないように思える。
(グレーテル達がいて良かった。まだエリーザベトと面と向かって関わらなくても済む)
 込み上げてきたのは、誰にも聞かせる事ができない臆病な本音だった。







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