黄金の鍵.2







 さて、これが青髭公と賢女の最初の物語である。
 悪い噂が立ったものの、テレーゼはその後もしばしば外交の為に青髭公の城へ派遣された。
 麗しき男装の姫君。顎を上げ、決して同情を求めない女――しかし哀切を感じさせる女。時折、歴史にはこうした女が現れ、不用意に男の心を掻き乱しては去っていく。
 この二人がどのようにして親交を深めたのか、詳しく語るのは野暮と言うものだろう。しかし彼らの間柄は常に高潔であり、男女の関係に至らなかった事だけは確かだ。
 おそらく恋仲になるには、二人はあまりに似すぎていたのだろう。彼らはどこか自分の幸福というものを信じきれていない節があった。二人とも有能で、他人に対しては攻撃的なほど自信に溢れているのだが、同じくらい自虐的な部分も持ち合わせており、淡い恋など自分には似合わないと斬り捨てる。
 毒舌にも長けた二人だったから、感情を確かめようとしても腹の探り合いに疲れてしまう、と言う面もあったのかもしれない。それぞれが抱え込んだ鬱屈とした悩みは、家の事であり、国の事であり、打ち明けるにはいささか汚れすぎていた。二人は当たり障りのない――しかし辛辣な冗談で親交を繋げた。やがて年を経て疎遠になり、城の行き来もなくなっても、彼らは変わらず良き隣人、良き友人であり続けたのである。
 けれどテレーゼの登場が、青髭の人生に大きな影を落とした事は間違い。
 そう、彼が愛に飢えるのはもっと先の話。羊飼いが野山を見渡し、己の羊が元気良く草を食んでいるうちは狼に気付かないように、手の届くうちは満ち足りている。そして全てが食い殺された後、悔恨に満ちて羊飼いは嘆くのだ――どうしてこいつに名前を付けて可愛がってやらなかったのだろう、と。
 そう、未練に愛と名付けるのは、本当は簡単な事だ。それを認めさえずれば。
 だが果たして愛とは何だろう。恭しく肉を交え、快楽と引き換えに己の人生を捧げる犠牲的なものだろうか。それとも忠義深く主人の帰りを待つ犬のように、想い人の無事を祈り――あるいは疲れ果てた旅人が棒になった足を折り、遥か遠い誰かの為に花を摘み取る献身的なものなのだろうか。
 ともあれ青髭公の話を続けよう。さて、兄王がいるのに何故、次男の彼が爵位を継ぐ事になったのか?
 簡単な事だ。兄が死んだのだ。妃も子供を産んでいなかったせいで故郷に戻り、彼は思いがけず家を継ぐ事になる。その呆気なさに、青髭はむしろ怒りさえ覚えたほどだった。掌返しで世界が擦り寄ってきた、その厚かましさに。
 時が人を変える。争いが人を変える。歴史から数々の人物を引用せずとも、王の孤独と言えば大方は想像してもらえるだろう。
 野蛮な戦いも起こった。英雄とは即ち、使い勝手のいい武器の事である。彼は他の誰かの手を美しく保つ為、我が身を武器として戦地を奮い、黒く冷ややかな血に汚れていった。
 疎遠になっていたテレーゼが彼の城を訪れたのは、その頃である。彼の呼び名となる青髭が生え揃ったその時、狂候女はずぶ濡れになって、城の扉を叩きにきた――。




