異端の告白.2
私達の間に子供が産まれていれば、もう少し違う物語があったのではないかと思う事があります。
けれど蜜月が過ぎ、新婚と呼べない時期になっても、私の腹は膨らみませんでした。単に時期が悪いのか、あるいはどちらかに問題があったのかは分かりません。
機嫌が悪い時の夫は、夏の雷雲を連想させます。表面は普段と然程変わらないのです。ただその裏側がすっと黒くなり、不穏な暗さを孕んで、いつ強い雨や風を生み出すのか予想が付かなくなる。私は慌てて木陰へ逃げ込み、刺激しないようにと息を殺すのですが、びくびくと怖気づく態度が不愉快だったのでしょう。夫は次第に私を疎んじるように――なりました。
あるいは単に取り繕う事を止めただけなのかもしれません。
二人で湖に船を浮かべ、舟遊びをした事があります。風の強い日でした。揺れがひどくなり転覆しそうになっても、夫は岸に帰ろうとはせず、船酔いで嘔吐する私を眺めて「普段よりも女らしいぞ」と声を上げて笑いました。
狩りで獲ってきた獣の生首を、夕飯の席でずらりと並べて見せた事もあります。血の滴る兎や狐、雉や小鹿などの首、首、首。気味悪くてテーブルに近寄れない私に、夫は手を取って、どれが一番美しく見えるかと尋ねました。そして今夜はどの肉を調理してもらおうか、一緒に決めようと――。
よく、愛と憎悪は紙一重だと言いますね。表と裏。切り離せないものだと。
私にとって愛の裏側に存在していたのは憎悪ではなく、恐怖でした。夫の気紛れな悪意が理解できなかったのです。そこに規則性はなく、ただ私の反応を楽しんでいるだけのようにも思えました。暗雲だって常に雨を降らせる訳ではありませんでしょう?風が強まったり、雷鳴を轟かせたり、雨を降らせたらと思ったら唐突に晴れ上がって、ふと美しい青空を覗かせる――。
ええ、だから悪い事ばかりではありませんでした。恐ろしいと思う事はあっても彼は私の伴侶であり、保護者であり、良き飼い主には違いなく、優しく振る舞ってくれる時もあったのです。
そうした時、彼は私の好きな本を朗読してくれました。客がいる談話室だけでなく、二人きりの寝室で。例え寝付くまで私の髪を撫でる手が、頬をぶつ手と同じものだとしても、それが支えであった事は変わりありません。
愛されていないのかもしれない。そう、気付いてはいました。はっきりとは聞き取れませんでしたが、夢にうなされる晩、彼が声もなく呼びかけるのは別の女性だろうと分かってはいたのです。夫の鬱屈とした悪意には、心を奪われたまま戦いに敗れた者の、深い慟哭がありました。
きっと昔、引き裂かれた人がいたのでしょう。そうでなかったらどうして何の縁もない私が正妻になどなれるでしょうか。その想像は胸をえぐり、私を苦しめました。
けれど最終的に選ばれたのは私――過去ではなく、これから愛されるのは私。その事実にすがりつき、惨めな思いを押し殺して目を閉じる事が唯一の抵抗でした。
果たして夫にとって、愛の裏側に存在していたものは何だったのでしょう?
