人魚姫は男と一時の幸せを手に入れますが
 ヤナギレンジの部屋には、不必要な物は一切置かれていない。
 それは食事や書き物のために必要最低限な大きさの机だったり、1人で寝るのに大きすぎず小さすぎないベッドだったり。服も必要な分しか持ってないからタンスも大きくはない。ただ、本だけは凡人が持ってる数倍の量を持っていたけれど、それも多分彼にとっては必要最低限なんだと思った。インテリアグッズや趣味で使うようなものもほとんど置いていない。ただ、隅っこに立てかけてあるテニスのラケットだけが彼の楽しみなんだと分かった。
 そんな限られた所有物の中で、窓枠に置かれた写真立てに目が行かないわけがない。
 そこにはアタシと同い年くらいのレンが写っていた。芥子色のジャージを着てたり、深い緑の制服を着たりしている。彼の隣には黒い帽子の老け顔がいたり、藍色の髪の嘘みたいに綺麗な男の子がいた。それから、小さくて子供っぽい顔の女の子。
 黒髪で背が小さくて顔が平坦、眼はそれほど大きくなくてとにかく幼い雰囲気だ。典型的な日本人顔の女の子だった。たぶんこの写真を撮った頃はアタシと同い年だったんだろうけど、アタシと並んだらたぶん彼女が小学生に見られるか、それともアタシがおばさんに見られるか。アタシが通っていた中学にもこの程度の女子なら1クラスに何人もいた。そんな平凡を絵に描いたような子だけど、たぶんこの子がレンの特別なんだろうなと思った。女の勘だ。
 そしてレンが風呂に入っていた時に見つけてしまった、並木道の風景が印刷されている絵葉書。そこに書いてある差出人の名前を呟いた瞬間、言いようのない衝動がアタシを襲った。
 たぶん、嫉妬だったんだと思う。

