永久の夜に住まう.1












 打ち捨てられていたルーアンの屋敷に光が灯ったのは、十九世紀も半ばを迎える頃である。
 その屋敷は随分と前に一族の血が絶え、朽ちるまま放り投げられたと聞いていたが、私が来訪した際には大方の修繕も終わっていたようだった。息を吹き返した室内は蝋燭の炎で杏色に色づき、浮き彫りのある欄干や天井を幻想的に照らし出している。
「僕も彼女も、古い物を好むのです」
 二階へと続く階段の手すりに片手を掛け、青年は私にそう語った。
「買い取った当時、屋敷はかなり痛んでいました。柱は蟻にやられていましたし、石壁は何箇所も剥がれて――」
 彼は囁くような声で言う。
「ですが手を掛けさえすれば、時の重みは洗練された格式へと様変わりしてくれます。そうは思いませんか、ヘンリー卿?」
 表情はほとんど動かない。ただ唇だけが、闇に羽ばたく蝶のように上下する。
 古い物を好むと言ったように、彼はクラシカルな灰褐色のスーツに身を包んでいた。一歩階段を上るたび揺れる長い銀髪は、道しるべのように我々の歩く先を示している。
 四角く螺旋を描く吹き抜けの階段。鏡板張りの通路、花の飾られた青磁の花瓶、鎧戸の窓――。
 屋敷は良く言えば重厚であり、悪く言えば陰気であった。修繕したとは言え、使っていない部屋も多いのだろう。酔狂な事に彼らは執事も雇わず、料理長を含めた数人の使用人のみを迎え入れているらしい。これほど広い邸宅でも人の気配はほとんど感じられない。私は無言のまま階段を上り、案内する青年の背を注意深く追いかけていた。
「もう少し屋敷が片付けば、皆さんを呼んで晩餐会も開けるのですが」
 青年はさほど残念そうでもなく、感情の宿らない声で淡々と語る。こうした彼の口調はサロンで見知った際から知っていたが、改めて聞くと詩の暗誦そのものだ。場の空気に飲み込まれるのを感じながらも、私は平静を装い、低く尋ねる。
「それで彼女は?」
「いつものように。絵筆を握るならばあそこが良い、と」
 青年はすっと指先を浮かせた。
 彼の指は階段の遥か先、屋根裏へと続く通路を示している。促されるまま行き着いた扉を開けると、軋んだ闇の先、くすりと紅い唇が瞬いた。
「Bonsoir, monsieur」
 そこにいつも、ミシェル・マールブランシェがいる。