 * * * * * * * *




 数年ぶりに見た彼女は疲れきり、緊張で張り詰めて見えた。人を頼る事を知らない女がここまで追い詰められている事に、青髭は少なからずショックを受けた。
「少しの間だけでいい、匿って欲しいの。決して迷惑は掛けないわ」
 テレーゼは懇願しながらも、有無を言わさず城に入り込む。供も連れず一人きりで馬から降り立った彼女は、道の途中で雨にでも遭ったのか、黒い装束をべっとりと水に濡らしていた。
「それからお湯を用意して。この子が、凍えてしまう」
 彼女が胸に掻き抱いているものを見て、青髭は我が目を疑った。生まれたばかりの赤ん坊が、大事そうに布に包まれて眠っていたのだ。
 一瞬で、厄介事に巻き込まれたと分かった。ルードヴィング家の長女が赤子を連れ、人目を忍んで逃げてきたのだ。しかも親類縁者ではなく、ただの友人でしかない自分の元へ。
 嫌な予感しかしない。
「テレーゼ。誰の子だ」
「……私の子よ。他に何があるの?」
 それよりもお湯を、と彼女が怒鳴るように叫んだので、青髭も目下の追求は諦めた。しかし使用人に準備を命じながら、頭の片隅は凄まじいスピードで状況を探っている。
 どう見てもこれは訳ありだ。ルードヴィング家に何があったのだろう。昔からごたごたの耐えない家ではあったが、最近はヴィッテン家の台頭もあり、身内で争っている余裕はなかったはず。その上、テレーゼは正妻の娘なのだ。跡継ぎを生む彼女の処女性も重んじられていた。だからこそ父親は彼女に剣を習わせてまで自衛させていたではないか。その彼女が城を逃げてくるとは、余程問題のある男が父親だったに違いない。匿うとなれば、城の者にも緘口令を敷かなければならないだろう。彼女の身の安全は勿論、周囲に知られたら青髭も責任を負わされる事になる――。
 しかし打算的な考えの向こうで、テレーゼが子供を生んだ事実が徐々に大きくなっていった。
 誰が彼女の心を射止めたのだろう。孤高の女、同情を嫌った女。それをどこの男が?
 湯浴みで冷え切った赤子を温めさせ、テレーゼにも部屋と着替えを準備させると、青髭は書庫に向かった。彼女が落ち着くまでに調べておきたい事がある。
 薄闇の中、ルードヴィング家の家系図を開く。他家の情報を集めたものだから正確さには欠けるが、多少は役に立つだろう。テレーゼが城から逃げてきたとなれば、赤子の父親は親戚筋にいるように推測された。
 当主、亡くなった正妻、その娘のテレーゼ、愛妾、その子供――しかし不具。直系の男子はいない。現当主の兄弟の方には何人か息子がいる。テレーゼにとっては従兄弟に当たる男達なのだから、関係を持つならこのあたりだろう。しかし、逃げてくるほど問題が起こる相手だとも思えない。
 結局、本人に聞くしかないかないだろう。青髭は詮ない推測を諦めた。簡単に口を割る女ではないが、匿う以上、それなりの背後関係を知っておかねばなるまい。
 扉を叩いて入室の許可を求めると、少しの沈黙の後、是と応じる声がした。
「落ち着いたか?」
「……ありがとう。助かったわ」
 室内に足を踏み入れる。揺り籠に片手を置き、テレーゼが座り込んでいた。少しは気を持ち直したらしいが、まだ顔色が悪い。
「次からは先に手紙を寄こして欲しいものだな。君のような破天荒な女を迎え入れるには、我が家の使用人たちは些か度胸が足りない。それに、君に合う男の服もないのでね」
「そうね……そうするわ。次があったら」
 皮肉を言って近寄れば、テレーゼは痛々しく微笑んだだけだった。疲れているのだろう。以前のような切り返しもない。弱っている彼女など見たくはなかったが、青髭は自分の役割を放棄しようとは思わなかった。
「何があった?」
「――子供が生まれたの。でも、生まれちゃいけなかったんですって。ひどいわね」
 テレーゼはそれだけ呟き、投げ槍に肩をすくめた。後はご想像にお任せ、とでも言いたいのだろうか。青髭は咎めるように目を眇めたが、彼女は構わず、荒涼とした横顔で揺り籠を揺らしている。
