鏤められた日々

梅雨だ。

この本丸は、時空間の狭間にあるというが、日本列島のどこかも知れぬ。そもそも地球上のどこかも知れないこの場所へも、梅雨前線は季節を着替えさせるべく、ベールをかけにきたらしい。

名前が企画した第一回雑草駆逐大会のあと、太郎太刀と次郎太刀、それから石切丸による豊穣の加持祈祷が行われたが、こうも雨続きだと畑の様子が心配になるものだ。

細い雨が降り始めた畑には、へし切長谷部と燭台切光忠の姿があった。

以前名前が畑に顔を出したときに『野菜も声掛けたら美味しくなるらしい。』知らんけど。…とこぼしていた。
そういうわけで彼ら二人は本日、畑の作物へ叱咤激励を贈りにやってきたのである。

へし切長谷部がレタスの元へしゃがみ込む。

「お前も主のお口へ入るのだろう。この程度の雨でやられるなど、怠慢は許さんぞ。」

…雨の中、レタスがすこしシャキッとしたように見える。
……レタスの隣のキャベツもほんの少しパリッとしたように見える。

信じるものは救われる、というが、長谷部は主の知らんけど知識さえも信じすぎて神通力でも使えるようになったのだろうか。

「長谷部くん、…やるね!」

透明なビニール傘は、光忠がさすとなんだか小さく見える。

じゃあ僕も、格好よく決めようか…!と屈んだ先、トマトの頬(?)に手を添えた。
…いや、トマトに頬はないのだが、光忠の所作的には完全に頬だしトマトも女の子になっちゃうので、あれはトマトの頬である。

「がんばって、上手に熟れたらもっと美味しく料理してあげる…。」

トマトの耳(?)にふ、と吐息が掛かり、長谷部が顔を引きつらせた。

このトマト、もはやすぐにでも収穫できそうである。

そんなこんなで、本丸の畑では梅雨をものともせず元気に作物が収穫されていた。


雨はまだ止まない。


また別の日の午後。
大倶利伽羅は縁側に腰掛けて、庭が雨で烟るのを見ていた。輪郭を曖昧に溶かすような雨が降り続いている。
さあさあという雨音は、鼓膜を心地良く撫でた。この音はどうしてか心の懐かしい場所へ降り注ぐようで、聴いているうちに眠くなる。

そこへ通りかかったのは歌仙兼定だった。
大倶利伽羅のすこし手前で立ち止まり、縁側から空を眺めると、くせのある前髪を指先で避けながら雨に溶かすように呟く。

「ああ、春が別れを惜しんで泣いているようだね。」

なんとも物憂げで風流な様子だが、大倶利伽羅は反応に困る。そもそも自分に言っているのか、独り言なのか判別がつかない。

無言のまま、ちらりと後ろを振り返った。

…目が合ってしまった。

歌仙兼定はコミュニケーションが不得手である。お小夜曰くたいそう人見知りな性格なので、親しい刀とそうでない刀の間で彼に対する印象は二分される。
前者は意外と甘えたで身内にも甘い奴だと評するが、そう親しくもない刀からするととっつきにくく、厳しくてお堅い印象である。

…目が合ったものの、互いに沈黙。両者の間には雨音だけがさらさらと流れている。

この本丸の歌仙兼定、初期刀としての責任感がそうさせるのか、独り言っぽく言ってみるけど反応くれたら話そうじゃないか、というなんとも歯痒い交流の仕方を取ろうとするのだ。
これを人は雅チャレンジと呼ぶ。