 初日が最悪すぎたけど、アタシとレンの同居生活はだいたい上手くいった。レンは月曜から金曜にかけて大学へ行って、火曜と水曜と土曜は本屋でバイトをしていた。日曜日は完全オフで一日中本を読んでいる。アタシはレンと交代でご飯を作りながら毎日仕事探しのために求人誌を読み漁った。6月中は日雇いでその場で日給を貰える単発バイトばかりをこなしてたけど、7月に入ってからはとある固定のバイトを始めた。時給は900円、土曜日曜は+50円になる。朝8時から夕方4時までの固定シフトで、アタシはたちまち健全な早寝早起き少女へと変貌した。
 本当は深夜12時から朝8時までのシフトも募集されていた。そちらは深夜割増も加わって支給額が非常に美味しくなるのだけど、その時間帯に仕事を入れてしまうとアタシの生活は見事にレンと食い違ってしまう。それだけは避けたかった。
 同じ理由でアタシは日曜日だけは絶対にシフトを入れたくないと希望を出した。その結果アタシは火曜から土曜までの週5日で出勤日を固定されることになった。
「で、何のアルバイトを始めたんだ」
「ん? ラブホの清掃員」
「!?」
 月曜の朝、アタシたちは6時半に起きてご飯を食べる。レンは味噌汁を飲みながら急にむせ出した。
「……な、なぜその仕事を選んだんだ?」
「だって中卒の不良娘ができる仕事ってけっこう限られてるんだよ。しかもアタシの場合いろいろと隠さなきゃいけないことも多いし。だからあまり事情を詮索してこない場所で働きたかったんだよ」
 ラブホ良いよ? 名前と住所と年齢と口座番号書いて適当にオーナーとお話するだけで雇ってもらえた。と言うとレンはそうか、とだけ言ってごはんを口に含んだ。レンのはしの使い方はきれいだ。
「……てっきり」
「え?」
「お前はまたバーなどで歌う仕事を見つけるものだとばかり思っていた」
 アタシはレンの作った出し巻き卵を口に含んだ。レンは台所に立つとたまにおっちょこちょいで調味料の分量を間違えるけど、それがなかったら普通に美味しい料理を作る。
「アタシはもう歌わない」
 口に物を含んだまま喋るとレンは怒るから、ちゃんと噛んで飲みこんでからそう言った。
「理由を訊いてもいいか?」
「飽きたんだ」
 本当の理由を言ってもよかったけど、それを説明するとアタシの生い立ちや母親のことを話さなきゃいけない。それは嫌だった。
「飽きた?」
「そ、飽きた」
 レンはアタシを見定めるような目で見た後、少し考えてまた「そうか」と言った。たぶん納得してないんだろうなってことは分かったけれど、気付かないふりをしてみそ汁を飲んだ。レンの作るみそ汁はちょっと味が薄いけど美味しい。
 レンの生活にアタシがちょっとずつちょっとずつ混ざっていくのは、実感すると気持ちの良いものでもあったけど同時に申し訳なくも思っていた。逆に、アタシの好みや日常の癖がレンによって塗り替えられていくのはなんだか新鮮で楽しい。薄味が好きになったのも本を読むようになったのも、なんだかレンがアタシに色を付けてくれたようで嬉しかった。
 レンは話しかけられたくない時はそういうオーラを出してくるけれど、話をしたい時は自分から話題を振ってくれるから好きだ。思ったより嫌われていないようで安心する。
 アタシはいろんなことをはぐらかしたけれど、レンはアタシが訊けばいろんなことを話してくれた。生まれた場所のこと、幼馴染のこと、テニスのこと、中学や高校の時の友達、大学で今勉強していること。レンはアタシなんかと違ってキラキラした青春時代を過ごしたみたいで、特に彼がテニス部のことについて話している時の表情がアタシは大好きだった。
 けど、そのテニス部の『セイイチ』って人のことを話すたびに少しだけ言葉を詰まらせる。たぶんあの女のことが関わってるんだろうなとは思ったけれど、訊いてはいけないことなのだろうという雰囲気は嗅ぎ取っていた。女の勘というやつだ。誰だって、触れられたくない場所がある。
 アタシが身内のことを話したくないように。
「俺はお前の歌声が好きなんだがな」
 ふとした瞬間に鼻歌を口ずさんでしまうと、レンはまるで愛おしいものでも見るような優しい目でアタシを見つめてきた。何とかして止めたいのに、長年の癖は中々直ってくれない。だからアタシはレンの前でうっかり歌ってしまう度に、ほおを赤く染めながら悲しい気分にならなければいけなかった。
「……歌声だけが好きなの?」
 レンは気まぐれにアタシを抱く。けれどそれは男女間の愛情の証拠にならないから、アタシはいつも渇いていた。アタシはこの人の性格や癖を発見するたびに好きになるけど、この人はたぶんアタシの歌だけが好きなんだ。
 アタシが忘れたくてしかたのない歌だけ。
「そうは言ってないが、やはり歌っている時のお前の声は綺麗だと思う」
 そう言われるのは嫌か? と問いかけてくるところがずるい。学がある人ってたくさんの言い回しを知っているから、本音を隠すのがすごく上手いと思う。彼はその典型だった。
 レンは床に座ったまま、ベッドに横たわるアタシの髪を撫でる。同居を始めて2カ月が過ぎていた。レンの部屋では冷房が付けっぱなしになっていることが多い。
「ねぇ、レン」
 癖の強いアタシの金髪で遊んでいたレンは、返事ではなく視線をよこした。
「レンのお母さんってどんな人?」
「何だ藪から棒に」
「なんか、気になったから」
 アタシは自分の髪を触るそのレンの手を取って指を絡める。レンはしばらく黙ったから口を開いた。
「有り体に言えば放任主義者だな。精神的な束縛を嫌う」
 アタシの指が止まる。
「意外」
「皆そう言う。だが事実だ。……恐ろしく頭の回転が速い人で、知識が豊富という意味合いではなく物事を深く繊細に考えられるという意味で賢い人だ」
「なにそれ、カッコいい」
「他人からすればな。余所の家庭を見ていつも思っていたのだが、母親は少しぐらい心配性で愚かなくらいが丁度いい。事実、父が母を乗りこなせていたとは思えない」
「でも、両親はまだ一緒にいるんでしょ?」
 アタシがそう訊くと、レンはフッと力を抜いた様に笑った。
「父が乗られる羽目になったがな」
「レンはお母さん似なんだね」
「外見は父の生き写しだと言われるが、たぶん」
「会ってみたいなぁ……」
 寝返りを打ちながらそう言った。レンがいる方とは反対を向いて、なるべく心を落ち着かせる。レンが母親のことを語る顔は、冷静に見せかけようとしてても誇らしげなのがすぐに分かった。
 羨ましかった。
「アタシはね、母親似らしいよ?」
「そうか」
「見たことないけどね、母さん」
「……そうか」
「レン」
 いっそこの喉が潰れてくれたらいいのにと思った。そうすればもう、無意識のうちに歌うことなんて無くなるのに。母親の亡霊に怯えなくても済むのに。
「母さんが歌手だったんだ。……だから、もう歌いたくないんだ……」
 レンがベッドに戻ってきてくれたことが分かった。狭いベッドにふたりで横たわる。後ろからギュッと抱きしめてくれる彼は、優しくて残酷だ。でもたとえただの同情心からでも、レンの気を引けるならそれは本望だった。
 この男のそばに居続けるには、自分を強く持たなきゃいけない。
 レンの言動にあの女の影が見える度に泣きたくなる。レンがアタシを見ていないと感じる度に怒り狂ってしまいたくなる。期待させては絶望させるの繰り返し。レンはたぶんそれを無自覚で行っている。
 それでも、アタシはレンを傷つけてはいけない。彼の領域に土足で踏み込んでいるのはアタシなんだから。
 愛撫する指先や体内に入り込んでくる固いものの熱さを実感するたび、アタシは自己嫌悪におちいった。たぶんレンもそうだ。アタシたちは互いをマスターベーションの道具に使っている。ホントに、一途すぎる馬鹿な男。心の純潔をいつまでもたったひとりの女のために取っておいてるんだ。
 じゃあ。じゃあ、レンはアタシのためにどこを取っておいてくれてるんだろう。アタシが急にいなくなっても、いつまでもそこをアタシのために空けておいてくれるのかな。
 考えてて自分の臭さに寒気がした。柄じゃないだろエマ。そういう精神論はどこぞのお姫様たちにでも任せてろよ。