 寒さで体力を奪われたせいか、赤ん坊は死んだように眠っていた。湯浴みの後なので頬は薄っすら赤味を帯びていたが、生気の感じられない透き通った肌や髪は、一掴みの雪の塊に見える。ぐずるように泣き声を上げたがそれも一瞬で、僅かに開いた瞼からは赤い瞳が覗いていた。
 アルビノ。
「――また、毛色の変わった子供だな」
「可愛いでしょう?」
 テレーゼは自虐的に笑った。
 異形の子は得てして体が弱いと聞く。男勝りのテレーゼから生まれたのが、このように儚い風情の赤ん坊だとは。
 一体何があったと言うのだろう。本当にこれは彼女が生んだのか?父親は誰だ?
 ルードヴィング家の家系図を思い起こす。結ばれるには問題がある男。生まれてはいけなかった白い子。熱心に剣の稽古を重ねていたテレーゼ。あれは何から身を守る為だ。戦からか、身内の陰謀からか。あるいはもっと――。
「最後まで跡継ぎが生まれなかった時の為に、父は私を用意した」
 過去の台詞を思い出し、青髭はハッとした。
 テレーゼは剣や錬金術の真似事など、おおよそ女らしくない趣味を持ち、更に男装を好んだ。まるで男達を牽制するかのように。狂候女の名は不名誉な事だが、父親はそれを咎めず、彼女の好き勝手にさせていた。正妻の忘れ形見だから甘やかしていたのだと思っていたが、本当はそんな事など気にも留めていなかったのかもしれない。
 なにせ、彼はルードヴィング家の家長。やる気になればいつでも娘を黙らせ、支配できる。いつでも剣を取り上げて、女らしくせよと言い渡せる。
「――まさか、子供の父親は」
 青髭の言葉の先を読んだように、テレーゼは激しく首を振った。
「いいえ、この子に父親はいないわ。この子は私の子。私が、神から授かった子」
「では君は何故、長い間男装をしていたんだ」
「やめてちょうだい」
「それに君の父上は、何故、君が剣を取る事を許した。何をしても許されたのに、何故、今になって逃げてきた?」
「……やめて」
「まさか父上が、君を――」
 テレーゼは弾かれたように顔を上げた。
「いいえ、決してあんな男の子種ではないわ!それだけは認めない!」
 彼女の声が尾を引き、部屋は残響に満たされた。その叫びはほとんど青髭の推測を認めたようなものだったが、ぎらぎらと光るテレーゼの眼光に言葉を飲み込む。哀れみと同時に沸き起こったのはルードヴィング家に対する嫌悪と、それでも子供を生かそうとするテレーゼへの純粋な疑問、そして恐怖だった。
 やがてテレーゼは声を荒げた事を恥じるように、ぐったりと額に手を当てる。
「……私が馬鹿だったの。アンネリーゼに同情して、いつまでも城に留まり続けたのが。父上も父上ね。まさか本当に私まで順番が回ってくるなんて――」
 こちらを見て、また肩をすくめた。
「おかげで、この子までアンネリーゼに殺されかけた。本当、笑っちゃうでしょう?」
 青髭は返事をしない。彼女が反応を求めているのは分かっていたが、それが辛辣な皮肉であれ慰めであれ、軽々しく口にするのは間違っている気がした。今になって自分の元にやってきた事も気に食わない。
 返事の代わりに、現実的な問題を尋ねる。
「子供は育てる気なのか?」
「……育てるわ」
「では、しばらく部屋を貸そう。乳母は探した方がいいか?」
 テレーゼは詰めていた息を吐き、首を横に振る。
「……いいえ。必要ない。自分の手で育てたいの」
「赤ん坊の性別は?」
「男」
「ならば、私と兄が昔使っていた品がある。しばらくはそれを使え」
「…………素っ気ないわね。もう少し驚きなさいよ」
「大方の事情は飲み込めた。早いところ処理した方がいい」
「まあ、そうね」
 テレーゼはぎこちなく片眉を上げ、頼むわね、と言った。その表情には安堵の色がある。青髭は無言で頷き、静かに部屋を後にした。
 疎遠になっていた自分の元に、彼女がわざわざ頼ってきたのは――他でもない、この素っ気なさを期待しての事。現実的な彼女の事だ。他の親類縁者でも女友達の所でもなく、この辺境領にまでやってきたのは、一緒に泣いてくれる相手を探しての事ではないのだろう。
 冷静に立ち回り、保護してくれる相手。確実な援助をしてくれる相手。その相手に、彼女は自分を選んだのだ。応じない訳にはいかない。例えそれが誇らしく、また、惨めであっても。