そうして本日選ばれし相手は大倶利伽羅らしかった。

沈黙流れる縁側に面する部屋の中には、和泉守兼定がいた。

蒸した空気を流すために開け放たれた障子からは、どうやら之定が一匹龍王に雅チャレンジを仕掛けたらしいことが伺える。

大倶利伽羅、頼むからなんか言ってやれ!と、これまた案外面倒見の良い和泉守は、彼らの間に流れる空気を察して気を揉んでいる。

「………。」
「……………。」

「………はぁ。」
「…。」

相槌ともため息とも取れる声を漏らした大倶利伽羅に、歌仙の眼差しの温度が二度ほど下がった。おそらく内心でいじけた子犬めと悪態をついているのだろう。

いやもう俺が耐えられねぇ!と、和泉守がひょいと部屋から顔を出す。

「あー!まあ、寝る前に厠にいくようなもんだろうな。」

「…。」
「…はあ。」

今度ため息をついたのは歌仙だった。

「ふっ、」

なんとも言い得ぬ雰囲気に、思わず吹き出したのは大倶利伽羅である。

まさかこの雨も、涙という雅な例えから一変、厠になぞらえられるとは思っても見なかっただろう。さぞ心外だったのか、抗議するように雨足も強まった気がする。

和泉守、せっかく助け舟を出したというのにため息吐かれた挙句に嘲笑されてむっとする。

「はあ!?…んじゃあお前はこの雨をなんつぅつもりだ。」
「……馴れ合う気はない。」

歌仙とおなじ兼定であること。はたまた元の主の影響もあってか、和泉守も季節を愛でるのは好きだ。雨をどう言うのか、なんて問いかけは、そうでなくては投げられない。

だけどやはり彼はまっすぐでとても素直なので、かっこいいけど格好つけられない刀なのであった。言葉をこねくり回すのは苦手である。
土方歳三のうたでいうところの"横に行き足跡はなし朝の雪"にその無邪気で素直な感性が見て取れるだろうと思う。

二人のやりとりを見て、歌仙は黙っている。
そう、沈黙へ乗せて大倶利伽羅を促した。雅チャレンジから一転、目利きスイッチが入っているらしい。

向けられる視線を煩わしそうに躱して、大倶利伽羅が庭へと眼差しを移した。
どうやら自分が言葉にするまで、この面倒な馴れ合いは終わらないらしい。

雨降るような静かな瞳で、しぶしぶと、どこか投げやりに口を開いた。

「……桜も、花びらも、洗い流してから去るんじゃないのか。…俺たちがきちんと夏を喜べるようにな。」

和泉守があんぐりと口を開く。

…その日の夜ごはん、大倶利伽羅の好物である鱧の天ぷらが彼のお皿にだけ大盛りにとりわけられていた。

配膳を進めながらどこか愉しげな初期刀さまに、名前がなんか良いことあった?と、問うて、屋根の上、雨音は朗々と夜を唄っていた。


雨はまだ降り続いている。


静々とした廊下に、ぺら、と頁を捲る音が花占いの花弁のように規則正しく落ちる。

雨粒はワルツを踊るような足取りで、水たまりに波紋をつくる。執務室では本を片手にくつろぐ名前と、彼女の膝を枕に微睡む髭切の姿があった。

障子を開け放った畳の部屋。
雨の中わき立つ草と土の香り、そして開いた本からは紙とインクの香りがしている。そのどれもが水で溶いたように、柔らかくまろい。

人も刀もダメにするソファに座って読書に勤しむ名前の傍、その腰へと腕を回して髭切がくっついている。すうすうと規則正しく上下する背中は、どうやら眠っているらしかった。

名前はこのなんとも言えない甘えたの体勢を胸中で佩刀ごっこと呼んでいる。

短刀たちが懐に入りたがるのは分かるのだが、大きな刀が腰に巻きつきたがるのは見た目の問題的にどうなんだろうか。

はじめの頃はもちろん名前もやんわりとお断りの姿勢を見せたのだが「どうして短刀はいいのに太刀はだめなの?」と千年も刀やってる髭切に問われるとどうにも困ってしまった。

彼らは子どもと大人、ではなく、短刀と太刀なのだそうだ。

そう言われると、同じ自分の刀であるのに、彼らの扱いに差をつけるのはあまりよろしくないのかな、なんて名前は思ってしまう。やはり源氏の重宝は切れ味鋭く良心を突いてくるのだ。

