異端の告白.1




※若干の性描写・暴力描写注意









 私に名は必要ありません。
 ええ、そんなものはすっかり忘れてしまいました。なんと呼んで下さっても構いませんわ。
 そもそも――女に名など必要なのでしょうか。光の下で生きていた時分から、私は父の名の下に呼ばれ、嫁いでからは夫の名の下に呼ばれてきました。誰々の娘、どこどこの妻、と言うように。もちろん親しい間柄、例えば懐かしい故郷の両親や妹、それから友人達から愛情のこもった声で呼ばれる事はありましたが、それも今となっては遠い幻のよう。
 思い返せば婚礼の席で神父様に呼ばれ、愛を誓ったあの日が、私の最初の葬式でした。私の名は永遠に奪い取られ、手の届かない冷たい土の下に埋められてしまったのです。夫は決して私を名で呼びませんでしたから。
 ああ――今でもあの人の、飼い犬を呼びつけるような声が聞こえる気がします。
 あの城の中で私は『おい』であり、『お前』でありました。時には『躾けのなっていない』だとか『忌々しい』などの言葉が付随する事もありましたが、ほとんどの場合、私はその短い呼びかけの中に押し込められていたように思います。彼の呼吸、彼の憤怒、彼の悲嘆の合間に。
 ですから私自身もこうして忘れてしまったのでしょう。ええ、もう思い出したくもありません。肉体よりも先に葬られてしまった名前。あの人が呼んでくれなかった名前など――。
 私に必要だったのは肩書き。称号。属する土地と後ろ盾。誰の娘で誰の妻であったかと言う記録だけ。
 それでも形式上の呼び名が欲しいと言うのでしたら、どうぞこうお呼び下さいませ。もっとも忌まわしい名、もっとも愛しい名で。
 青髭伯爵夫人と。