 8月の第3土曜日。5時過ぎにレンのアパートへ戻ると、二階へ続く階段で男がふたり座っていた。くっだらない乙女思考に脳内を支配されてたアタシはそれに気が付くのが遅れる。気付いた時には、アタシはすっかりそのふたりの視界に入ったあとだった。
「お嬢さん、蓮二の同居人だね?」
 男はふたりともスーツ姿で、ふたりとも見覚えがあった。特徴的な外見だから忘れるはずがない。あの写真よりだいぶ成長してたけど、間違いなくレンの隣に写っていたふたりだった。老け顔と美少年。今は厳つい顔のおっさんときれいな顔したおっさんだ。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、一緒に夕飯でもどう?」
 きれいな顔した方が有無を言わせないオーラでアタシを誘う。拒否権はないと思った。
 おっさんたちが連れてきてくれたのは、レンとも一度来たことがあるイタリアンレストランのチェーン店だ。店員は絶対『どういう関係だ?』と思ったに違いない。アタシはカルボナーラを頼んだ。
「俺たちのことは知ってる?」
 注文を終えると、微笑みを絶やさないきれいなおっさんの方がそう問いかけてくる。
「……セイイチとゲンイチロウ」
「すごいね、名前まで知ってるんだ」
「レンはアンタたちのことをとても嬉しそうに話す」
 なんだか落ち着かなくて水を飲んだ。セイイチの方を見ていると喉元にナイフを押し付けられているような圧迫感を感じる。
「なんで俺たちがキミのことを知ってるかっていうとね?」
「まて幸村」
 それは俺が話そう、とセイイチの話を遮ったのはゲンイチロウの方だった。彼は胸の内ポケットから何かを取り出した。それを見たとき、一瞬アタシの呼吸が止まる。
 それは警察手帳だった。
「麻布署生活安全課の真田だ。お前に捜索願が出ている」
 表紙をめくって自分の顔写真のところを見せるゲンイチロウ。アタシは何が何だか分からず、とにかくここにいるのはヤバいと思って席を立とうとすると二の腕を思いっきり掴まれた。
「っ、放せっ!」
「魚住エマ十五歳、青森県出身。住所不定フリーター。……お前は今、自分の親権が誰の元にあるのか知っているのか?」
「知るかっ! あいつらアタシのことたらい回しにしてたクセに今更何のつもりだよっ!?」
「親戚ではない。……お前の現在の後見人は」
 威圧感のある声が告げた名前は、とても聞き覚えがあるものだった。
 あのバーのオーナーだ。
「聞き覚えがあったようだな」
「ちょっと真田、そろそろ放してあげれば?」
「む……」
 中腰だったアタシは力なくイスに座り込んだ。背もたれにもたれかかって、よく分かっていない状況を整理する。
 育ての親が死んだ時、確かアタシの親権は血のつながりも微妙な誰かの手に渡った。アタシはその直後に故郷を飛び出してきたから、詳しくは分からないけど。
 でもオーナーはアタシの親戚じゃない。じゃあなに? その誰かがオーナーにアタシの親権を譲った? そんなことってできるの?
「今お前はあの男の養子ということになっている」
「アタシ何も知らない!」
「あの『Mermaid』とかいうバーで働く際に何か書類にサインしなかった?」
 セイイチの方がアタシの顔を覗き込んでくる。確かに思い当たる節はあったけれど、それは確かに働くための契約書だったはずだ。
「書類偽造か……」
「なんとか立証できないの?」
「できなくはないが時間がかかりすぎる。その前に蓮二が捕まるだろうな」

 低い声が言った言葉を、上手く呑み込めない。

「は……?」
 顔を上げる。セイイチは顔に手を当ててため息をついている。ゲンイチロウはアタシの方を真っ直ぐ睨んでいた。
 息が苦しい。まるで、泳ぐのを止めてしまったサメのように。
「魚住エマ。お前の後見人が、柳蓮二を告発すると言っているのだ」


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