今ならば分かるのです。それは孤独、あるいは悔恨。それだったのだと。
* * * * * * *
夫が留守の間でも、城を守る兵力がありました。それが守備隊。その中の一人が私に同情し、部屋に訪ねてきた時があります。
「旦那様の仕打ちに、このまま耐えるおつもりですか。彼は貴女を愛してらっしゃらない。ただ所有し、恐怖で支配しようとしているだけです」
無垢な子供がとんでもない発言をして場を凍りつかせるように、率直な善意は時に毒にもなりえます。金髪の年若い騎士は、そうして私の弱さを足元から揺さぶったのでした。
彼はどうやったのか城中の合鍵を手に入れており、自分と一緒に逃げようと言ってくれました。けれども私はすっかり夫の『支配』に屈していましたから、そんな事をすればどんな仕打ちを受けるのかと恐ろしく、また、夫を裏切る事には強い抵抗があったのです。
ええ、例えどんな事をされようと、私は彼を愛していましたから。こうした扱いを受けるのは妻として何か不足があるせいだろう、何しろ子供もまだ生まれていないのだからきっと自分に落ち度があるのだ、と。
「それは奥様が真実を知らないからです。彼は決して貴女に報いない」
青年はもどかしげに言いました。そして真実を見せようと、あの部屋へと私を案内してくれたのです。
禁じられた部屋へ。
長い、長い暗闇の道。無数の回廊と小部屋。私は自分の住まいですら満足に知りませんでした。いつしか両脇から窓は消え去り、階段は地下へと続いていきます。それはまるで巨大な獣の腹に自ら飲み込まれていくようでした。
艶やかな黒の塗料で塗られた扉。青年が鍵を使って扉を開けると、意外な事にそこは子供部屋になっていまいた。人が使っている気配はありません。けれども埃は綺麗に取り払われ、定期的に掃除をされている事が伺われました。
暖炉。書き物机と椅子。天秤や硝子管など不思議な機材が置かれたテーブル。薬草をすり潰す小鉢。小さな本棚。揺り籠と子供用の玩具。その他、大人用の寝台がそこに。
そして壁には肖像画――青い薔薇を髪に飾った女性が、赤ん坊を抱いている絵。
「旦那様は数年前、ここに魔女を匿っておいでだったのです」
「……魔女」
「ええ。テューリンゲンの魔女と言えばご存知でしょう。生者に死を、死者に生を与えた女。そして一年前、貴女の生まれ故郷で火あぶりになった女です」
呆然としている私に構わず青年は続けました。彼の声が部屋に響き渡ります。
「魔女と呼ばれる以前から、旦那様は彼女と親交がありました。だからこそ不憫に思ったのでしょう。ある日、誰の子とも知れぬ赤ん坊を抱いて逃げてきた彼女を、しばらくの間ここに住まわせていたのです」
「どのような罪があったのでしょう。彼女は国から追われていました。ですから人目を偲ぶように地下にこのような部屋を作り、赤ん坊を育てさせ――」
「けれど後ろめたいものでもあったのでしょう。あるいは迷惑を掛けたくないとでも思ったのでしょうか。子供に物心がつく前に、彼女は何も言わずこの城から消え去りました。旦那様はあちこちを探させましたが行方は分からず、結局、音沙汰が分かったのは火あぶりになったと聞いた時」
「貴女を花嫁に迎えたのは、おそらく当時の裁判記録を知る為でしょう。お父上は確か故郷で役人をしていましたね。貴女との縁組を利用し、旦那様はテューリンゲンで何があったのか知ろうとしていたのです。彼女が住んでいた村は流行り病で壊滅しましたが、魔女狩りに関わった人々は周辺諸国でまだ生き延びていましたから」
「そして半年前、当時の裁判に関わっていた審問官の一人が亡くなりました。殺されたのです。下手人は分かりませんでしたが、事情を知る者はすぐに、旦那様の仕業だと――」
わんわんと、眩暈がしました。青年の声は次第に熱を帯びていきますが、耳鳴りはそれを上回る勢いで私の鼓膜に満ちていきます。
夫と魔女は深い仲ではなかった、と青年は推察していました。赤ん坊の父親ではなかったようだし、あくまで対等な良き友人のように見えたと。
けれど私には分かります。あの人の憤りを目にしてきた私だから分かります。確かに二人は男女の関係ではなかったのかもしれません。ですが、だからこそ、夫の胸に今も魔女が生きている。手に入らない理想の女、消し去れない過去の美しさを秘めた女として。その人の為に手間暇をかけ、今でも剣を振るうくらいに。
ああ、まったく、何と言う茶番でしょうね!
私は、夫に見初められた訳ではない。ただ身体を結び、復讐に利用される為の花嫁だった、なんて!
過去に愛した人がいても構わない、私が悲しみを埋めてさしあげましょう!魔女のように逃げ出さないかと心配なら、鎖でも何でも使って、好きに縛り付けるがいい!小鳥のように檻で囲もうが、犬のように繋いでおこうが、愛してくださるのならこの首を切り落とし、暖炉の上にでも飾ってくれても構わない!けれど、彼の愛が永遠に私の元へ訪れないと言うのなら――!
これは全て茶番です。
「きっと旦那様の復讐が済んだなら、貴女は用なしになってしまうでしょう。今でさえこのような扱いなのですから、どのような事になってしまうのか想像がつきません。ですからどうか、そうなる前に逃げて下さい」
青年は若く善良で、それゆえに愚かでした。愛に破れた女がどれだけ捨て鉢になるか知らなかったのです。健全な世界で育ったのでしょう。ですから、涙まじりの私の誘惑になぞ負けてしまったのでしょうね。
茶番は続きます。
私は城に残り、青年との情事でゆっくりと破滅を願う事を選んだのでした。
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