鍋は喜劇を好まれる









 屍揮者であった頃、メルは眠ると言う事をしなかった。
 死者に休息は必要ない。ただでさえ朝の来ない宵闇の森は一日の区切りが曖昧で、意識しなければ時間の経過も忘れがちだ。何よりエリーゼが就寝を嫌い、常に彼と供だって墓地を歩き回り、屍人姫の唄を聞き、復讐劇を鑑賞するように仕向けた事が大きな要因である。
 あてがわれた祭具室に寝床を作り、蝋燭の明かりを頼りに草稿を読んでいたメルツは、仮初めのものとは言え生身の肉体を得た事で、久々に眠気を感じていた。
(眠いって、こんなものだっけ……)
 瞼に鉛が埋め込まれたように文字を追う目が重くなってくる。腹ばいになって広げた草稿の上。ゆらゆらと心地よいリズムで自分の影が揺れているのを見ていると、次第に眠気が強くなってきた。
 親指で目元を押さえ、軽く頭を振る。隣のイドルフリードは寝入ってしまったのか、先程から静かだった。
(いや……彼も本来なら睡眠は必要ないはずだ。真似事に過ぎないのかもしれない)
 そっと様子を窺ってみたが、こちらに背中を向けているので確認はできない。片腕を枕に横になっている。寝返りどころか身動きひとつしないので、狸寝入りか、あるいは単純に休憩を取っているのかもしれなかった。
 最近までは自分が入っていた身体だ。その背中が目の前にある事で、否応なくイドルフリードの存在が途方もないもののように思えてくる。声をかけようかと迷ったが、特に用事がある訳もなく、メルツは再び視線を手元に戻した。
 エーレンベルク稿。ページの所々には、紙魚や黴、鼠に齧られた箇所などがあり、文章が途中で途切れている部分もあった。
 この欠落を利用して、上手いところ物語を海に繋げられないだろうか。収録されたいくつかの童話は自分も覚えがあるものだ。お菓子の家の話、継母の毒林檎の話、百年の時を止めた塔の話……復讐劇で使った題材が並んでいる。
 しかし記憶になくとも、どこかで見た事があったと感じる話が混ざっていた。メルツ自身が覚えていなくとも、策者であるイドルフリードが何度も童話の再演を図り、その時に選ばれた物語である。既視感に襲われながら物語を読み込んでいたメルツは、ある箇所で頁をめくる手を止めた。



 昔々、貧乏な女がいた。子供が二人あった。下の子の方は毎日森へ行って、薪をとって来なければならなかった。ある時、ずっと奥の方に行くと、体は小さいけれど、とても元気な子が来て、せっせと薪拾いを手伝ってくれた上に、家まで運んでから、そのままたちまち消えて見えなくなってしまった。子供はこの事を母親に話したが、母親は本気にしなかった。そこで子供は薔薇を持ってきて「その綺麗な子が薔薇をくれて、この花が咲いたら、また会いに来るっていってたよ」と母親に話した。母親はその薔薇を水へさしておいた。ある朝、子供がなかなか床から出てこないので、母親が様子を見に行くと、その子は死んでいた。だが、子供の死に顔はとても優しいものだった。薔薇は、ちょうどその頃、ぱっと咲いた。