 * * * * * * * 




 彼の元に嫁ぐ事になったのは、私が十七の誕生日を迎える少し前の事です。
 夫となる男性はもちろん知っていました。隣国の伯爵で、先の戦争でも目覚しい活躍をなされた方。なんでも馬車で町を通りかかった時、私を見初めたと言う話です。
 彼は長い間独り身でした。つまり私は第一夫人、正妻の座に上がる事になります。この夢のような成り行きに父と妹は飛び上がり、母などは感激のあまり寝込んでしまったほどでした。しがない町役人の娘でしたから元より持参金など雀の涙ほどで、母と妹が大急ぎで用意してくれた花嫁道具の他には何もなく、私は新居に連れて来られたのです。
 城は巨大でした。何よりも堅固さが際立つ造りで、人の手による建築物と言うよりも、地中から突き出した岩の塊が神の気紛れでこねくり回され、無数の部屋や通路を形成したように思えました。この城を妻として取り仕切らねばならないのだと思うと、あまりの事に眩暈がしたものです。廊下は気紛れに屈折して歩く者を迷わせ、美しい花瓶やフレスコ画が飾られた部屋も窓は小さく、雨風を常に警戒しているような様子。おかげで光は充分に入らず、侵入者を阻む為なのか階段はちぐはぐな場所に設置され、案内される先から頭がこんがらがってしまいそうでした。
「そう怖がらずとも良い。どれほど陰気でも、この城には亡霊など出ん」
 余程私が不安な顔をしていたのでしょう。夫は最初そう言いました。
「申し訳ありません、立派なお屋敷に萎縮してしまって……見取り図はないのでしょうか?」
「必要ない。城の情報を外部に流出する危険は避けねばならん」
「けれど、これでは迷ってしまいますわ」
「杞憂だ」
 夫は断言しました。じきに慣れると言う事なのだと解釈し、私は彼との長い結婚生活を考え、ただ頷きました。
「何故お前は、私との結婚を承諾した?」
 しばらくして彼が尋ねました。ですが困った事に、あれこれ理由を述べ立てても彼は「上っ面の答えはいい」と跳ね除けてしまうのです。ですから最終的に、とても下らない理由まで喋らなければなりませんでした。
「貴方の髪が――それにお髭が青かったから、かもしれません」
「何?」
「子供の頃から、もし夫を持つなら自分よりも濃い色の髪の方がいいと……」
 私は頬を赤らめながら、しどろもどろに説明します。
「この通り、私の髪は女にしては暗すぎて。もう少し暗いか明るいかすれば様にもなったのですが、どうにも中途半端で気が強く見えると、父に散々言われたものですから……しとやかな妹の金髪がどれだけ羨ましかった事でしょう」
「ふ、ははは!」
 彼は声を上げて笑いました。
「成る程、それはいい!確かに私に比べれば、お前の髪の暗さなど微々たるものだ。気が強そうにも見えんだろう!」
「え、ええ。ですから貴方のお隣でなら、自分を偽らずに暮らしていけるものと――」
「ふ、そうか、それは結構!」
 彼は尚も笑っていました。それは物知らずな子供を相手にするような笑い方で、馬鹿な事を言ってしまったと後悔しましたが、それでも彼の笑い声を聞いて安堵する節はあったと思います。
 当時の私も、おおよそ他の花嫁達と大差なかったでしょう。突然の事に驚き、有頂天になり、けれども不安も色濃い――世界中のどこにでもいる臆病な小娘。彼の笑い声に一喜一憂する花嫁でした。
 ええ、緊張していたのも無理もありません。夫は屈強な男性で、城と同じように少しばかり厳めしすぎるように思えました。男盛りの生気に満ちていましたが、眉間に寄せられた皺は渓谷のように拭い去れない深いものとなっていましたし、気難しい風貌と相まって、どことなく恐ろしく見えたのです。けれども妻に迎えて下さった事は身に余る光栄でしたし、これからの日々の中で彼と理解を深め合っていくのだと思えば、それも尊いものに思えました。
 それに――あの声。低くて、影のある、男性的な官能に満ちた声。
 おそらく戦場でも雄々しく響くのでしょう。城を淡々と案内しながら紡がれる言葉の数々に、私は聞き惚れていました。やがて私が跡継ぎを産み、この声を受け継ぐ子供の成長を見守るのだと思うと、体が奮えるほど誇らしく思った事を覚えています。
 初夜も、何一つ恐ろしい事はありませんでした。もちろん苦痛はありましたが――それは女にとって通過儀礼のようなものですから。夫が殊更優しかった訳ではありませんでしたが、私にとっては初めての経験でしたし、例えこの時どんなに乱暴な事をされても夫婦の夜とはこういうものなのだろうと容易く信じていた事でしょう。
 もしもこの時、彼が私をぶつなり蹴るなりしていれば、後の悲しみはもっと少なかったかもしれません。けれども最初の夜、夫はきちんと手順を踏み、さほど熱心でなくとも私を愛してくれたのです。私は娘から女になり、伯爵夫人として生まれ変わりました。
 それからしばらくは平和な日々が続きまりました。とは言え、結婚を祝う訪問客が城に滞在していましたので彼らのお相手をしなければなりませんでしたし、使用人達と仲良くなり、生活の細々とした仕来りを学ぶ事に忙しかったのは確かです。けれども私にとっては平和な、何の不安もない幸福な日々でした。夫と二人きりになる時間はそう多くなく、寝室では言葉よりも夫婦としての勤めがありましたから深い話をする事はできませんでしたが、愛されている事を疑いはしなかったのです。
 ああ――そう言えば一度、彼と近くの森を散策した事が。何人かお客様も一緒でしたが、私は彼と腕を組み、何度か転びそうになったところを支えてもらって――そう、靴も新しいものを買ってもらった……。
 異変が起こったのは滞在客が減り、城の中が静かになった頃。私が徐々に城での生活に慣れ、あれこれ自由に歩き始めた頃でした。
 夫が領地の見回りに一週間ほど城を離れる事になったのです。彼がいなくなるのは心細い事でしたが、慣れない人々の間で慌しく立ち回った後でしたから、正直なところ一人きりでゆっくり過ごせる事を嬉しく思ったのも確かでした。夫はあまり喋る性分ではありませんでしたし、物腰にも威圧的な部分があって、始終一緒にいる事に気疲れしていた事もあります。この機会にゆっくり腰を据え、城を探索してみよう。そんなふうにも思っていました。
