永久の夜に住まう.2











 私の生家は十五世紀から続く船会社の経営者で、水上業者ギルドの母体にまでなった家柄である。セーヌ川に出入りする船のほとんどを管轄し、王家のパリ代官の下で民事裁判官をしていた者もいたらしい。今世紀になって多少落ちぶれたとは言っても、パリでは未だ威光ある一族だ。
 そこの四男坊である。元から後継として育てられる訳でもなかったが、生みの母が身元の知れない行きずりの女だったとかで、何かと軽視されがちの立場にいた。両親は外遊先で知り合ったらしいが、母は私を産んですぐに亡くなってしまった為、彼女の記憶はぼんやりとして取りとめがない。
 それでもはっきりと分かったのだ。これは母の肖像だ、と。
「落ち着いてください。そんなに似ているのですか?」
 青年が紅茶を差し出しながら問う。絵の前で取り乱した私は、未だ興奮が冷めやらぬままアトリエに座らされていた。
「ああ、他人の空似にしては真に迫りすぎているんです。母が幼い頃の絵なのかもしれない。母の出自は長らく不明だったのですが……この絵を手掛かりに調べられないでしょうか?」
「似ている人間など、そう珍しいものではないですよ」
 厄介ごとを招き入れたくなかったのだろう。私が勢い込んで言うと、たしなめるように青年は眉を寄せた。
「けれど面白いお話ね。巡り巡って手に入れた肖像画が、死んだお母様の物かもしれないだなんて」
 反対にミシェル・マールブランシェは機嫌が良い。彼女は紅茶を配りに来た青年の手をそっと掴み、駄々を捏ねるように囁いた。
「ねえイヴェール、そんな渋い顔をしないで頂戴な。協力してあげましょうよ。そう面倒な事ではないわ」
「けれど――」
「私もヘンリー卿の為に、この絵の復元を優先しようと思うの。良いでしょう?」
「……展覧会に出す絵も途中だったじゃないか」
「また次があるじゃない。それに私が欲しい物は大概もう描いてしまったし、ね?」
 秘密めいた目配せがあった。青年は物憂げに目を伏せたが、彼女の願いを無下にもできなかったのだろう。はあ、と小さな溜息と共に頷く。
「貴女が人助けとは珍しい……。では、絵の具と油を準備しておこう。復元には時間が掛かりそうだから」
「ありがとうイヴェール。そうだ、ヘンリー卿が亡き母上の痕跡を辿りたいと言うのなら、貴方の書庫を貸してあげたら如何かしら。古い家系図も沢山あるのでしょう?」
 ミシェル・マールブランシェは少女のように華やいだ声を出した。何故それほど話に乗ってくれるのか不明だが、こちらにとっては好都合である。長年胸に引っかかっていた母の出自が分かる機会なのだと思えばこそ、私は更に頻繁に彼らの屋敷に出入りするようになった。

「気をつけろよ、ヘンリー。最近は天使達の所に通いつめているそうじゃないか」
 ある日、友人は私にそう忠告した。天使達とはミシェル・マールブランシェと青年の事らしい。社交界でそのような呼ばれ方をしているのか、それとも友人なりの言い回しなのか判然としないが。
「奴ら、それこそ注目を浴びているだろう。両方に熱狂的な信仰者がいるんだ。噂ではファンの間で喧嘩になった挙句、出し抜けしようとした数人は行方不明なんだと。仲間内で制裁を喰らって、セーヌ川にでも投げ込まれたのかもしれないぜ。お前もやっかまれて刺されないよう、気を付けろよ」
 友人は冗談めかして私の肩を叩く。まさか本当に人殺しが起きたとは思っていないだろうが、確かにあの二人の寵愛を得る為なら流血沙汰も辞さない連中がいるのだろう。あれだけ浮世離れした美男美女なのだから、無理もない。
 しかし私の目的はその頃すっかり絵画の方に映っていたので、さほど忠告を気に留める事もなかった。暇を見ては彼らの邸宅に足を向け、絵画を復元する様子を見学したり、書斎の本を貸してもらったりと忙しかったのである。
 ミシェル・マールブランシェのアトリエは屋根裏にあった。改築した際に大きな窓を取り付けただけあって、室内は常にルーランの柔らかい空模様を反映している。しかし晴れ晴れとした眩い日に訪れると、室内の暗さに驚く事もしばしばだった。
「こうしてずっと向き合っているとね、絵の中から声が聞こえる気がするのよ」
 彼女は時折そう笑ったものである。逆光を受けて絵筆を握る彼女のシルエットは、着飾ってサロンに訪れる際には見られなかった深閑とした空気があり、絵の具が入り込んだ爪はマニキュアなどよりも艶々としていた。
 やがて日を追うごとに、肖像画は美しさを取り戻していく。
 少女の肌は徐々に薔薇色の深みを持ち、若さに満ちた笑みの表情を浮かべた。肩まで伸びる髪も質感を増し、窓からの風にそよぐのではないかと思われるほど。白いワンピースにも一つ二つと釦が付けられ、背景も次第に鮮明になっていく――。
 私は日増しに、絵の前から離れられなくなった。目を逸らしたら、その隙に少女が瞬きをするのではないかと、そう心を痛めるほどに。
 それはミシェル・マールブランシェの色遣いのせいか。あるいは元の絵の素晴らしさが蘇ってくるせいか。それとも、描かれている少女が私の見知った母の面影を徐々に辿っていくからなのか。

