糸と手札









 見知らぬ子供たちに手を引かれながら、エリーザベトは森をひた走っていた。
(このまま、ついていっていいのかしら)
 屍揮者として目覚めたばかりで、イドルフリードに懐いている訳でもなければ自分の意思もまるで持たない。状況に流されるまま、立ち止まったら腕が引っ張られて痛いだろうと思う程度の理由で、エリーザベトは足を前へと進めていた。
「みんな足元に気ィ付けろよ、根っこがあるから!」
「お兄ちゃんも遅れないでついてきてよ、あの人が追っかけてきたらどうするの!」
「いや、まだ腹が痛くてさぁ……!」
 子供たち――トム、ハンス、グレーテルが枝を薙ぎ払いながら口々に言う。騒々しい事この上なかったが、森に慣れているのか妙に自信たっぷりだった。エリーザベトも頼りない足取りでそれに続き、でこぼこの道を突き進む。
 どのくらい走っただろう。木々は徐々に密集し、ぎっちり互いの枝を噛ませると、徐々に本物の石壁へと姿を変えた。遂に教会の出口になる。潜り抜けた途端、ふっと森の威圧感がなくなり、月に照らされた墓地が広々と左右に浮かび上がった。
「ここまで来れば大丈夫じゃね?」
「うん。でもどこだろうね、ここ」
 吹き抜ける風に汗ばんだ髪を掻き上げ、トムとグレーテルが改めて教会を振り返る。エリーザベトは立ち止まれてほっとしたが、ほどなくして二人が「ハンスがいない!」と騒ぎ始めた。
「忘れてた、あいつ、太ってから足が超遅くなったんだよ!グレーテルを助けに行った時は根性だったけど、もうスタミナ切れだぜ!」
「お腹も痛いって言ってたし、置いてきちゃったんだわ!早く引っ張ってこなくちゃ!」
 二人は青い顔をして手早く話をまとめると、くるりとエリーザベトに向き直った。自分とは関係なく物事が進むのに慣れ始めていたエリーザベトは急な視線にどきりとする。年長者らしく、先にトムが口を開いた。
「あのさ、俺達ハンスを探しに行ってくるから、お姉さん、ちょっとここで待っててくれる?」
「……私、一人でいるの?」
「うん。でもお兄ちゃんを見つけたら、すぐに迎えに来るから!」
「迎え、に?」
 無意識に繰り返したグレーテルの言葉が、まるで舌に突き刺さったようだった。さっと血の気が引き、エリーザベトは上手く呼吸ができなくなる。喉に詰まった塊が熱くて仕方のないものだったように、肺が勝手に空気を吸い、悲鳴のような声を上げさせた。
「い……嫌です、置いていかれるは、嫌!迎えになんてこなくていいの、だから、連れて行って!」
 こんな何でもない言い方をして、この子達はきっと戻ってこない。迎えになんてこない。何の根拠もないのに、エリーザベトは一人ぼっちで待ち続ける自分の姿をありありと思い浮かべる事ができた。それがどんなに寂しくて胸が引き裂かれる苦しみなのか、細胞のひとつひとつが訴えている。
「え、そんなに嫌なのか?別にここはそんなに危なくないって。多分だけどさ」
「うーん、どうしよう。本当なら私も残りたいけど、お兄ちゃんがへたりこんでたら二人がかりで担がないと戻ってこれないし……」
 取り乱す彼女を見て、子供たちも困った顔になった。大人の都合に振り回されるのは慣れているが、この品のいい令嬢が半泣きになっているのを見過ごすのは忍びなかったに違いない。グレーテルがぽんと両手を叩いた
「そうだわ、こうしましょ!お話で聞いた事があるの!」
 グレーテルは上着の縁を飾るレースを爪先で破くと、その端を摘み上げた。ぴりりりと小さな音がして、一本の黒い糸を引っ張り出す。
「これをお姉さんが持っていればいいわ。私が前に進むだけ振動が伝わるの。だから無事でいると分かるはずよ。戻ってくる時は引っ張って合図するから、心細くないでしょ?」
「え、ええ……」
 満面の笑みでグレーテルが差し出す糸を、エリーザベトは恐る恐る握り締めた。心許ないが、置いていかれるよりは良い。必ず帰ってくると約束すると、二人は息巻いて教会の中に戻っていった。小刻みな振動を立ててレースの糸が伸ばされていく。
(どうしよう)
 残されたエリーザベトは石段にしゃがみ込み、その僅かな感触にすがった。何故こんなに不安なのか自分でもよく分からない。糸を握ったままじっとしていると、足元が揺らいで体がばらばらになってしまうような気がした。
 糸を見る――大丈夫、動いているし、どんどん伸びていく感覚が伝わってくる。
 彼女は状況を省みる事はしなかった。何だかよく分からないまま目が覚めたら、指揮棒を持たされ、劇を楽しんでいたら色んな人が来て、ここに置き去りにされてしまった。その程度の認識だ。本来のエリーザベトであったら思慮深く考え、どのように自分が動くべきか選択できただろう。記憶がなくなり精神が退行している事は明白だった。知識や経験の手札がなくなってしまったのである。
 エリーザベトは不安を紛らわすように周囲に目を走らせた。月に照らされた墓地。立ち並ぶ墓の向こうには黒くこんもりとした森が広がっている。強い風が吹き抜けると、それらはくすぐられたように身を捩り始めた。風は乱暴にエリーザベトの髪を撫で、怯えさせるようにびょうびょうと音を立てる。
(樫、トネリコ、糸杉……)
 彼女はなけなしの記憶を引っ張り出し、樹木の名前を数え上げた。落ち着く為の一人遊びである。森は塗りつぶされたように暗く、ほとんど見分けが付かなかったが、墓の間にひょろりと生えている潅木のいくつかは判別する事ができた。そうして自分に一番近い場所から樹の名前を順々に思い浮かべていると、気になるものが目に入ってくる。
(さっきのお婆さんの、お墓?)
 そろりと糸を掴んだまま立ち上がり、墓石の前まで歩み寄った。ここは宵闇の墓地、普通の場所ではない。しかしエリーザベトはそれを知らない。何故先程までひとつきりだった老婆の墓が、地から湧いて出たように新しくできた娘の墓地と隣り合って並んでいるのか、その奇跡の価値を知らない。しかし恐る恐る冷たい石に手を伸ばし、雨晒しの砂を払い落して『母娘、死せる時まで誠実なり』と言う墓碑銘を眺めていると、胸の底がぽかぽかと暖かくなるような心地がした。
(もっと他に見たい)
 エリーザベトは後ろを振り返る。まだ誰も帰ってこない。糸もゆっくりと前に進んでいるだけのようだ。そこで彼女は糸が切れないように右手の四本の指に巻きつけると、慎重に墓地を見て回り始めた。
『あらゆる人よ、彼女の為に立ち止まり涙を流せ』『溺れた子がここに眠る』『彼の幸福は完璧なまま終わりを告げた』……エリーザベトはそれらを興味深く読む。
 墓地を進むと、小道の横手に井戸がある事に気付いた。とても古い井戸だ。よく見ると、石壁に何か彫ってある。絡まる薔薇の蔦を払うと、そこにも墓碑銘らしきものが見受けられた。専門の石屋ではなく素人が刻み込んだようで、文字は妙に歪である。
『メルツ・フォン・ルードヴィング 私の月光』
(さっき……の、男の人の名前)
 エリーザベトは目を細め、指先で文字をなぞった。彼を『月光』と呼ぶのは分かる。あんなに綺麗な銀の髪だったもの――そう考えた途端、自然と膝が震え出した。その反応に驚き、彼女は両手で自分の体を抱き締める。
(やだ、私の体、勝手に怯えてばかりいる)
 得体の知れない恐怖が彼女を包んだ。自分は一体どうなっているのだろう。これは名前、単なる墓碑銘だ。そして死んでいるはずの男の人は実際には動いたのだから、何も怖がる事はないのに、どうして自分は恐ろしい幽霊にでもあったような気持ちになっているのだろう。
 喉の奥から、飲み下せない熱がぶり返してくる。混乱する頭も内側から殴られているようにがんがんと痛んだ。嫌だ、考えたくない、見ていたくない――その一心でエリーザベトは立ち上がり、逃げるように井戸から離れる。
 しかし動作が乱暴すぎたのだろう。手に巻いていた糸が、ぷつんと切れてしまった。 
「あ……」
 しまったと思う暇もない。糸の端は吹き付ける風に乗り、大きく流されていった。歩いているうちに結構な長さになっていた為、すぐには捕まえられそうにない。糸は教会の入り口から右手に進み、踏みしめられた土の領域から、深く生い茂る森の方まで長く伸びていった。エリーザベトは慌ててその後を追う。
 捕まえなければ。そうしないと、あの子たちはきっと迎えにきてくれない!
 焦燥で目がくらんだ。開けた墓地と違い、元から教会の横には森が肉薄している。距離にしてみれば大した事はないが、かちかちと細い枝が互いに擦れ合い、骨のような音を立てているのが不気味だった。糸は一番手前の枝に引っかかり、エリーザベトの助けを待つようにゆらゆらと揺れている。
 砂利を踏みつけ、彼女はよろめきながら糸の端に手を伸ばした。短い下草を踏み分け、足先が森の領域へ入る――その途端、ぐっと喉を絞められた。
「きゃ……!」
 エリーザベトは呻く。犯人は襟元の鎖だった。先程まで大人しくぶらさがっていた鎖が、見えない手で左右に引っ張られたかのように、あるいは飢えた蛇のように、ぎりぎりと彼女の喉を絞めつけてきたのである。エリーザベトは驚き、そして混乱した。鎖を取り払おうとするが膝が崩れ、茂みの中に倒れこんでしまう。枝葉で夜空が遮られ、目の前が真っ暗になった。
 何だろう、これは。自分は何か罰を受けるような事をしたのだろうか?
「エリーザベト!」
 必死で抵抗していると、今度は別の力が胴体を持ち上げる。また何か怖い事が起こるのではないかと無我夢中で両手を振り回すと、大丈夫、大丈夫だからゆっくり息をして、と耳元で声がした。反射的に身をすくめると、彼女は更に後ろに引っ張られ、再び明るい土の下に出る。気が付くと喉の苦しさは消え、鎖は何事もなかったように大人しくなっていた。
「落ち着いて、もう何もないから」
 背後の声がそう言う。顔が見えないが、そこでエリーザベトは自分が抱き上げられ、森から引っ張り出されたのだと自覚した。胴に巻きついた二本の腕は男のものだ。げほげほと咳き込むと、その腕は解かれ、躊躇いがちに背中を擦った。
「気を付けたまえ。私と同様に、君は一人で墓地から出られない事になっているからね」
「うぇ、何それ?呪い?」
「墓地だけって嫌ね。ちっとも遊べないもの」
「いいから二人とも、もうちょっとゆっくり歩いてよ……」
 今度は横手から金髪の男性が――イドルフリードが呆れ顔でこちらを覗き込む。その隣には三人の子供たちの姿もあった。エリーザベトは安心する反面、また別の混乱に思考を絡め取られる。
 彼らが帰ってきたのは嬉しいが、先程までイドルフリードと対立していたはずだった。しかし今は普通に会話をしている。喧嘩をして、仲直りをしたのだろうか?
 怪訝なエリーザベトの視線に気付いたのか、イドルフリードはにやりと笑う。彼は両手を広げると、集う人々を掌で包むように指し示し、意地悪く言い放った。
「喜びたまえ、エリーザベト。愛に恵まれない家柄の君に朗報だ。どうだい、即席の家族ができたぞ」
「……それは違う」
 背後の声が複雑そうに呟く。さらりと髪が揺れる気配がした。おそらく首を捻っているに違いない。
「おや、何が違うと言うんだね。私が養父、君が夫、エリーザベト嬢が妻、子供が彼らだ。ばっちり勢揃いじゃないか。私も孫を持つ年になったのだな……感慨深い」
「いや、違う、色々と違う!そこは同盟とかでいいだろう!」
 今度こそはっきりとした否定が飛び出した。エリーザベトは突然の大声に驚き、ぱっと後ろを振り返る。怯えながら見上げた顔は予想外に青白く、それは彼の髪が明るく輝いている為だと気付いた。微かに頬が赤らんでいるのは、イドルフリードによる不本意な家族宣言の為だろうか。
(……ああ、そっか。『月光』の人)
 今度は不思議と怖くはない。墓碑銘を見た時はあんなに嫌な気持ちになったのに、体の震えも喉の熱さもなかった。エリーザベトは相手の顔をしげしげと見つめ、家族なのか何なのかよく分からないけれど、きっと悪くない集まりなのだろうと考える。安心して体の力を抜き、助けてくれてありがとうと言うと、その青年は切ない顔で「当たり前だよ」と言った。


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