 けれど夫が旅立つ朝、目覚めた私は身支度を整えようとして、その自由を奪われた事を知ったのです。
 両の足首に巻かれた銀の輪。そこから寝台の柱へ絡まる、銀の鎖――。
 呆然としました。まだ夢を見ているのだと思いました。果たして誰が信じられるでしょう?罠にかかった野犬のように自分が繋がれているなど。
「ようやく起きたか」
 はっとして顔を上げれば、夫が静かに私を眺めていました。
「あの、これはどう言う事でしょう?」
「見ての通りだ。留守の間、こうしていればいい」
「そんな……ご冗談は止して」
「冗談でこんな事をする男がいたら、そいつこそ本物の異常者だ。なに、鎖と言っても部屋を自由に歩けるほどの長さがある。世話は侍女にやらせよう。不自由はしまい」
「お願いです、こんな、おかしいわ――」
「主人の言う事が聞けないのか!」
 それまで淡々と喋っていた彼が急に声を張り上げたので、私はすっかり縮こまってしまいました。びりびりと窓が揺れます。
 夫は怒鳴った後、すぐに平静に戻って部屋を出て行ってしまいました。ですから取り残された私は途方に暮れ、両足に絡みつく鎖を眺めるしかできなかったのです。
 例えどんな性質であれ、夫は約束を違える人ではありませんでした。ですから言葉の通り、部屋での生活に不自由はありません。食事も着替えも侍女が手伝ってくれましたから、私はただ病人のように世話を受けていれば良かったのです。
 部屋の反対側にある文机や鏡台までは歩く事ができましたし、寝台の脇には書庫から運ばせた本が山のように積まれ、いくらでも暇を潰す事はできました。排泄用のおまるもありましたし、体を清めたいと思えば桶を用意してもらい、簡単な湯浴みもできたのです。
 けれど――眩暈がするほどの憤りは確かに存在しました。一体どこの誰が、新妻を鎖で繋いでおくものでしょう。私は夫の所業に呆気に取られ、次に憤慨し、最後は恐ろしくなりました。
 こんな事、まともではありません。何か伯爵を怒らせる事をしただろうか、これはその罰なのだろうかと考えを巡らせてみましたが、特に思い当たる節はありませんでした。
「奥様、旦那様はお疲れなのです。だからこんな事を……」
 鎖に繋がられた足首を濡れたタオルで拭いながら、侍女は心苦しそうに励まします。
「ええ、きっと旅先で後悔なさっておいでですわ。お帰りになったら、すぐ外してもらえますよ」
 確かに一週間が過ぎて帰還すると、夫は自らの手で錠を解き、鎖を外してくれました。どうしてこんな事をしたのかと詰め寄りたい気持ちで一杯でしたが、何事もなかったかのように振る舞う彼の態度が恐ろしく、何かに苛立っている気配も肌で感じられましたから、私は言葉を飲み込む事しかできなかったのです。
 そんな生活が一年は続いたでしょうか。
 その頃、夫は決して暴君と言う訳ではありませんでした。私の提案に耳を傾け、客間に新しいカーテンを発注し、時には様々な贈り物をしてくれる程度には善良な伴侶だった、と言えましょう。あの白い華飾衣も彼がくれたものです。
 ただ城を留守にする時にだけ、私の足首は鎖で寝台に繋がれ、侍女以外との接触が断たれる――それだけ。それだけが異質でした。
 厳格な人でしたから彼なりの基準でもあったのでしょう。鎖の長さは長くなったり、時に短くなったりしました。長い時は隣の部屋まで出る程度、短い時は寝台の周りを少し歩ける程度だったと思います。
 単なる独占欲なのか、警戒されているのか。
 私は混乱していました。閉じ込められる事で特に害があった訳ではありません。足輪をはめた皮膚が奇妙に白くなったくらいです。けれども理不尽な扱いは精神を消耗させ、自分の何がいけないのだろう、何が気に入らないのだろうかと、寝付けない夜が続きました。
 これが彼なりの愛情表現なのかと悩んだ時期もあります。私は彼に見初められて嫁いだ矜持が――なけなしの矜持がありましたから、そう納得しないと耐えられない気がして。
 夫が出かける日数はまちまちでした。主に領地の見回り、周辺諸侯との会談などの用事がほとんどでしたが、勃発する反乱を沈める為に剣を取って出てゆく時もあります。帰還した直後の夫は機嫌が悪く、そんな夜は乱暴に事に及ぶ事もありましたが、戦からの帰りはさすがに疲れているようで、声もなく静かに眠る夜も多かったように思います。彼の胸に顔を埋めて過ごす時間は幸福で、何もかも問題のない夫婦のように思えました。
 ああ、でも、忘れもしません。最初にぶたれたのは、やはりその鎖を巡る話で。
 その時もやはり夫が城を留守にしており、私は寝台に繋がれていました。鎖はやけに短く、少し歩いただけで絡まってしまいます。私は癇癪を起こし、すすり泣きながら鎖を乱暴に引っ張って絡まりを解こうとしましたが、上手くいきません。そこで侍女に油を持ってこさせ、油の滑りを使い、この忌々しい鎖がどうにか外せないものかと試行錯誤を――。
 それが夫にばれたのです。癇癪が収まった後、乾いた布で油をよく拭き取ったつもりでしたが、輝く虹色はしぶとく足輪の裏側にこびりついていたようでした。
「なんだこれは」
 それを見咎めた夫の声が一つ、低くなって。
「これは何だと聞いている!」
 私が答えられないでいると、その手が不意に伸びました。痛みよりも驚きの方が強かった気がします。
 ぶたれたのは一回だけ。しかし鎖を掴まれ、床へと引きずり倒され、したたかに背中を打った私は、恫喝する声を聞きました。あの心地良い、彼の声が、私を脅しつけるのを。
「小賢しい事を。逃げるつもりだったのか、この城から?」
「止めて――許して、あなた!」
 私は泣き叫びました。泣き叫びながら、この人はどこかおかしいのだ、何か、どこか、私の知らない奥の部分で、おかしいのだと――。




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