運命は彼女を見逃してくれません
 照明の付いていない部屋を見たとき、底知れぬ不安が俺を襲った。今日は土曜日。俺のアルバイトは9時まであったが、エマの仕事は夕方4時までのはずだ。朝が弱いエマのために俺が朝食を作るのに代わって、エマは帰りが早いためいつも夕食を作る当番だった。だがうだる様な蒸し暑さが支配する自室に、人の気配はない。
 明かりをつける。エアコンよりも先にエマの荷物の有無を確認するあたり、もう無視できない存在になっていることが嫌でも理解できた。エマの私物はロフトの端でまだ申し訳なさそうに存在していた。勝気で豪胆なくせに、妙なところで臆病な少女だ。
 梯子を下りてエアコンの電源を入れた。もしかして仕事で居残りを命じられたのかもしれないと思ったが、それなら携帯に連絡が入っていても可笑しくないはずである。使い慣れないiPhoneにはメールマガジンが二通届いているだけだった。エマは携帯を持ってはいないが俺の電話番号なら知っている。不在着信が入っていないということはそういうことなのだろう。
 次に考えた可能性は、何か事故に巻き込まれたのではないかということだ。
 家で待っているのと彼女の仕事場に行くのとどちらが良いだろうと思案しているうちに、玄関から開錠の音が響いてきた。
「……ただいま」
 エマの姿を確認した時、思わずそばに駆け寄った。その目元は赤く腫れ上がっていた。
「何があった?」
「なんもない」
「嘘を付け」
「レンには関係ない」
「エマッ!」
 日本人よりはしっかりとした骨格の、それでも少女特有の華奢な肩を強く掴んだ。
 自分の中で着々と育っているこの少女への想いを、言葉にしてみろと言われると正直難しい。幻滅され非難されるのを覚悟で敢えて表すとしたら、こんな美少女に健気に思われて心が揺らがないはずがない、だ。
 ただ、それを告げるには俺はあの同級生を長く想い過ぎた。
 絵葉書の差出人への恋心を自覚した時、大げさな比喩表現ではなく本当に世界が輝いて見えたのだ。その輝きは間もなく絶望へと変わったが、彼女を強く強く慕った事実に嘘偽りはない。
 エマへの想いはそれと違う。流されているだけだと言われたら、雰囲気に肯定してしまいそうな自分がいる。
「エマ」
 それでも、彼女からもらった情熱的な愛を優しさにして返したいと願うのは、いけないことだろうか。
「なにがあった?」
 抱きしめると、細い腕が俺の背中に回ったのが分かった。肩が震えている。
「レン……。アタシ、行きたいところがあるんだ」
「……どこだ?」
「遠い所なんだけど」
「どこへでも連れて行ってやる」
 俺のTシャツへしがみ付く手に力が籠められた。
「故郷の、海へ……」


 翌日、俺たちは新幹線の始発でエマの故郷を目指した。青森駅自体には十時半には着いたのだが、そこからエマの生まれ育った漁村へは公共交通機関を乗り継いで行くと丸一日掛かることが判明する。エマはなぜか酷く急いでいる様子で、どうしても今日中にはそこへ行きたいのだと言った。迷った結果俺たちは青森市内でレンタカーを借りることになった。
 シルバーのヴィッツで津軽半島を横断すること三時間。途中道に迷いながらも何とか辿り着いたのは、疎らな民家と海に浮かぶ数隻の漁船のみがある日本海沿岸の小さな村だった。
 エマは車から降りると堤防の方へ駆けていく。車に鍵をかけて俺もその後を追うと、彼女は精悍な顔つきで故郷の海を見つめていた。夏の日差しはきついが空気は東京よりも気持ち涼しく、波は穏やかだった。靡く金髪に、この少女の髪は潮風が一番似合うと思う。
 彼女の話は唐突に始まった。
「育ての親と、実の父親の灰をこの海にまいたんだ。……墓の面倒見れる自信ないし、暗い石の中になんて閉じ込めたくなかった」
 大人びた声だった。
「アタシの父親は日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた。ばあちゃんは何か母国でヘマやらかしたみたいで、逃亡先の日本でじいちゃんと出会って結婚したんだって。じいちゃんはここの役場に勤めてる普通の公務員で、育ての親曰く『すごく情に厚い人』だったらしい。そんなじいちゃんがある日孤児を拾ってきた。それがアタシの育ての親。……父さんの義理の妹」
 海鳥の鳴き声が辺り一帯に響いている。エマはこちらを見ずにただ海を見つめていた。
「父さんはばあちゃんの影響で洋楽にかぶれて、ある日実家を飛び出した。音楽で食べてくんだって単身アメリカに乗り込んだんだよ。バカでしょ? ……そこで母さんに出会って、アタシが生まれたんだけどね」
 そっと、彼女の右手を左手で握る。まだ子供の体温だ。
「でも母さんはある日突然消えた。……本当に突然だったらしい。途方に暮れた父さんは目の青いガキ連れて日本に戻った。アタシ7歳までは東京に住んでたんだ。父子家庭で、父さんとビンボー暮らししてた。……でも、7歳の時に父さん、病気で死んじゃって。その頃にはじいちゃんばあちゃんも死んでて。残されてた身内の中でアタシの押し付け合いが始まった。で、引き取ったのはなぜか血のつながりのない義理のおばさん。……ドラマみたいでしょ?」
 彼女の右手に力が籠る。俺はそれをできるだけ優しく握り返した。
「育ての親は……おばさんは、たぶんアタシのことが大っ嫌いだった」
 潮風が一瞬止む。彼女の頬を一筋の涙が伝った。
「英語で歌うと怒られたんだよ。ここは日本だって。だから歌は隠れて歌うことにして、おばさんの前ではずっとピアノを弾き続けた。おばさん、ピアノの先生だったからね。少し離れた町のスーパーでパートしながら子供たちにピアノ教えて、すげぇ貧乏だったけどちゃんとアタシを育ててくれた。この世でたったひとり、アタシのことを見捨てなかった人。……たった一度だけ、アタシの『思い込んだら一直線』な性格が父親そっくりだって言って、笑ってくれた人」

 エマ、許してほしい。
 傷つけていると分かっていながらこの腕に抱くことを、どうか許してほしい。

「アタシの周りには、バカな愛し方しかできないヤツが多すぎるんだ!」
「……ああ。っ、ああ、そうだな……」
「見返りも求めないで、ただ自分の幸せを犠牲にしてっ。それを、相手は何にも知らないんだぞ!?」
「……そうだなっ」
「おばさんは一生独身だった。父さんも再婚しなかった! レンは!? レンもあの女を思いながらずっとあの部屋で暮らすのか!? 本と写真に囲まれて、いつ来るかも分からない絵葉書を待ち続けるのか!? それでいいのかよテメェッ!!」
 俺はエマに縋った。彼女は俺から離れようともがき続けたが、解放してやることはできなかった。可笑しな話だ。俺はずっと一人で立ってきたはずなのに、今はたぶん一人では立てない。
 寂しいんだ、エマ。
「アタシが……サメだったら良かったのに……」
 抵抗の手を弱めたエマは、涙ぐんだ声でそう言った。
「そうすれば、惚れた相手のために自分を犠牲にする馬鹿な人魚姫にも、惚れてくれた相手を傷つけるだけの王子にもならずに済んだのに……」
「鮫になれば、そうせずに済むのか?」
「……レンに噛みついて、海の底まで引きずり込むんだ。レンはきっと傷つくだろうけど、そのかわりずっとアタシがそばにいる。寂しい思いなんてさせない。アタシは父さんにも母さんにもおばさんにもなりたくない。……レンにもなりたくない。だからサメになりたかった」
「……なれるさ、エマなら」
 この少女に深海へ引きずり込まれて死ねるなら、それもいいかもしれないと思えた。きっとエマのことだ。後生大事に俺の抜け殻を愛でてくれるはずだ。
「でもっ、アタシはサメじゃないんだ……」
 ごめん、ごめんと繰り返すエマにそっと口づけた。堤防に波が打ち付ける。日差しが海面に反射して輝いていた。
 彼女が俺に強く惹かれた理由をようやく理解することができた。亡き叔母や父親と俺を重ねているのだ。彼女の根底で、その二人が幸せに生涯を終えることができなかったことが心残りで仕方が無かったに違いない。だとしたら、俺に出来ることは何か。
「ごめん、ごめんレン……。アタシは、レンをさらってあげられない……。アタシじゃレンに噛みつけない!!」
 エマに噛みつかれる日を大人しく待っててやることか。それとも。
「ごめんなさい……っ」