兄として一期一振の在り方を見習ってほしいと思わなくもなかったけど、ぽわぽわした髭切はただ純粋に不思議がっている様子だったので、刀ってそういうもんなのか…と諦め半分受け入れることにした。

甘えられると主というより母親みたいな気持ちになる。千年も刀やってる人の母親って精神年齢どこに持っていけばいいのだろう。

しかしまあ、絆される程度には腕の回ったお腹があったかい。梅雨冷えの日もなんのその。体温が高いのか髭切はぽかぽかとしていて、くっついているとそれこそ獅子でも抱いているようなあたたかさがある。

また、彼らは刀というだけあってか、こうして傍に居ると不思議な安心感があるのだ。
ただ甘えられているだけだというのに、守られている、とも感じる。

それは刀にとっても同じようで、彼らもまた、主の傍に居ると落ち着くらしい。

「心臓だけが遠くにいっちゃうのってこわいよねぇ。」とは出かける名前を見送る髭切の談。これには多くの刀剣たちが言い得て妙と頷いた。

いざとなったら自分を振るって護れる距離に名前が居てくれた方がいい。仲間のことはもちろん信頼しているけれど、こと切れ味に関しては、皆我こそはという自信を刀身に光らせていた。

雨樋を伝う水滴の透明な影が、本を手繰る名前の手の甲を滑る。
しばらくそうしていると、声が掛かった。

「主、ここに居たのか。万屋へ行くと歌仙から言付かったんだが…あ、兄者…!」

名前を探してやってきたのは膝丸である。ようやく主を見つけたと思ったら、さも当然と言わんばかりにくっついている兄の存在を見とめてにわかに目を見開いた。

「出掛けるというのに兄者がすまない。俺が退かそう。」
「大丈夫。雨いややなぁと思って悩んでたとこやから。」
「しかし…兄者が邪魔ではないか?」
「んー、うん、いいよ。あったかいし。」

気遣わしげな表情の膝丸に、名前はひとつ微笑んでみせる。長谷部ほどではないが、膝丸もまた名前に対して家臣然りとしている。

髭切がしない分の配慮や遠慮は、ぜんぶ弟の膝丸へとまわっている気がする。ざっくばらんな髭切と繊細な膝丸。眉間のしわは彼の苦労人気質を物語っている。
さすが二振一具の兄弟刀というべきか、両者補い合って丁度良い。

膝丸と話してるとなんでか肉じゃがが食べたくなってくるんだよなぁ、と思いながら名前はぱたむと本を閉じた。
兄者が、あにじゃが…まさか肉じゃがへ通づるサブリミナル効果をもたらしているとは知る由もない膝丸が名前の傍に寄る。

「髭切が起きたら出掛けよっか。」

その頃には雨が上がっていたらいいな、と言外に含んで、名前は縁側の向こうへ視線を向ける。

と、彼女の手元の本へ膝丸の目が止まった。
読まれていた本は平家物語剣巻、まさに源氏の重宝たる髭切、膝丸の逸話が書かれているものであった。

「君、そんなものを読んでいるのか。」
「あはは、うん。まあ知らんより知ってた方がいいかなーって思って。」

気恥ずかしそうに眉根を寄せた膝丸に対し、名前もまた照れ笑いを浮かべた。

彼ら刀剣の付喪神といっても様々で、元の主の影響を色濃く受け継いでいる者もいれば、刀にまつわる逸話や人々の想いをその身に宿した者も居る。

いまや直接の関わりの中で知り合えるといえど、彼女には歌仙にも似た一面があって、好きなものは掘り下げたい質である。好きな人のSNSなんて割とがっつり遡っちゃうタイプなのだ。

「……そうか。…そうか、で、どうだった?」
「へ!?どう、とは…?」

まさか感想を求められると思っても見なかった名前はすこし動揺する。

「我ら兄弟は、今代の主の目にどう映る?」

慮るにこの膝丸、いつもは兄者経由で名前とコミュニケーションをとることが多いので、どうにも一対一で話すのに慣れない様子だ。
根っからのくそ真面目丸と髭切に言わしめるほどなので、彼にかかれば世間話もつい真剣そのものの問答になってしまいがちなのであった。