 * * * * * * * *



 テレーゼは長く青髭の所に留まるつもりはなかったようだが、病弱な赤ん坊を気遣っているうち、二年近く城に滞在する事になった。
 人目を忍び、彼女達が住み続けたのは地下の小部屋。元は青髭が一人きりでゆっくりする時に利用していた部屋で、おおよその設備が揃っており、赤ん坊の泣き声が外に漏れない事が決め手になったのだ。本当ならば陽の当たる気持ちのいい部屋を与えるべきなのだが、アルビノの子供は光に弱く、かえって地下の涼しさが尊ばれた。
 黄金の鍵はこの時に作られたのだ。
 秘密を守る為に。罪の子供を守る為に。テレーゼが一本、青髭が合鍵を一本。
 秘密を知る一部の使用人達は、地下の子供部屋を掃除する際には必ず二人のどちらかから許可を取り、扉を開けてもらわなければならなかった。不思議な事に、鍵を持っていなければ地下の小部屋までは辿り着けない。いつの間にか同じところをぐるぐる回っていたり、方向感覚を失くして迷ってしまう。
 青髭は、これは君の仕業なのかと尋ねた。テレーゼは単なるおまじないよ、とだけ答えた。
「魔法でなくとも、めくらましはできるわ。目の錯覚を利用して遠近感を狂わせる事も、薬草を焚いて人間の感覚を鈍らせる事もね」
 思えばあの頃から、テレーゼは魔女の才覚があったのだ。やはり男子が満足に育ちにくい家系なのだろう。息子が盲目だと気付いた日、彼女は何度も「こんなふうに産んでしまってごめんなさい」と謝っていた。そして部屋に様々な器具を持ち込み、薬を作り始めた。鬼気迫るほどの熱意で。
 薬草と乳の匂い。赤ん坊の笑い声、凛とした子守唄。地下には似つかわしくない柔らかな空気――。
 青髭はいっそ、このまま彼女を妻に迎え入れてしまおうか、とも考えた。訳ありの女をいつまでも善意で滞在させておくのは上手い手ではない。妻にしてしまえば、少なくともルードヴィング家から守る名目は立つ。子供にだって教育が必要だろう。
 しかし、自分とテレーゼが?
 青髭は違和感しか覚えなかった。自分達が似たもの同士である事はとうに自覚しており、同じ城に住むようになってから、それはどんどん顕著になっていたのだ。テレーゼを愛するのは鏡を愛するようなものだ。気は合うが、同じくらい疲れる事になる。
 しかし必死になって子供を育てる女の姿を見れば、その躊躇いも自然と薄らいだ。
「もういいではないか。そう意地を張って何になる?」
 子供を寝かしつけているテレーゼに、青髭は不機嫌を隠さず告げる。
「いつまで日陰で暮らすつもりだ。表にでて、クソ忌々しい父親を見返してやれ。その為なら、伯爵夫人の名くらい貸してやる」
「……それはプロポーズのつもりなのかしら?」
 テレーゼは笑えばいいのか何なのか分からない、といった表情をしていた。
「君がいつまでも地下でこそこそとしているのが気に食わんだけだ。さっさと片を付けてこい。兵も貸してやる」
「ちょっと、貴方の辞書はどうなっているのよ。もう少しまともな言葉はなかったの?」
「プロポーズなものか。私は心底この状況が気に食わないんだ。いっそ結婚して、堂々と君を表に出して、ルードヴィングと事を構えた方が余程いい」
「やっぱりプロポーズじゃない」
「参謀になってやろうと言っているだけだ」
「嫌よ。貴方みたいな陰険な参謀、気を抜いたら後ろから刺されそうじゃない」
 二人はしばらくああだこうだ論じ合ったが、途中で赤ん坊が泣き出し、あやしているうちに馬鹿らしくなってしまった。
「ありがとう、申し出は嬉しいかったわ」
 しばらくしてテレーゼが言った。
「でも――この子を貴族の世界で育てたくない。貴方にもこれ以上迷惑を掛けられないわ。メルがもう少し丈夫になったら、この城を出ていくつもり」
「……出さんぞ。危なっかしい」
「駄目よ。もう家だの何だの、難しい事は考えたくないの。伯爵夫人も大変そうだし……そうね、畑でも耕して地道に暮らしていきたいわ」
「出さん。ここにいろ」
「無理ね」
 テレーゼは眉を下げて笑い、青髭も舌打ちをしただけで、それ以上は言わなかった。

 二年目の春。
 言葉の通り、テレーゼはある日逃げるように城を去っていった。前触れもなく、迅速な出奔だった。せめて出て行くのなら声をかけていけと青髭は憤慨したが、出発を告げられても理由を付けて反対したかもしれない。テレーゼは青髭をよく理解していた。
 がらんとした肌寒い部屋に、置き手紙が残されている
 文面は、青髭に対する感謝の言葉で埋め尽くされていた。そのくせ足跡を辿らせるような文句は何一つ書かれていない。本当に行方をくらますつもりなのだと分かり、彼は苛立たしげに壁を叩く。
 テレーゼは子供と一からやり直すつもりなのだ。そこに過去は必要ない。そうして斬り捨てられた中に自分も含まれている事を、青髭は充分に知っていた。最初から手元に置いておける女ではないと分かってはいたのだ。
 手紙は「借りはいつか返しに行く」と言う文句で結ばれている。子供が無事に大きくなった時、彼女はまた姿を現すつもりなのだろうか。菓子折りでも持って、あの時はお世話になりました、と?
(……馬鹿らしい)
 そう思いつつ、彼女が使っていた家財を最後まで処分できなかったのは、苦い未練のせいだろう。手紙の横には返された黄金の鍵が置かれており、青髭はそれを使って部屋を封じ、人を使ってテレーゼの行方を捜し始めた。彼女がそう簡単に尻尾を出すとは思えないが、無事を確認しない事には安心できない――。
 禁じられた部屋は、そこでしばらく忘れられる事となる。
 時折、使用人が掃除に訪れた。彼らは埃を掃き改め、床を磨き、蜘蛛の巣を払い、湿気を吸う干草を置いた。けれど誰も椅子には座らず、暖炉に火を入れず、寝台は安らかに眠ったままだった。
 部屋が目覚めるのは、もっと先の事。黄金の鍵が血を吸い、捩れた愛情を試す事になるのは、そう、もっと先の出来事だ。







END.
(2011.04.02)

テレーゼの男装は完璧に私の趣味です。




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