* * * * * * * *




 一人の青年と、一人の令嬢。
 彼らがパリのサロンに現れたのは昨年の冬、セーヌ川に雪混じりの霧が出始めた頃である。
 彼らが誰の紹介でやって来たのか、今となっては誰も覚えていない。ある者は作家のドニャック氏の紹介だったと言うし、またある者はバルゲリー夫人だったと主張する者もいる。しかし真相を思い起こそうと頭を捻るほど、その日の記憶は、一組の美しい男女に魅了された瞬間へ擦り替えられるのだ。
 おそらく広間に集まっていた我々は、幼い頃に憧れた古い童話を紐解くように、彼らの上に理想の物語を重ねていたのであろう。
 それは完成された、一対の詩のようだった。やはり二人ともクラシカルな、下手をすれば古い趣味だと影口を叩かれかねない服装である。だがそれは不思議と野暮ったくは感じられない。丁寧に刺繍された袖口や白いレース飾りは、優雅な二人の顔立ちを甘く引き立てていた。
「お招きに預かりまして光栄ですわ」
 結い上げた艶やかな黒髪、大人びた微笑。ミシェル・マールブランシェはふわりと口を開き、連れの青年と共に楚々として人々へ挨拶をして回った。我々のサロンでは、主にピアノ演奏を聞きながら芸術関係の雑談で時を過ごす事が定番となっていたが、どんな話題にも如才なく受け答えをする二人は瞬く間にサロンに溶け込んでいった。
 実際、私は彼らほど才知に溢れた組み合わせを知らない。ミシェル・マールブランシェは芸術に対する専門的な知識はなくとも、ウィットに富んだ会話で場を華やかなものにした。そして議論も佳境になると、今まで黙り込んでいた青年が見識ある言葉を挟む事で、円満に結論が導き出される――さながら円の始まりと終わりのように。
 その冬は社交シーズンの間、この麗しい男女を自宅に呼ぶ事が一種のステータスとされ、競うように晩餐会やサロンが開かれていた。目新しいものを好む我々は、様々な憶測を立てて彼らを噂の的にしたが、情けない事に詳しい出自どころか、彼らが本当の所どのような関係の男女なのかさえ聞き出せずにいた。
 もちろん大人の男女の事、恋人であるようだ。しかし青年が一歩引いた態度でいるのは明らかであり、また彼が時折ミシェル・マールブランシェに対して不可解にも「母上」と呼びかけるのを聞いた者が幾人も存在したのである。
 そんな私が謎めいた二人の住まい、ルーアン郊外の邸宅に訪れたのは、ひとえに当時手に入れた絵画の為だった。
 とても美しいとは言えない絵。だからこそ興味を惹かれる、一枚の絵の為に。
「ではヘンリー卿。この肖像画の復元を、私に頼みたいとおっしゃるのね?」
 私の不躾な依頼にも、ミシェル・マールブランシェは嫌な顔一つしない。絵が趣味だと公言しているだけあって、多少なりとも興味を持ってくれたようである。私が持ち込んだ肖像画をイーゼルに立てかけ、夢見る少女のように小首を傾げていた。
「いや、復元など難しく捉えずともいいんです。どうしてこれを買ってしまったのか我ながら不思議でして……。せっかくですから、多少は見れるように手を加えて貰えれば、と」
 私は苦しく弁解する。贔屓にしている画商が二束三文で売りつけてきた時、この油絵に何かしら惹かれる物を感じたのだが、それを語れるほど明確な理由は持ち合わせていない。誤魔化すような言い方になるのは仕方のない事だった。
 件の肖像画は、そう上手い絵ではない。いや、上手いどころか、まともに見られる代物ではなかった。
 何しろ長い年月を陽に晒され、大部分の色が落ちた状態だったのである。背景となっている暗褐色の絵の具はひび割れ、ぼんやりと人の輪郭が白く浮き上がっているだけだ。そもそも肖像画だと判断する事すら難しい。
 断られてもおかしくはなかった。わざわざ面白くもない他人の絵を描き直すほど、芸術家の矜持は低くないだろう。復元の為に上から塗る潰すとなれば、もはや双方の画家に対する冒涜のようなもの。無理を言っているのは分かっていた。
 しかし彼女は迷惑がる素振りもなく、剥がれ落ちた絵の具を愛でるように、そっとキャンパスに手を伸ばしている。その柔らかい仕草に「やはり彼女もこの絵に魅力を感じるのだ」と密かに勇気付けられた。
 サロンに提出した作品を見る限り、ミシェル・マールブランシェの才能は確かである。小さい油絵ばかりだったが、そのどれもが真に迫った光を持っていた。
 もしも彼女にこの絵を任せたら、どんな出来になるだろう。私はその誘惑に勝てなかったのである。
 ほっそりとした指先は宙を滑り、不確かな絵を愛撫する。やがて彼女は口元を緩めると、傍らで紅茶を飲んでいた青年に意見を求めた。
「悪くない絵ね。どう思うかしら、イヴェール?」
「……貴女が良いのなら」
 こうして私の古い肖像画はミシェル・マールブランシェに預ける事になったのである。
 この風変わりな二人と知り合う機会が持てた事も、私の収穫の一つであろう。咲き始めた社交界の華を間近に見る機会だと浅ましくも喜んだ私は、こうして度々彼らの屋敷を訪問する特権を得たのだった。

「絵の表面を詳しく調べたところ、下書きの線を見つけたらしい。復元も難しくなさそうだとのことですよ」
 一週間ばかり過ぎた頃、サロンの談話室で青年は私にそう告げた。ミシェル・マールブランシェから託ったらしい。例の囁くような口調で耳打ちすると、彼は口元だけで薄く笑った。
「いずれ見に来て下さい。まだ途中のようですが、少しはそれらしくなりましたよ」
 私は喜んで伺うと答え、また彼女がどうして今日のサロンに来てないのかと尋ねた。常に連れ立っている姿が染み付いていたので、片割れのいない青年の横顔はどこか物足りずに見えたのである。
 彼は苦笑し、他では体調不良だと言っているが、何ては事ない、彼女は絵を描く作業に没頭して家に篭っているのだ、と答えた。
「彼女と違って、僕は絵を嗜みません。ですが一つの事に打ち込んで周りが見えなくなるのは、誰しも覚えがある経験でしょう」
 青年はそう言って目を伏せると、おもむろに懐から封筒を取り出した。見たところ手紙のようだが封はされていない。彼は三つ折りにされた紙片を注意深く取り出し、私に差し出した。
「それから、こんな文章がキャンバスの裏に書かれているのを見つけました。これは写しですが……」
「キャンバスの裏に?」
「ええ。長い間、額縁で隠れていたようです。お読みになりますか?」
 初耳だった。一瞬、所有者の私さえ知りえなかった絵の秘密が他人に暴かれた事に憤りを覚えたが、彼らに絵を預けたのは他ならぬ自分なのだと思い直す。子供っぽい独占欲の強さに己で戸惑いながら、私は好奇心に駆られてメモを受け取った。紙面には青年のものなのか、あるいはミシェル・マールブランシェのものなのか、流暢なドイツ語が整然と連なっている。それは以下のような内容だった。