「絵も本も、美しい猛獣のようなものです」
 書斎を貸してくれる際、青年は両者をそう評した。
「どちらも心を揺さぶり、血を騒がせる。好ましいと思って手を伸ばせば懐いてくれる事もありますし、反対に、あっという間に噛み付かれる事もあります」
 彼の蔵書は膨大だった。紙が日に焼けるのを防ぐ為、どの窓も分厚いカーテンが引かれている。中身がみっしりと詰まった本棚は城壁のように鎮座し、収まりきらない蔵書は無造作に床に積んであった。くすんだ色合いの背表紙に囲まれて、部屋は沈み込んでいくような雰囲気を漂わせている。
「目を悪くなさらないようにご注意を。絵画関係の文献はこちらの机にまとめて置きました。もし家系図を調べるなら、あちらの棚に」
 青年がカーテンを開くと埃が光にきらめき、沈鬱な室内を金色に染めていく。指示された棚を覗き込めば、古い紙の束が丁寧に分類されて置いてあるのを見つけ、私はすっかり恐縮してしまった。
「何から何まで申し訳ない。私一人でも充分だから、君はもう休んでくれて構わないよ」
「……いえ、手伝いましょう。母親の出自が知りたいと言う貴方の気持ちは、理解できますから」
 礼を述べると、青年はどこか茫漠とした表情で首を振った。最初はこの件を迷惑がっていた様子だったが、何か思う所があったのか。手際よく古い書物を紐解いて、関連のありそうな事柄を幾つか提示してくれた。
 母を探す手掛かりは肖像画そのものと、キャンバスの裏に残されたメモである。私たちは書斎の机を挟み、あれこれと議論した。
「メモがドイツ語だという事は、画家の出身地だったのだろうか?」
「どうでしょう。当時の芸術家は各地を点々とする人間が多かったようですから」
 彼はそっと首を傾げ、古い文献を幾つか本棚から抜き取ってくれる。母が生まれた時期に重なって、肖像画が描かれるほどの身分の女性がドイツで生まれていないかと、家計図を照らし合わせてみたりもした。だがどれも決定打に欠け、母本人なのか確認できない。
「それにしても不思議な国ですね、ここは」
 黄ばんだ頁を繰りながら、青年は呟くように言った。
「森が深すぎて光が入らず、古くは領地と領地が隔絶していたと聞きますが……」
「ああ、そうらしいね。中世ヨーロッパで魔女狩りが最も激しく行われたのも、確かドイツなんだろう。私も何度か滞在したことがありますが、可愛らしい家並みに反して森は鬱蒼としてましたよ」
 私が相槌を打つと、彼はゆるりと顔を上げた。淡い紫色の瞳が窓枠の影になり、やや深みを帯びた色になる。彼は何かを思い出すような表情で、ぽつぽつと語り始めた。
「グリム童話でも魔女や狼は、深い森の奥から災いをもたらす者として登場します。それだけ当時は光が差さず、黒々として恐ろしい場所だったのでしょう。森を越えて隣の領地へ行くのも大事だったのかもしれません。とある教授が『ドイツの人々は暗い森で耳を済ませる生活を送った結果、音楽が盛んになり、フランスは逆に光のあふれる絵画が盛んになったのだ』などと言っていましたが――」
 青年はちらりと視線を投げて寄こす。
「かの森から生まれた絵画には、何が含まれているのでしょうね」
 その何気ない問いかけに、すっと指先が冷たくなった。まるでドイツの絵画はすべて闇から何かを汲み出したような言い方だ。不安を促すような響きがある。
「……ああ、妙な事を言って申し訳ない。ミシェルと暮らしていると絵画について色々と考えるようになって、つい要らない話を」
 私が青ざめているのに気づいたのだろう。青年は取り成すように苦笑した。
「いえ、そんな。面白い着眼点でしたよ。成る程と思いましたし」
 私は慌てて首を振り、気圧された事を隠そうとする。けれども依然として指先は冷えたままだった。
「……実は僕も不思議な目に逢った事があるんです。彼女の絵で」
 青年は苦笑を浮かべながらも、淡々と言い募る。
「西階段の踊り場に、庭で遊んでいる二人の少女の絵があるんです。夜になると、そこから彼女達の声が聞こえる時があるのです」
「……本当ですか?」
「ええ。嘘つき、と言う声が」
 彼は話を打ち切るように、ぱたんと本を閉じた。









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