 いつまでそうしていただろうか。エマの嗚咽が小さくなるころには太陽も少し傾き、夕暮れ時前の一番日差しが厳しい時間帯に差し掛かっていた。俺はエマからそっと離れると、もう一度海へ向き直って呼吸を整えた。そして、渚を見つめながら口を開く。
 おそらくは、エマが一番知りたくて知りたくない出来事を。
「友の恋路を邪魔したんだ……」
 この一言。
 この一言を他人へ告げるのに、十年以上かかった。
「俺は後から好きになった方だった。何度も諦めようとしたが、無理だった。その内、友と彼女の間で深刻な擦れ違いが起こった。その原因と解決方法を知っていたのは俺だけだった」
 エマは、黙って海を見据えている。
「黙っていたんだ」
 友と、精市と彼女の仲が壊滅的になることを、当時の俺は望んでいた。俺の浅はかな判断が、結果として二人の友を再起不能寸前まで追いやった。
 俺ひとりが悪いとは言わない。おそらく、あの時俺たちは全員が可笑しかった。疲れていた。幼かった。……愚かだった。その中でも、俺は特別。
「結果として、友の恋路は実を結ばなかった。俺はその罰を背負って彼女への気持ちは一生告げずに隠し通すことを誓った」
「は?」
 俺の告白に彼女は間の抜けた声を上げた。左を向くと、呆けた白い顔がすぐ横にあった。
「なんでそうなるの?」
「……約束だ」
「セイイチってやつがそれを望んだの?」
「そうだ」
「なんでだよ。ソイツは結婚してるって言ったのはアンタだろ」
「ああ、そうだ。あいつには勿体ないくらい賢く貞淑な妻を娶った」
 その結婚式や二次会に出た記憶は比較的最近のものだ。心の底から幸せそうなアイツを見届けられて本当に良かったと思っている。
 エマは俺の言葉を聞くと眉を顰めた。
「……レンは、ふたり分の罰を背負ってんのか。頼まれてもいないのに」
「そうだ。……頼まれていないがな」
「寂しかったり、悔しかったりしないのか?」
 海鳥が俺たちの目の前を旋回している。どうやら海面に獲物の影があるらしい。
「周りのヤツらが幸せになってく中で、自分も誰かと幸せになりたいって思わないのか?」
「……」
 思わないはずがない。ただ、
「俺は昔から、そのあたりが鈍くてな」
「……どう鈍いんだよ?」
 告げられなかった別れの言葉。独りきりだった転校先の教室。孤独を忘れるためにただひたすらテニスに打ち込んだ。その延長線上にあった王者立海大で、密かに感じたのは疎外感だった。後輩に逃げ場を見出し、その結果彼の命の危機を察知するのが遅れたのは事実。
 全てが空回りだった。とどめは彼女と精市の一件。
「大事な人であればあるほど、自分の気持ちを素直に表へ出せないんだ。肝心なことを告げられない。過去の失敗を数値化して次に生かそうとしても、その時々で状況も人の感情も違うから上手く行くはずが無かった。……人と深く付き合うことに向いていないんだと気付いたのは、いつ頃だっただろうな」
 少なくともそう自分に言い聞かせているだけで孤独感は紛れた。友人がいないわけではない。むしろ生涯の友が何人もいると自負している。だからこそ鈍くあろうとした。自分の感情に、鈍く、にぶく。深入りしないように距離を置いた。
 おそらく俺は、一生分の対人コミュニケーション力とやらを学生時代に使い果たしてしまった。
「……いろいろと考えるのが面倒くさくなってきてしまったんだ。独りでも不幸というわけではないから、俺は遠くから眺めてるだけでいいんだ。その方が安心する」

 途端、先ほど泣き止んだばかりのエマが大声を上げて泣き出した。
「エマッ?」
 今まで聞いたこともない慟哭だった。生まれたばかりの精市の息子を思い出す。もしくは迷子で母親を見失った幼児だ。悲しみを発散させるためではない、悲しくて怖くて仕方がないというような泣き声に俺は戸惑うばかりだった。
「ど、どうしたんだ……?」
 顔を覆うこともなく、エマは大きな青い瞳から大量の涙を流していた。背中や頭を撫でてみたり抱きしめてみるが、一向に泣きやむ気配がない。
 仕方がないので口づけをしてみる。額や頬、唇、瞼に何度も唇をつけた。赤子をあやしている気分だ。収まりの悪い金髪を撫でつけているうちに日も傾いてきた。
 何がいけなかったのかがよく分からないが、とりあえず何度か謝ってみた。すると彼女は弱々しい力で俺の肩を押す。堤防のコンクリートに涙が何滴も落ちた。
「……自分のことが、どうでもいいんだな」
 拗ねた子供のような口調だった。
「……そうかもしれない」
 自分を卑下するつもりは毛頭ない。これでも人より優れた面を多く持っている部類だと思っている。けれどどうしても、俺には人として決定的な何かが欠けていた。
 そう、たぶん。執着心。誰にだって欠陥はある。俺はたまたまそれが欠けていただけの話だ。
「海の底へ、攫ってやれなくてすまない」


 その夜、市内に戻った俺たちは安いシティーホテルに泊まった。俺はそこでエマを抱いた。象牙色の滑らかな肌に舌を這わせ、エマの輪郭を己の脳裏に刻みこむようにして掻き抱いた。エマに俺を覚え込ませるのではなく、俺がエマをいつまでも覚えていられるように。
 収まりの悪い豊かな金髪、澄んだ青い瞳、小さな桜色の唇。発育の良い身体もその体臭も、すべてを忘れないために。甘く落ち着いた声で呼ぶ、その『レン』という発音をいつでも思い出せるように。
 次の日未明にエマは何も告げず部屋を出て行った。狸寝入りを決め込み、引き止めなかったのは他ならぬ俺の決断だ。


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -