黄金の鍵.1






 黄金の鍵に施された魔法の話をしよう。一度でも汚れてしまえば、どんなに拭っても落ちない糾弾の魔法の話。主人の許可なく扉を開けた者を告発する為、鍵穴には特殊な液体が塗られ、使用すると黒ずみ、どんなに隠そうとしても部屋を開けた罪を隠し通せない――そんな断罪の魔法の話を。
 果たして今まで何人の女達が、この鍵を使って悲鳴を上げる事になったのか。そして汚れた鍵を持つ妻を前に、何度、言いつけを破った裏切り者よと、主人の鞭が飛んだのか。
 やがて全てが終わり、次の女が城に招かれるまで、血塗れた部屋は再び黄金の鍵で守られる。砂糖漬けの杏の壜を蝋で密閉しておくように、長い階段には迷いの魔法、扉には目くらましの魔法が施され、黄金の鍵を持った人間でなければ部屋を見つける事はできないのだ。果てしない宵闇の中、死体の臭気は外に漏れる事なく秘密を保ち続ける。
 誰にも犯す事のできない楽園。それは追悼と墓標。黄金の鍵は一人の魔女が接吻し、力を込めた遺品。
 そう。本来ならこの鍵は暴く為ではなく、守る為のものだったのだ。
 かつて部屋に住んでいた一人の女の為、城の地下には幾重にも美しい魔法が施され、優しい子守唄と薬湯の匂いで満ちていた――。





 * * * * * * * *





 その年の夏、田園風景の中に佇む領地は曇天と共に不作の予感に覆われていた。中央を流れる川のおかげで水不足は免れたものの、夏の盛りでも太陽はなかなか姿を見せず、いつまで経っても土が温まる事はなかったのである。
 しかし城主の結婚となれば、食料不足の予感も何のその。農民達は大人しく祝いの品を積み、坂と路地の続く丘を上っていく。その先にあるのは階段塔が美しい古城、彼らの王が住まう場所だ。
「まあ、花嫁様のお美しい事。さすが花の都から来た人だわ」
「こりゃあ生まれる御子が楽しみだ。未来のご領主はたいそう男前に違いない」
 久々の娯楽である。彼らは無邪気に浮かれ、華やかな見世物を楽しんでいた。しかし一方で、こんな時に贅沢な宴を開いていいものかと不安も隠し持っている。しかし飢饉の際には領主の蔵から備蓄されている食糧が配布されると思い出し、ならばきっと大丈夫、充分な蓄えがあるのだろうと考え直していた。
(――だが実際、蓄えは少ない)
 彼らの会話を盗み聞き、一人の青年が舌打ちをする。
 城主の次男。やがて青髭と恐れられる男も当時は二十歳前の若者で、彫りの深い顔には申し訳程度に顎髭を蓄えている程度だった。ビロードで作られた緑と金色のマントを着込む青年は、精悍と呼ぶに相応しい風貌をしている。
 しかし、その表情は険しい。
(兄上も兄上だ。この時期に婚礼を挙げるとは)
 先を考えないお祭り騒ぎに不満が募る。兄のフリードリヒは享楽的すぎる面があり、美貌の花嫁に鼻の下を伸ばしている様子は青髭の失笑を促すものであった。不作の予感に加え、最近では国の周囲で小競り合いも多い。無駄な出費は抑えたいところだ。
 もちろん今回の婚礼で他国と手を結び、協力関係を築くのも悪くない。だが、果たして兄はそこまで考えているのだろうか。
 しかし、しょせん青髭は次男坊である。跡継ぎではない。政治に口立ちするのは浪費と同じ事だった。先の公は突然の病により、二人の息子にどう財産を分けるか公言しないまま天に召された為、兄のフリードリヒが大部分を継いだ。いずれ青髭はこの城を出され、己の力で身を立てる事になるのだろう。
(何をしても無駄な事だ)
 ままならない憤怒と諦観に、彼は肩の力を抜いた。兄に気に入られれば城に残され、今後も使われる事もあるのかもしれないが、あまり期待はしていない。
 来客の貴族にそつなく挨拶をしながら、青髭はゆっくりと宴の輪から外れていった。言葉は聞こえずとも、自分に向けられる哀れみの視線が肌に突き刺さってくる。寛容な兄は領地と花嫁を手に入れた。陰険な弟は今に城を追い出されるに違いない――。
 当時から、彼はやや猜疑心が強すぎる面があった。貴族社会に暮らしていれば多かれ少なかれ疑り深くなるものだが、相手の腹を探る事が癖になってしまった彼にとって、こうした明るい社交の場は毒にしか感じられない。
 城主の婚礼は夜遅くまで続き、宴は初夜の明けた翌日の昼まで開かれた。城の中にまで入れない使用人や農民達も、中庭で気の済むまで踊ったのだろう。馬鹿騒ぎにうんざりし、朝の散歩を楽しんでいた青髭は、さながら嵐が通り過ぎたような城内の様子に顔をしかめた。
 回廊を抜け、前庭へと向かう。遠来の客は早々に出立するつもりなのか、何台もの馬車が塀に沿って連なっていた。
 城門で慌しい気配がすると気付いたのは、その時である。
「――お目通し願う!城主フリードリヒ公の城はここか!」
 語尾が掠れた張り詰めた声。前方の騒ぎに興味を覚えて足を早めると、遠目に、見慣れない騎馬の一隊が佇んでいる事が確認でした。
「我が父、テューリンゲン選帝侯に代わって剣の協力を要請したい!どうぞお力を!」
 先頭の馬に乗って声を張り上げている人物が、最も身分が高いらしい。後ろには従者と思しき人間が十人ほど控えている。やがて声の主が女だと分かり、青髭は僅かに目を眇めた。
 喪に服しているかのように、女は全身を黒で統一している。乗馬用のズボンと長ブーツ。腰には一本の剣を帯びていた。衣服に宝石の類は一切散りばめられておらず、刺繍も全て布に馴染む黒銀の糸で施されている。色味と言えば、結い上げた髪に刺している青い花飾りだけ。
(……青い薔薇?)
 本物の生花なのだろうか。そんな色の薔薇、見た事も聞いた事もない。
 テレーゼ・フォン・ルードヴィング。
 彼女こそが黄金の魔法――女だてらに剣を振るい、怪しげな錬金術を趣味とする選帝侯の娘。当時の彼女は賢女でも魔女でもなく、ただこう呼ばれていた。
 青薔薇の狂候女と。



 * * * * * * * *



 城主フリードリヒは結婚式の翌日に訪れた招かれざる客を追い払いはしなかったが、ほとんど男装と言っても過言ではない装束に身を包んだテレーゼが面会に現れると、渋面を作らずにはいられなかった。寝不足でむくんだ顔が不機嫌に歪み、テューリンゲンの選帝侯は己の娘に常識を教えなかったのかと、そう皮肉ったのだ。
「何しろ川に霧がかかり、道もぬかるんでおりましたので。ドレスが水を吸うと馬も重たがり、道を進むのを嫌がりますわ」
 テレーゼは物怖じせず口元を綻ばせる。絶世の美女と言う訳ではないが、印象的な装束も手伝って目を惹く女だった。
「我が領地で反乱を企てている一味がおります。幸いな事に未だ決起には至っておらず、また、彼らの首謀者の場所を突き止める事に成功しました。父は大事になる前に全てを終わらせたい旨。つきましてはフリードリヒ公からも協力をお願いしたく、こうして参った次第です」
 男性的な清々しさを兼ねておりながら、掠れた声は甘やかで艶めいている。相対する人間から視線を決して外さない。ルードヴィング家には嫡男がおらず、第一継承権を持つのが正妻との間に生まれた彼女、テレーゼだった。選帝侯も娘を偏愛し、好き勝手に振る舞わせていると言う。剣や帝王学を学ばせ、いずれは初の女侯爵にするつもりではないかとの噂もあった――。
 フリードリヒは鼻っぱしらの強い女が好きではなかったし、結い上げた黒髪を飾る青薔薇も死人の肌のようで気味が悪かったが、ルードヴィング家は代々選帝侯を排出し続けた名誉ある一族だ。無下に扱う訳にはいかない。彼はテレーゼの要求に従って軍の応援を約束すると、契約の手始めに武器庫の一つを見せてやるよう弟に言いつけた。
(勇ましい女だな)
 狂候女の案内を引き受けた青髭は、見た事のない人種だと隣を行くテレーゼを盗み見る。歩を進める足捌きは剣客のように隙がないが、てきぱきと従者に命を下す手の動きは女性特有の柔らかさがあった。狂候女と呼ばれるだけあって指には剣だこがあり、爪にも薬草の煮汁が染み付いている。だが不思議な事に、それらは決して彼女の優雅さを損なってはいない。
(それにしても候女を使者に立てるとは、ルードヴィング興はどう言うつもりだ?)
 何か裏があるのではないのかと、青髭は疑惑を拭い切れなった。いくら有能とは言え、まさか自慢の娘を売り込みに送った訳でもあるまい。ルードヴィング家とは長らく友好的な関係を築いてきたが、このご時世、いつ飢えた隣国に噛み付かれてもおかしくはないのだ。一つだけとは言え、戦力をありのままに物語る武器庫を他国の人間に見せる事も抵抗がある。
 だが彼は根拠もなく盾突くほど浅慮ではなかったし、女性を貶めるほど品位も低くなかった。困惑を胸にしまい込み、ひとまずは兄の命に従って丁寧に使者を案内する。
 乾いた石造りの武器庫には、剣や斧などの基本的な武器の他、城主が集めた最新の大砲や銃も飾られていた。テレーゼは危うげない手つきで長銃を担ぎ、ためすがめす引き金や銃身を検分している。青髭は牽制の声を掛けた。
「失礼だが、銃は初めてか?」
「いえ、心配ありません。狩りの季節は私も似たような物を使います。弓よりも耳障りで腕が疲れますが――」
 彼女は横目で青髭を見た。
「あるいは貴方も、女だてらにとお笑いになる?」
  それは世間の非難を気にしない勇ましさと、女の道を外れた自虐とが入り混じる、複雑な微笑だった。微かに跳ね上がった細眉は、青髭が言葉に詰まる様子を楽しんでいる節もある。ふてぶてしい女だ。
 彼が首を横に振ると、再びテレーゼは武器庫を見て回り、火薬の量を調べ、馬の数を聞き、領地からは実際の所どれだけルードヴィングに提供できるのかと尋ねた。青髭は質問に答え、彼女の疑問を解きほぐし、一段落が着いたら用意した部屋で長旅の疲れを癒した方がいい、と忠告した。
「着替えも用意させよう。女性の身にマイセンの霧は辛かったはず。風邪をめされてはこちらの名折れだ」
「お優しいのね――隠さなくとも結構ですわ。フリードリヒ様が私の格好を気に食わないのは分かっています。お言葉に甘えて、着替えてきましょう」
 テレーゼは先程と同じ微笑を浮かべ、気配りのひとつひとつに礼を言った。青髭は部屋に向かう彼女を見送り、あの女は無礼なのか賢すぎるのか評価を測りかねる、と舌打ちをする。油断ならない相手だ。彼は警戒し、その後も狂候女の様子をひっそりと観察し続ける事になる。
 城での出来事はそう多くない。テレーゼが晩餐の席でフリードリヒの結婚を人並みに祝い、いくらか周囲の好感を得た事。自国の父に長々と手紙をしたため、改まった顔で早馬を飛ばした事。薬草園で園丁と長々と話し込み、いくつかの苗を分けてもらっていた事。時たま何かに追われるように剣を振るい、鍛錬を積んでいた事――。
 いつしか青髭は視界の隅にいつも彼女の姿を探すようになった。それは詩に歌われるような劇的なものではなく、春に花が芽吹くような目覚しい喜びでもない。人の立ち入らない室内に静かに埃が積もり、絨毯がすっかり色あせた頃、ふと舞い上がった塵が朝日にきらめくのを見つけるような、そんな薄ぼんやりとした愛着だった。
 物珍しい女。テレーゼ・フォン・ルードヴィングからは神秘と秘密の匂いがした。彼女を飾る青い薔薇のように。あるいは彼女が振り上げる剣の銀色のように。
 一度だけ手合わせをした事がある。テレーゼは動きやすい男装し、髪を全てまとめ上げていた。互いに練習用の剣を手に型通りの攻防を行い、それから好きなように打ち合うと、テレーゼは挑発にも乗らず、手首を返して剣先を払い、やや唐突に青髭の肋骨を狙い――その時、この女は殺されたがっているのではないのかと思った。足捌きは正確だし剣のラインも悪くないが、ここぞと言う場面での突きが乱雑になる。
「危なっかしくて見てられん。これならいっそ、剣など持たない方がマシだ。どうして父親は君に剣を習わせたんだ?」
「保険よ」
 この数日で青髭の存在に慣れたせいだろう。率直すぎる質問にも、テレーゼは物怖じせずに答えを与える。
「何か因縁でもあるのかもしれないわね。我が家では男子が育ちにくいの。最後まで跡継ぎが生まれなかった時の為に、父は私を用意した」
「それは――」
「同情なさらないで。私は決して不幸ではないわ。単なる女であるよりは、男の部分を持っていた方がずっと楽。こんな考え方、貴方がたは軽蔑なさるでしょうが」
「……軽蔑など」
 青髭は否定しながらも、激しい違和感を覚えずにはいられなかった。ルードヴィング家の家系図を必死で思い起こす。
(男子が育ちにくい?)
 ならば婿養子を貰えば良いだけの事。そうすれば血筋は残るのだ。わざわざ娘に男の真似事をさせ、嫁の貰い手を減らす事など、実の父親がさせるものだろうか?
 じわりと嫌な予感が青髭の胸を苛む。だが他家の問題を口出しする権利はなく、それ以上の詮索は諦めなければならなかった。
 テレーゼ・フォン・ルードヴィングは城内に数日滞在した後、借り受けた兵と武器を携えてテューリンゲンに戻っていった。青髭は城に残らねばならずそれを見送ったが、無事に反乱が鎮圧されたと兵と共にお礼の品が返された頃、またもや不穏な予感に見舞われる事になる。
 噂があったのだ。ルードヴィング家の妾が生んだのは体の不自由な不具の子だった、と言う噂。
 そして、それは薬草に精通した狂候女が密かに毒を持ったせいではないか。
 そんな悪意に満ちた噂が。



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