名前は膝丸の表情を見返して、先の問いがひやかしや揶揄いを含んだものではなく、至って真面目な問いかけであるらしいと察した。
膝丸は律儀にも正座をし、両手の拳を膝の上できゅっと握り締めて答えを待っている。その背筋は、さながら娘さんをくださいと言いにきた彼氏みたいに緊張にぴんと張っている。

名前はううん、としばし逡巡した。
平家物語は種類がめちゃくちゃいっぱいあるし、彼ら兄弟にまつわる逸話だけをとっても、内容にばらつきがあってなんかもう細かいことはいいから源氏ばんざい、って感じで正直言って内容を正確に掴めている自信がない。

「えーっと…私の感想、でもいい?」
「ああ。君の感想を聞きたいところだ。」

膝丸がごくりと唾を飲む。しっかりどっしり膝丸の緊張が移った名前は、ふう、と深く呼吸した。この緊張感を緩和するのは髭切のすやすやという安らかな寝息のみ。今となっては、ふわふわあにじゃに早く起きてほしいところだ。

感想でいいんだよね、とひとり頷き名前は言葉にする。

神様に頼んで、長い長い時間をかけて作られた太刀。両膝を一刀に絶って膝丸と名付けられ、病気の原因の土蜘蛛を斬って蜘蛛切丸、夜な夜な蛇のように鳴いて吼丸、熊野の春の山にちなんで薄緑と呼ばれるようになった…という逸話を持つ、太刀膝丸。
その話が彼の得た人の身に投影されていると思うと、不思議に感慨深い。

「膝丸はいろんな名前で呼ばれてたみたいやけど…いちばん好きやなぁと思ったのは義経がお兄ちゃんと仲直りできますように、って膝丸を奉納した話かな。……それで膝丸は兄者想いの刀なんかなーって思った。」
「……そ、そうか。」

物に宿る心、それは私たちの心がすべて言葉にできないのと似て、物語になりきらない。どう言い尽くしても、とうてい語り切れないのだ。だから彼らは、人の形に成れたのかも知れない。とても言い得ぬ存在として。

膝丸の問いかけには、到底答えられない気がして、名前は少し歯痒かった。当の膝丸は、仲の良い兄弟を自負するだけあって、兄想いの一面を汲んでもらえたことに嬉しそうにしているのだが、生真面目丸なのでリアクションがぎこちない。

「う、うん。…あ!あとはこの春やりそこねてんけど…。」
「なんだ?」
「膝丸の刀身に、春の山を映したところ見てみたい。ほんまにこんな綺麗な薄緑色なんかなぁ、って。」

名前は膝丸の髪を見て、指先で、そっと触れた。彼女の瞳が、雨降りの薄明かりの中だというのにきらきら輝いているのを見て、膝丸は息を詰める。

指先に触れた薄緑色の髪はさらさらと柔く、自分のと同じように湿気を含んでいて名前は感心する。
逸話に出てくるような人に、会えることなんてすごいことだよなぁ、というすこしずれた感慨が遅れてこみ上げてきたようだ。

それからの話は雨が本降りになるように、自然とほろほろ口をつく。

義経が膝丸を手にしてからみんな源氏の味方になるのとか、実は友達作るの上手なん?という問いかけに始まり、土蜘蛛を刺した鉄串には付喪神はいないのかだの、絶対うまくできると思うから膝かっくんのやり方教えてあげるだの、最終着地は蛇の鳴き真似やってみてという無茶ぶりである。

「しゃああ。」

言わされる膝丸、ぽぽぽと頬が熱かった。
初めの緊張感はなんだったのか、よもや羞恥心にかき消され、もう欠片も残っていない。

「…ふ、あんまり似てないな。」

自分でものまねを振っておきながら厳しい評価を下す名前に対し、膝丸は頬に集まる熱を逃すようにため息を吐いた。

主がどれほど刀を大切にしているのか分かっているつもりだったのだが、こう楽しげに話す彼女を見るのは初めてのことだった。

それゆえ主が自分たちに興味を持ち、心を傾げてくれているということを目の当たりにして、愛情や頓着がいやというほど伝わった。
そうして緩んだ心の隙間から、ううう、と甘えた本音がつい溢れてしまう。

「はぁ…兄者も君の数分の一でもいいから、俺の名前を覚える気になってくれるとよいのだが。」

名前はふむ、と頷いて口を開く。

「…たぶん髭切にとって、膝丸はたったひとりの大事な弟で、それはどんな名前になっても、誰のものになっても変わらんことやから。」

よくわかんない逸話ではなく、暢気に寝息を立てているこの口から、確かに直接聞いたのだ。弟もよろしく頼むよ、と。

「まあ…弟やねんから名前覚えてくれよって気持ちもわかるけど、髭切も膝丸のこと相当大事に思ってるよ。…だからそんなにしょんぼりしやんと、元気出して、ほら。」

笑いかけながら、眉間のしわをぐりぐりと人差し指で伸ばされる。

真っ正面からの励ましに膝丸はうぐぐと込み上げる胸を押さえた。彼のボキャブラリー辞書にはないが、これがバブみというやつである。泣きそうだが、泣いてはない…泣いてはないぞ、かろうじて。

膝丸は名前の柔い指先に、その心を直接撫でられたような気になった。
両膝も一刀に絶ってしまうほどの切れ味をもったこの身を、なんの恐れもなく撫でる今代の主の柔さ。多くの刀剣を従えているその人柄は、ただ優しく甘いばかりではなく、柳のようにしなやかに、強いお人なのだと知る。

ぐりぐりぐりと眉間のシワを伸ばし伸ばされしていたら、のしのしと大きめな足音が聞こえてくる。
廊下を通りかかったのは山姥切国広で、大股で歩く様子は彼らしくない。

手には油性ペンを握り締めて、フードの向こう、なにやらとても憤っている様子である。

「鶴丸を見なかったか。」
「うーん、今日は見てないな。」
「俺も見ていないが…。」

きょとんと返事をする名前と膝丸に、山姥切はぐぬぬ、と唇を噛み締めた。何かあったのか、と聞くまでもない、きっとたぶんおそらくいや、必ずや何かあったに違いなかった。

「…く、そうか。見かけたら捕まえておいてくれ。」
「うん、わかった。」
「了解した。」

布を翻して去っていく山姥切。
なにがあったんだろうとその背を見送る二人は、彼の後ろ姿に全てを知った。
後頭部にへのへのもへじ。てるてる坊主が歩いているみたいだった。

「あれは怒るよなぁ…。」
「兄者もたまに加勢しているが…鶴丸国永はほんとうに悪戯が好きだな…。」

先日膝丸が風呂に入っている間に、着替えの戦装束の上着とズボンを髭切のものとすり替えられたらしい。おかげで膝丸は鶴の手先の如く真っ白になったという。
そんな話をしていたら、ふわああ、とあくびをして髭切がむくりと身を起こした。

「おはよう…主。と、それから弟。」
「おはよう髭切。」
「あ、兄者…!ようやくお目覚めか…頬に寝あとが付いているぞ。」

さっきの名前の励ましが効きすぎたのか、膝丸は髭切から弟、と呼ばれるだけで無性に面映い。
ぽわわ、と寝惚け眼の髭切はそんな弟の胸中など歯牙にも掛けない様子で、膝を貸してくれてありがとうね。と名前のことを撫でている。その膝、に丸を足すだけで弟の名前を呼べるのだが。