『ばら』と題された短い童話である。
 そう状況は似ていないはずなのに、メルツが『薔薇』『森』『母親』『死』といった単語でエリーザベトとの事を連想するのは自然な成り行きだった。文字を押さえるように指先で字面を追う。そうしなければ物語が逃げ出してしまうかのように。
(僕たちはこの頃、もっと長い間一緒に遊べたけれど)
 幼い頃、彼女に薬草採りを手伝ってもらった記憶が甦った。そして屍揮者として磔にされた彼女を見上げた時の記憶も。
 この童話の中では、薔薇を持ってきた子供がいわゆる死神的な位置にあたるのだろう。まさしく自分が、かつてエリーザベトにとっての死神だったのも同じだ。重なる部分も多い。
 これから行う童話の再演が七番目まで達した時、この話を元にして悲劇を回避できないだろうか。例えば森で薪を拾う子供達に自分達を投影して――母親は文字通りテレーゼになる――薔薇が咲かないように細工を――。
 そんな事を取り留めなく考えていると、部屋の扉が躊躇いがちに二回、こんこんと叩かれた。
「まだ起きてる?」
 少年の声である。メルツは咄嗟に草稿を閉じた。構わないと了承すると、獣の巣穴にでも招き入れられたようにハンスがおずおずと姿を見せる。意外にも一人のようだ。メルツは寝床から上半身を起こし、小太りの少年が固い顔で後ろ手に扉を閉めるのを見守った。
「こんな夜更けに何かあったのかな。他の三人は?」
「眠ってるよ。今、ちょっとだけ抜け出してきたんだ。えっと……聞きたい事があって」
 ハンスはちらりと横になっているイドルフリードに視線を注ぐ。どうやら彼にも関係のある事らしい。しかし相手が動き出さないので寝ていると判断したのか、少年は諦めて口を開いた。
「昼間の婆さんの事なんだ。あの人……本当に悪い魔女だったんだよな?」
 奥歯に物が挟まったような話し振りだった。探る瞳を向けられて、メルツも答えに慎重になる。少年が何を言いたいのか、寝ぼけた頭では上手く推測できない。
「グレーテルはさ、俺を食べようとした人食いの魔女を退治したんだって思ってる。さっきの事も娘さんに会って、改心したから成仏したんだって。でも……もしって思ったんだ」
 もし、最初から違っていたら。魔女ではなかったら。
 メルツは合点した。少年はようやく思い至ったのだ。もしかしたら妹が、罪を犯したのではないかと。
「君は本当の事が知りたいのか?」
 ハンスは黙り込んだが、唇の端がひくひくと震えているのが分かる。どう答えるべきか正解を出しあぐねているのだ。メルツの気分を損ね、結果的に妹へ告げ口されるのも恐ろしいに違いない。しかし尋ねる声に非難の色がない事に勇気付けられたのか、彼は考える事を放棄して、やや投げ遣りに首を振った。
「……ううん、俺、本当の事なんてどうでもいい。グレーテルが嫌な思いをしなきゃ、別にいいんだ」
「それは随分と勝手な理屈だな」
 横合いから声が掛かる。驚いて視線を転じれば、イドルフリードが寝転がったまま頬杖を付いて二人を見上げていた。
「イド、起きていたのか?」
「君達がこそこそと話しているので起きてしまったよ。つまりハンス。君は真実がどうであれ、グレーテル嬢には魔女の件については何も疑いを持たせるな――そう我々に釘を刺しに来たのだな?」
 メルツとは違い、彼の問いかけには明らかな蔑みの響きがあった。ハンスがたじろいで身を引く。じり、と蝋燭の芯が不穏な音を立てた。
「誤解は最もありふれた悲劇だが、当人にしてみればこれ以上ない屈辱でもある。元が善意であったなら尚更ね。確かに我々が君達を利用して復讐に誘ったが、それと同時にグレーテル嬢が思い込みで親切な老婆を焼き殺したのも事実だ。君はそれを覆い隠そうと言うのだな?」
「……そう、だよ」
 イドルフリードの視線に気圧されながらも、ハンスは引かない。逃げれば背中から食いつかれるのだと本能的に知っている小動物のようだった。
「親にさえ捨てられた俺達に、今更説教したって無駄だぜ。だってあの時は、婆さんに殺されると思ったんだ。早くしないと食われるって。俺が太っちまって何もできなかったから、代わりにグレーテルがやってくれたんだよ。疑われるような事をしたあの婆さんが悪いんだ。それに……昼間、天国に行ったんだろ。なら、めでたしめでたしじゃないか。俺、グレーテルが傷つくの、嫌だよ」
 あまりにも悪びれない、素直な言い方だった。利己的と言えば利己的である。彼は兄として、妹の上に余分な火の粉が降り注ぐのを嫌ったのだ。
「ふん……そうかね。いいとも、特に私からは口を出さんよ。子供の情操教育まで考えるほど暇じゃない。今までだって何も言わなかったろう?」
 メルツが言葉を失っている間にイドルフリードが答えた。先程の口調とは打って変わり、途端に興味をなくした様子である。ハンスがほっと肩から力を抜き、続いてメルツへと視線を注いだ。懇願の眼差しに根負けした訳ではないが、当時の事を思い返せば頷くしかない。
「……あの復讐劇を操っていたのは僕だ。何か言える立場じゃないよ」
 そもそも『火刑の魔女』は修道女の恨みが望んだ一幕。彼ら兄妹は加害者であると共に被害者でもある。メルツも屍揮者として彼らの舞台を楽しんだのだ。今更二人の何を責められよう。誤解が招いた悲劇と言うのであれば、老婆が修道女を殺してしまった時点で既に成立している。
 ハンスは二人の答えを聞くと、安心したようにそそくさと部屋に戻っていった。遠ざかる足音を扉越しに見送りながら、メルツは改めて自分の肩に圧し掛かっているものの大きさに愕然とする。
「……あれで良かったんだろうか」
「構わんだろう。それに周りがどう手を打とうとも、気付く時は自分で気付くさ。そういうものだ。子供は我々が思っている以上に現実的な生き物だよ」
 さらりと言いのけたイドルフリードが再び背を向けて寝床に潜り込む。メルツは座り込んだまま、しばらくうなだれていた。
「早く寝たまえ。辛気臭くて敵わん」
 見かねたのか、あるいは本当にうんざりしたのか、イドルフリードがこちらを向いた。
「前に言っただろう。復讐とは本来なら正統な権利であり、時には美談ですらある。それを行使するかしないかは当人の判断だ。それを手伝ったからと言って君が気に病むのなら、私などどうなるのかね?極刑か?ならば永遠に海などには辿り着けまいよ」
 とにかく寝たまえ、と蝋燭を吹き消される。乱暴な方法だったが、炎が消えて流れ込んでくる闇の匂いは、皮肉にもメルツにとって親しいものだった。再び眠気が戻ってくる。
 緩慢な動作で重い体を横たえ、眠る体勢に移った。草稿を枕元に置き、睡魔に意識を明け渡すと手足から力が抜けていく。寝具はお世辞にも清潔とは言いがたかったが、身体を優しく包んでくれた。
(エリーゼが僕を眠らせようとしなかったのは正解だったかもしれない。死が眠りと似たようなものだとしたら、少し心地よすぎる。何も考えなくていい)
 そう思い、瞼を閉じた。 



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