 嗚呼、私は彼女を失ってしまった。私の幸せは消え去ってしまった。

 嗚呼、私が生れてさえいなければ。この世に生きているのが私には悲しい。

 答えておくれ。私の言うことを聞いておくれ。

 今なお私はおまえに忠実なのだ……


 一体これは何だろう。怪訝に思って先に目を通せば、同じ調子で二枚目まで続いている。
「何故こんな物が?」
「さあ。画家のメモだったのかもしれませんね」
 さして興味を持っていないのか、青年は素っ気ない口調で肩をすくめた。共感を得られず、私は落ち着かない気分でメモに視線を落とすしかない。
 何故かは分からないが、この発見は私を不愉快にさせた。肖像画の存在を更に謎めいたものにさせる文章ではあるが、それを面白がる余裕はない。ただ薄気味が悪かった。腫れ物を扱うように懐にしまい、その夜、自宅の書斎で改めて読み返す。
 それは何かの戯曲のようで、《私》が《彼女》の死を嘆く場面から始まっていた。だが男の独白が続いたと思うと、途中でがらりと文体が変わり、急に寓話めいた短い物語になる。
《オルフェオは死の国の門を壊してエウリディーチェの手を取るが、しかし門番は再び鍵を閉ざし、彼らを墓所に縫い止めた。魔女は流転せざるか?》
 メモはそう結ばれている。何度か読み返した後、それが死んだ妻を蘇らせようとしたギリシャ神話の改編だと察し、私は本格的に気味が悪くなった。
 手紙をしたためて画商に尋ねてみたのが、やはり肖像画の出所について詳しくは知らないと言う。ある貴族が移築で屋敷を処分する際、家財を安く売りに出す事になり、そこから買い取ったのだ。しかしその一族と深く関わりがある物でもないらしく、おそらく各地を転々と売り買いされ、やがて倉庫にしまい込まれたまま忘れられていたコレクションの一つだろう、と。
 実のない返答に、私はしばし落ち着かない日々を過ごした。神秘的な絵を安く手に入れた事や、社交界で噂の二人と接触した事で単純に浮かれていたが、こうして次々と分からない事柄が出てくるとさすがに躊躇うものがある。
 だからこそミシェル・マールブランシェに招かれ、久しぶりに件の絵画に再会と決まった時、私は安堵したのだ。手元から話した事でかえって不安が増すのなら、実物を確認する事で、この薄気味悪さが晴れるのではないかと。
 しかし現実は常に私の先を行く。ミシェル・マールブランシェによって半ば復元された絵は、貧困な私の想像を遥かに越えていた。
 ありのままに描かれているのに、美しさを感じる曲線。ふっくらとした布の陰影。ひときわ白く輝く少女の肌や、反対に荒く、まだ描きこまれていない背景の家具。
 息遣いまで感じられるような肖像画が、そこにあった。
 年は十代半ばだろう。少女は癖のない髪を肩まで伸ばし、こちらを向いて座っている。背後に厚手の赤いカーテンが掛かり水差しの乗ったサイドテーブルが覗いている事からすると、場所は寝室だろう。後ろには寝台があるに違いない。少女は肘掛け椅子にそっと片手を乗せ、はにかんだような微笑を浮かべていた。
「まだ下地を塗っただけ。これから濃い色で陰影をつけていく予定ですの」
 事も無げにミシェル・マールブランシェが振り返り、白い上掛けのドレスをひるがえす。独特のテレピン油が香水と混じり、ふわりと漂った。
「これからもお好きに見に来て。喜んでお出迎えしますわ」
 その喜ばしい申し出も、私の耳には届かなかった。画架に乗せられた肖像画から目が離せず、息を飲んだまま立ち尽くす。
 ――そんな馬鹿な。
 今までは色が飛びすぎて気付かなかった。癖のない真っ直ぐな髪。丸い目尻と小さな鼻。笑うと浮かび上がる右頬の笑窪。
 肖像画に描かれている少女は、私の母親に瓜二つだったのである。



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