そうこうしていると、またもばたばたとした複数の足音が遠くから駆けてくる音が聞こえた。

ややあって、部屋の前を鶴丸国永が駆け抜けて、それに小夜左文字、山姥切国広と続き、さらにその後ろをてるてる坊主を持った愛染国俊と秋田藤四郎が追う。

膝丸と名前が顔を見合わせる。追うまでもなく、機動の差ですぐに捕まって復讐が果たされることだろう。

予想通り、少し向こうでばたん!と音がして、さらにどこからか歌仙が「廊下を走るな!」と怒号を飛ばすのも聞こえた。

…雨の齎らした静けさはどこへやら。

「あはは、平和。」
「主、これは平和なのか…。退屈しのぎにしてはやりすぎではないか。」
「…ね。まあ雨ばかりで退屈な気持ちは分からなくもないよ。」
「たしかに、そろそろ止んでほしいなぁ。」

降り続いてどのくらいになるだろう、わやわやとした皆の話し声も、雨音が混じると遠く聞こえる。
ぼんやりと雨空を見上げている名前の横顔に、膝丸が言う。

「主が望めばあの分厚い雨雲も斬ってしまえるのではないか。」
「ふふ、その時お前は雲切って名を賜るのかな。」

「兄者…雲切だと後世に語り継ぐには混同されそうだ。」
「ああ、弟はそんな名前で呼ばれてたこともあったんだっけ。」
「雲切って名前で顕現したら、膝丸は晴れ男になるんかな。」

歴史の中で、一雫ずつ育まれてきた物語が、心となってここにある。まるで雨が海を作ったみたいに、途方もない話だ。
それから、刀は人になって、この後どうなるのだろう。
途方もない戦いも、いつかは終わるのだろうか。終わったら?雨は海になって、私たちはなにになるんだろう。

「たとえ歴史の表に名を残さぬとしても、俺は主のことも兄者のことも、…この本丸であったことを覚えていよう。」

考えていることに、声が返ってきたような気がして、はたと膝丸を見返す。
覚えていようという言葉、それだけで、充分すぎるくらいだ、と思った。
そうだね、と笑った名前の視線。応えるように膝丸が念を押す。

「…本当だぞ?」
「ふふ、うん。ありがとう。」
「生真面目丸だねぇ。」

髭切に倣って名前が繰り返す。

「あはは、いいな。生真面目丸。」
「君が言うと洒落にならないからやめてくれ…。」

場を締めるように、名前がなんかすごいな、と笑った。

「二人がいま一緒に本丸に居てくれて嬉しい。」

髭切と膝丸は面食らったようにぴたりと動きを止めて、それからはにかんだ。
生真面目丸の名があったとして、めんぼく立たないふやけた顔は、二振一具の髭切とそっくりである。

「…あ!雨やんだ。」

雨上がりの庭に、雲が割れて太陽が差し始めた。

宝石を砕いたような光の粒がそこかしこにばら撒かれている。紫陽花の上のアメジスト、サファイア、新しい葉っぱに煌めくエメラルド。

雨は、やがてあがる。

湿った土も、木々も花々も乾かして、太陽は飽きもせずに昇り続ける。
私たちの記憶なんて、雨上がりの水滴みたいにいずれ空へと消えてしまうような儚いもの。だけど、太陽を閃き返してここにあったこと、こっそりと忘れないでいられたらいい。

向こうの縁側では、鶴丸と山姥切が正座をさせられている。鶴丸の後ろ頭にも書き殴られたへのへのもへじ、どうやら仕返しは果たされたらしい。

遮る雨音はもうすっかり止んで、「なんで俺まで…。」と府に落ちない様子の山姥切の声が聞こえた。事の元凶であるはずの鶴丸が「そう気を落とすな。」と背を叩いている。

フードを被った二人の上、軒先には、短刀たちが作ったてるてる坊主が揺れている。彼らにはあとでご神酒でも供えようか。

「ほんとうに雲まで切れてしまったねえ。」
「ね。…よし、出掛けよっか。」
「ああ、行こう。買う物は決まっているのか?」

洗い晒しの日向を眩しい、と思う。
もう夏が、すぐそこまで来ていた。


前のページ/次のページ


表紙に戻る
一番最初に戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -